【二十一】

 バルト国の王がようやく婚約者を選んだという噂が広まったのは、わずか二日後のことだった。
 国民はこの朗報に歓喜した。
 それでなくともバルトは、一夫多妻が珍しくない王宮内で王妃以外の妻を娶らない特殊な国なのだ。そのたった一人の王妃すら迎え入れない国王に対し、国民はただ不安に思うばかりだった。
 その王が、王妃となる娘を選んだという。
「そりゃめでたいじゃないか。祝儀は? ああ、忙しくなるねぇ」
 規模ばかりが目に付く城は外装と同じように内装も質素である。それに好感を抱く女は、城下町の片隅で腰を軽くたたきながら朗報をたずさえた知人に笑顔をむけた。
 婚儀が決まれば莫大な金と人が動く。国を挙げての盛大な祭りが始まるのだ。それは国王の戴冠十年式典の比ではない。
 交易で栄えた国には、さらなる富を求めた商人たちが連日のように押し寄せてくることだろう。人が動けば金も動く。この朗報は、国民にとっても吉報であるはずだった。
 しかし、城を見た男は溜め息を落とした。
「……いや、そうもそうも手放しには喜べないみたいなんだよ」
 男は困ったように笑う。
「どうしたんだい?」
「それがな……」
 戸惑いながら男が言ったその一言は、確かに驚くべき内容だった。
 そして、
「だから説得してって言ってるでしょ――!!」
 同時刻、城内。
 連日のようにフィリシアは、エディウスの腰巾着のようについて回るのが日課となっている臣下の一人を掴まえて、限りなく命令に近い懇願をしていた。
「……わかっておる。わしも……その、反対しておるんだ」
「だったらさっさと説き伏せなさい!」
「……ああ」
 うめくように頷いて、男は逃げるように離れていった。その二人のやり取りを遠目から眺めていた侍女たちが小さく肩を震わせている。
 フィリシアがいないときには汚らわしいだの王妃にはふさわしくないだのと文句だけを垂れ流す男たちが、いざ彼女の前に来ると萎縮したように口ごもる姿がどうにもおかしくて仕方ないらしい。
 フィリシアは困り果てて歩き出す。
 エディウスは公務に忙しく、日中はめったなことでは会えないのだ。会おうとするなら夜――説得をこころみようと口を開くものの、なんだかよくわからないうちに悪趣味なベッドで朝を迎えている。
「これじゃ私が夜這いに行ってるみたいじゃないの」
 そして仲良く寝こけて侍女に起こされているのだから世話がない。すでに王妃がいるならエディウスの体裁はつくろえるのだが、彼は過去にただの一度も正室候補となった娘たちに興味を示さなかった。
 フィリシアにとっては何よりも嬉しい事実だが単純に喜んでばかりはいられない。踊り子を正室に迎えたとあっては、バルトの名に泥を塗る可能性がある。
 大国が他国から軽んじられるわけにはいかないのだ。この国は、己を守る盾さえ持たないのだから。
 旅の途中で立ち寄った国々には、絶えずきな臭い噂が流れていた。
 バルトのような平和な国などそう多くはないのだ。
「わかってんのかしら……」
 溜め息をついて視線をあげる。広い城内を歩き回るうちに中庭の近くまで来てしまったらしく、フィリシアはついでだと言わんばかりに足を向けた。
 中庭はアーサーの憩いの場のようだ。サボっている時はそこにいることが多い。いない場合は城外、城下町だったり森の中だったりと、捜すのは至難なほど行動範囲が広い。
 しかし最近は中庭がもっぱら好みらしく、手入れされた木陰で寝転んで悠長にも雲を眺めていた。
「またこんな所で」
 呆れたように顔をのぞきこむと、彼は体を起こした。
「いっしょにどう?」
 彼は自分の隣をかるく叩いてみせた。素直に従うと、彼は再び寝転んで空を見上げた。
「教育係にどやされない?」
「慣れた」
 そういう問題じゃないだろうと嘆息しているとアーサーの手がのびてきた。
 指先がフィリシアの頬に触れる。
「ねぇ、父上って、誰が?」
 素直な疑問を投げると、少年は小さく笑った。
「なんの事?」
「……私にはそう聞こえた」
 触れた指先が頬を包む。アーサーはただ笑って瞳を閉じ、ふいに寂しげな瞳をフィリシアに向けた。
「後悔されるのは寂しいから。これくらいはね? 協力しようと思って」
 初めてみせるその顔は、ひどく頼りなげな表情だった。それ以上の質問ははばかられて押し黙っていると、唐突に頬を包んだ指が離れていった。
 不思議そうに見おろしたアーサーの顔がどこか違った場所に向いている。その視線を辿るよう見た先には、渡り廊下の途中で足を止めるエディウスの姿があった。
 ゾクリと背筋に冷たいものが走った。
 立ち尽くす銀の髪の男は冷めた目を向けていた。深い紺碧の瞳は、光の加減なのか漆黒にすら見える。
 表情のない顔は青白く、死者のそれを連想させた。いつものように笑顔を向けようとし、フィリシアはそれに失敗して言葉さえ失う。
 なにか、声をかけなければならない。
 そう思えば思うほど、言葉が喉の奥に絡み付いてうまく出てこなかった。
 穏やかとは言いがたい空気をまとった彼は、まるで見知らぬ男のようだった。初めて目にするその姿にフィリシアは動くことすらできなかった。
 深淵がある。
 常闇だ。人が足を踏み入れてはいけない領域だ。
 ――今は闇の中、たった一人で戦っているよ。
 はるか昔、そう語る老婆の声をフィリシアは耳にしていた。
 違う、とフィリシアは心の中で否定した。
 戦っているのではない、彼はすでに囚われているのだ。
 不意に重なった老婆の記憶に、フィリシアは苦々しく否定することしかできなかった。確信という確かなものではないが、直感が彼女にささやきかける。
 そして、捜し求めた相手に出会えた事実に驚喜すると同時に、今朝別れた時とはあまりに違うその姿に絶望する自分がいた。
 急に両肩に重いのもがのしかかってきたような気がした。
 大きな国の命運――それがバルトの未来であるのなら、彼女が背負えるような易しいものではない。
 言葉もなく、ただ息苦しいほどの不安と緊張に包まれた空気がゆるりと動いた。
 エディウスがゆったりと歩き始める。
 闇をまとうようなその横顔をフィリシアは茫然と見つめていた。

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