【十九】

 最近妙にアーサーが耳打ちしてくる。その多くは、フィリシアに関してのことだった。
 やけに肩を持つなと内心いぶかしみながらエディウスは中庭に視線をやる。二人はよく、そこで肩を並べてなにかを話し合っていた。
 歳が近いせいもあるだろう。気安そうに話し、そしてふざけあって笑っている姿を何度も目撃していた。
 フィリシアは毎夜エディウスの元へ訪れるが、それは取り上げられた剣の所在を聞くためのものだ。剣自体はわかりやすい場所においてあるが、フィリシアがそれに気付いていないということは、衣裳部屋にさえ入っていないに違いない。
 この暮らしを気に入って、少しでも長く逗留とうりゅうしてくれればいいと思っていた。なかなか気の利いた言葉をかけられないのはもどかしいが、その時間が息苦しいと感じたことはない。
 ただ、アーサーとともにいるときのフィリシアのように、彼女を笑顔にしてやれないことに焦りのようなものを感じた。
「国王陛下」
 不意に視線をあげてフィリシアが笑む。
 その彼女の腕をアーサーが引き、なにかを囁きかけると、途端に彼女は怒ったような表情になった。
 しかしそれが本気でないことはすぐにわかる。
「……困ったものですな」
 臣下の一人が溜め息混じりにつぶやく。フィリシアが城に来てからというもの、アーサーは頻繁に姿を消して教育係を困らせていると耳にした。
 彼にはまだ学ぶべきことが多くある。だが、彼を王子として扱わない希少な存在は物珍しく、フィリシアはつねに興味の対象であるらしい。
「見聞を広めるのは結構ですが、下賎者と馴れ合うのもほどほどにしていただかないと」
 別の一人が口を開いた。
 遠目にアーサーを見てはいるが、その言葉はエディウスに向けられたものだろう。
 毎夜の逢瀬をこころよく思っていない人間などいくらでもいた。正室がいたうえでの行為ならただの火遊びと笑ってすませただろうが、現状ではそういうわけにもいかない。
 このまま彼女がここにとどまれば立場を悪くするだけだろう。わかりきった答えだが、割り切ることもできずに視線をはずした。
 気鬱な毎日が繰り返される。
 それでも夜は気が晴れた。
 月明かりに誘われるように舞う踊り子は、一般的には娼婦と認識され、うとまれることさえあるのに、彼女はそんな空気を微塵も見せない。
 洗練された舞は芸術だ。魂すら恍惚と溶けていく。
「国王様」
 夢を見るように演舞に魅入っていたエディウスは、フィリシアの呼びかけに慌てて手をのばしてバルコニーから彼女を引き上げる。
 昼間は気が狂うほど長いのに、なぜ夜はこれほど短いのか。
 いつものように寝室へと向かうフィリシアの背を見つめながら、我知らず溜め息をつく。
 以前は夜のほうが長かったように思う。
 その時間をつぶすためにクカと呼ばれる麻薬を常用した。だが、多くの者になんらかの効果があるはずのその麻薬は、なぜかエディウスに効くことはなかった。
 使えばウェスタリアを思い出すだけだというのに、それでもエディウスは長すぎる夜に我慢ができずに白くただれていく部屋に身を沈めた。
「どうしたの?」
 目の前の少女が首を傾げている。
 彼女が来てからクカを焚かなくなったなと、エディウスはぼんやり考える。そして、心の内を悟らせないように軽く口を開いた。
「昼間はアーサーと?」
「ええ、まぁ……いろいろ教えてもらってて」
 珍しく言葉を濁す。仲良くじゃれあっている姿はたびたび目撃され、フィリシア個人を詳しく知らない者たちは、二股をかけ国を滅亡に追いやる悪女だとささやきあっている。
 だが実際は――少なくとも、エディウスに対しては色仕掛けで迫ってきたことなどない。妾の立場を欲しがるそぶりもなかった。
 ただ、アーサーとの関係はわからない。
 いままで異性に対してあまり興味を示さなかったアーサーがことあるごとに話題に出すのだから、彼自身がフィリシアに好感を抱いていることはわかるが、それがどういった意味合いであるのかを確認するほどの勇気はなかった。
「楽しそうだな」
 本心を隠してぽつりともらすと、フィリシアはひどく驚いた顔をして椅子に腰掛け銀食器に盛られた果物を一粒手に取った。
「そこそこにね」
 曖昧に返して果物を口にする。考えるように噛み砕き、少し満足そうに笑った。どうやら果実を気に入ってくれたらしい。
 そうしていくつか口に運び、彼女は剣の所在を訊くこともなくいつものように席を立つ。
 簡単な挨拶だけで部屋を後にしようとする彼女を呼び止めると、不思議そうに立ち止まって、そして立ち尽くすエディウスのもとまで戻ってきた。
「国王陛下?」
「……エディウスと」
 わずかに目を見開いて彼女が躊躇うのがわかる。戸惑う理由はいくつか考えられるが、その言葉を聞く勇気もやはりなく、エディウスは彼女の体を引き寄せた。
 なぜこれほどまでに臆病なのか。
 相手をいくらでも蹂躙できる立場にありながら、こと恋愛に関しては臆病すぎるほど臆病になる。
 自分が向ける感情と同じものを相手が向けてくれるとは限らないと、幼いうちからその身をもって知りすぎたせいかもしれない。
 過ちの代償がいかに大きくなるのかを事あるごとに突きつけられてきていた。
 結果、さまざまなことを割り切って考えることができず、彼はただ己の中に閉じこもってきた。
「エディウス」
 不意にこぼれた言葉に彼は目を見張る。見上げる漆黒の瞳が優しい色をたたえていた。
 遠慮がちな手がのびてきて、そっと頬を包み込む。そして、今度はエディウスが彼女に引き寄せられた。
 柔らかく触れた唇は甘い香りをのせてきた。
「明日も来ていい?」
 触れるばかりの口付けのあとフィリシアが真剣な表情で初めてそう問いかけた。
「ああ。……待っている」
 ようやく返すと本当に嬉しそうに少女が微笑んで踵を返した。それが答えなのだと気付き、エディウスは彼女の出て行ったドアを見つめた。
 全身の力が抜ける。
 王位を継承した十年前の戴冠式典でさえこれほど緊張はしなかっただろう。
 エディウスは茫然と己の手に視線を落とす。
 不思議な高揚感と充足感に笑みがうかんだ。
 ただ夜が待ち遠しかった。
 そしてその夜から、二人の関係はゆっくりと変化していった。

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