【二十】

 人肌が心地よいと知ったのは、もうずっと以前のことだった。
 ここに不本意と付け加えるのを忘れてはいけない。少なくともフィリシアは今、本気でそう感じていた。
 柔らかな日差しの中で身じろぎし、いまだに微睡む思考のまま視線をあげる。
 これ以上ないほど間近には、穏やかな寝息をたてる玲瓏な顔があった。
「母親似?」
 半身を起こして寝顔を魅入っていると、肌触りのよいシーツが素肌を滑り落ちる。それを気に留めることもなく、フィリシアはまじまじとエディウスの顔を見おろした。
 前王の肖像画とはあまり似た雰囲気がない。そういえば、腹違いの弟であるアーサーも母親に似てか、前王の面差しはなかった。
 寝入る男の頬にそっと手をそえると、軽くドアを叩く音が聞こえた。
 はじかれたように振り向いた先で、ドアを開けた侍女が言葉を失って頬を染める姿が見えた。
 理由を問うまでもない。
 フィリシアは朝日にさらした裸身を慌ててシーツで隠し、とってつけたような愛想笑いを侍女に向ける。
「失礼いたしました!」
 深々と頭をさげた侍女は、己の用件も忘れて慌てふためいてドアを閉めた。その様子を茫然と見つめ、フィリシアはすぐに我に返っていまだに寝こけている男の肩を激しくゆすった。
 名を連呼しているとエディウスが小さな唸り声をあげる。
「どうした……?」
 彼は夢うつつで問いかけて、のばした腕をフィリシアの肩にまわして引き寄せようとした。
「起きなさい!!」
 もげるほど力一杯鼻をつまむと、エディウスの手がそろそろと去っていく。
「午前の予定は!?」
「……賓客が二件に、議題が……あった、ような……?」
 まだ覚醒していないのか、ぼんやりとフィリシアを見上げて鼻をさすり首をひねっている。
「さっさと侍女呼んで支度なさい! 私はさっきの侍女捜して口止めしてくる」
「さっきの?」
「いいから起きる!!」
 天蓋つきの品のない豪華なベッドから降りようと体を起こすと、不意にエディウスの手が彼女の腕を掴んで強引に引き寄せてきた。
「もう少し」
 怒鳴ろうと口を開くと、エディウスが耳元でささやきかける。
「もう少し慣れているかと思った」
 何をさしての言葉かを理解した瞬間、頬が熱くなった。
 こぼれた言葉は本音なのだろう。本来なら踊り以上に卓越されるはずの技術が、フィリシアの場合はさほど上達していない。
 それは彼女が踊り以外のことで収入を得ていなかったことに他ならないのだが、面と向かって言われるにはいろいろな意味で失礼な言葉でもある。
「悪かったわね」
 気分を害し、噛みつかんばかりの勢いでエディウスを睨み返した。だいたい彼だって、誘惑の多い立場にありながら、さほど慣れた様子はない。
 一国の王の寵愛を受けるべく彼の寝所に訪れた女は多いだろう。そんな身分でありながら、どちらかというなら臆病すぎるほどで、一線を越えるのに一苦労したのだ。
 が、そんな無粋なことは口に出すことはせず、フィリシアは腕を振り払ってベッドを降りた。
 なにかが視界をかすめ、フィリシアは床に落とされた衣服を拾う手を止める。
 燭台のわきに、見目鮮やかな青い光を宿す石があった。
「……綺麗」
 己が隠し持つ鍵には赤い石が埋め込まれている。血を思わせるその石とは違い、青い石は光をいっぱい受けてさまざまな蒼を演出している。
「気に入ったか?」
 寝台からの問いかけに、フィリシアが笑った。
「あなたの瞳の色みたい」
 光を受ければ光で返し、闇を受ければ闇を返す。深い色に染まるがゆえに他の色に染まることなく光と影を映し出す――。
「首飾りにするか」
「どうせなら短剣にして。便利がいいわ」
「……剣か」
「飾り物に見えるくらい綺麗なのがいい」
「わかった、そうする」
 ひとつ頷くエディウスにフィリシアは小さく笑った。国王の趣味が銀細工だと冗談めいた話を小耳に挟み、少しそれを想像しながら手早く着衣してドアに向かった。
 大国の王の趣味が銀細工収集というのも奇妙な話だが、彼はどうやら収集家ではなく作り手らしい。
 手作りならどんなものでも嬉しく受け取るだろう。そんなありもしない未来を想像して苦笑し、
「いい? 着替えたら謁見よ」
 のっそりと体を起こすエディウスに言葉をかけて、頷く姿を確認してからフィリシアは赤絨毯の敷き詰められた廊下へ出た。
 行く先々で視線が突き刺さる。
 口が軽い侍女だったのかとフィリシアは青ざめた。いままでは辛うじて噂にとどまっていた一件が今朝のことで確実に変わってしまっただろう。
 それは、あまり喜ばしいことではない。
「フィリシア」
 青ざめて広い廊下の真ん中で立ち止まると、あっけらかんとした声がかけられた。
「あの兄上がとうとう陥落したんだって?」
 中庭の数少ない石像に腰掛けて、アーサーが笑顔で手を振っている。青ざめたフィリシアの顔が土気色になった。
「な、なななんで――!?」
「いやぁ、その気にさせたかいがあったなぁ」
 満面に笑みを浮かべ、アーサーは石像からおりて軽い足取りでフィリシアに近づいた。
「毎日切切とフィリシアのよさをいてみたんだけど、なかなか効果が表れなくて焦ったよ。兄上にもようやく恋の季節が到来したんだねぇ、めでたい」
「めでたくない――!! なに考えてるのよ!?」
「なにって、兄上の幸せを」
 ケロリと言われ、脱力した。個人の幸せは大切だろうが、国の統治を任された者がその大任を背負ったまま悪評をたてられる訳にはいかない。
 それが真実だとしても、隠さねばならない時もある。
「とにかく、軽はずみなことしないでよ! 吹聴もしないで! あの侍女捜して口止めしなきゃ」
「……」
「……なによ」
「うん。――は、いい人を見つけたな、って」
「え?」
 小さく耳に届く言葉を聞きなおそうとしたフィリシアの視界に、見たくもない一群が飛び込んだ。彼女は息をのみ、アーサーをちらりと見てからその体を建物に向けた。
 王城に籍を置いているにもかかわらず、彼らはずいぶんと質素な服装をしている。おそらくはエディウスを立ててのことだろうが、いっそうフィリシアは肩身が狭い気がした。
「娘」
 いつもエディウスのかたわらに控えている臣下の一人が重々しく厳しい口調で呼びかける。
「王が婚姻を結ぶとおおせだ」
 侮蔑をこめるようなその表情はまっすぐフィリシアを射抜く。しかし彼女は、大国の未来を憂いた忠実なる臣下や、驚きを隠そうともしないその場に居合わせた兵士、侍女とはまったく別の表情をしていた。
「な――……」
 ふるふると、誰の目から見ても明らかにフィリシアの肩が揺れた。
「なに考えてるのよ、あの人は――!!」
 それは誰もが呆気に取られるほどの怒声である。
「冗談じゃないわよ! 踊り子と婚姻を結ぶ王様がどこの国にいるのよ!?」
 本来なら歓喜すべきこの快挙に少女は顔を真っ赤にして憤慨している。そのあまりの反応に、臣下一同は彼女をはずかしめるために用意した言葉の一切を呑み込んだ。
「身分違いもはなはだしい! 国民が祝福するはずないでしょ! どこかの王女を見初めて婚姻を結んで、踊り子は側室かそれ以下のあつかいが妥当よ!」
 確かに彼女の言う通りだ。
 踊り子は金で体を任せ、王の御前に立つことすら許されないような汚らわしい女たちなのだ。
 それが王城で一室を与えられ、あまつさえ正式な婚姻を結び未来の王妃となる。その事実を諸国がどう受け取り、大国がなんと噂されるかなど火を見るより明らかだった。
「説得してよ」
 フィリシアは鋭く男たちを見つめ返した。
「婚姻を結ぶなら相応の相手を選ぶようにって、ちゃんと説得してください」
 まるで人に物を頼むような態度とも思えないが、鼻息も荒くフィリシアはそう告げる。いままでバルトの王妃にと選んできた姫とは明らかに毛色の違う少女は、意志の強い黒瞳をそらす事もなくまっすぐに男たちに向け続けている。
「そ――それは、もちろんだが」
 臣下の一人がようやく頷いた。
 もちろんそのつもりだが、か弱い守られるばかりの受け身の姫では、心もとないと思ったことは事実だった。
 エディウスが頼りないというわけではない。
 そうではないが、彼は危うい。
 誰もがそう感じ、誰もがその危機感を抱いていた。
「もちろんそのつもりだったが」
 臣下たちは顔を見合わせる。エディウスの唐突な言葉に混乱したが、もしかすると頭ごなしに否定するのではなく、しばらく様子を見る必要があるのではないかと各々が心の中でつぶやいている。
 踊り子でありながら単身で王城に住まう彼女の度胸は、誰もがそれなりに買っていたのだ。
 そんな男たちの心情を知らずフィリシアはわずかに首を傾げた。嬉々としてエディウスのもとに向かうだろうと思っていた臣下たちが、困惑したように小声で言葉を交わす姿が奇妙だった。
 なんだか嫌な胸騒ぎがする。
 逃げ出したい心境に陥りながら、フィリシアは背後を見た。
 静かに事の顛末てんまつを見守るアーサーは、フィリシアの視線を受けてにっこり微笑んだ。
 臣下たちが訪れる前に訊きそびれた問いが心の中でぐるぐる回る。
「父上は、いい人を見つけたな」
 少年は、確かにそう言ったのだ。

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