【十八】

 戴冠十周年を祝した式典が終わってからずいぶんたつが、フィリシアはいまだにバルトの王城の一室に寝泊りしていた。
 舞姫と呼ばれた彼女はさまざまな土地をあてどなく彷徨う。いまだかつて、一度もその移動速度に噂が追いついたことがないと言われるほど、彼女の旅はあわただしい。
 その彼女が王城の一室に滞在している。
 しかも、夜な夜な踊って姿を消すとあっては、平和で退屈しきった城の者が注目しないはずはない。
 消える場所が国王の寝所であることは知られている。一部の人間たちには、色仕掛けで国王に取り入ったのだと下世話な陰口までたたかれる始末だ。
 しかし、実際にはそうではない。
「し、仕方ないじゃない。大事な剣取られちゃったんだから」
 踊り子というだけで締め出しを食らった報復に国王の鼻をへし折るつもりだった。もっとも得意とする剣舞で魅了して、せせら笑ってやるつもりだった。
 剣舞は人に見せるなと言われている手前、披露したのは戦いに使うものではない。それはあくまでも人の目を楽しませる演舞であって、本来彼女が舞う抜き身の剣舞≠ニは違う。泉でそれを見ていたエディウスにはその違いなど一目瞭然だろうに、彼は迷うことなく剣を取り上げるよう兵士に命令した。
 夜な夜な舞っているのは、取られた剣を返してもらうための交渉だった。
 そう、そのつもりだった。
 フィリシアは今、エディウスから好きに使っていいと伝えられた衣裳部屋にいる。その部屋は彼女が使用している部屋の真向かいにあり、なかなかに広い。
 そこには、まず間違いなくフィリシアのために用意されたと知れるドレスが血の気が引くほど並んでいる。
「こ、怖い……あの人なに考えてるの……?」
 温和な仮面の下になにかあるようには思えないのだが、これが素直に善意と呼んでいいものなのかは疑問だった。
 ドレスの中には舞に使えるような大胆な衣装まであった。
「うわ……これ、ぴったり……」
 体に当て、うめくようにつぶやく。別段嫌というほどの拒絶はないのだが、それにしても不気味なことには変わりない。
「これは演舞用……」
 彼女はどうしても視界の隅で燦然さんぜんと輝いてしまうモノから意識を逸らせるように、近くにある高価な品々を手にとっては独り言を繰り返す。
 そしてそれに飽きると、ようやく視線を気になって仕方のなかった方角へやった。
「なんでここにあるの?」
 そこには見慣れた二振りの剣があった。
 派手な装飾をほどこした鞘を見たとき、多くの者が剣身すらも偽物だと判断して油断した。
 フィリシアは剣を手にしてゆっくりと鞘から抜く。
 剣の師匠から譲り受けたそれは、刃こぼれもなく丁重に棚のひとつに納められていた。
 見付かったのだからそれを手にこの城を出ればいい。
 柄を握りしめ、フィリシアは双眸を閉じる。
 わずかに乱れる鼓動に苦笑がもれた。
 裏庭の一角がエディウスの寝所から見える場所なのだと知ったときから、剣を返してもらうための交渉に使えると思い、フィリシアは月明かりのもと彼に舞を披露していた。
 目的が摩り替わったのはいつだったのか、すでに彼女自身もよくわからなかった。
 部屋にこびりついていたクカの香りが日に日に薄くなっていく。それに安堵し、剣の所在を聞くことさえ忘れていた己に気付く。
 交わす言葉は本当に些細でそっけないものばかりだというのに、夜が来るのが待ち遠しく思える日々が続いていた。
「……あの人かもしれないの。ずっとずっと捜してた人――」
 それを確かめるまでは城を離れる気にはなれなかった。いや、別人だとわかっても離れられるかどうか。
 フィリシアは意を決するようにもう一振りの剣に手をのばし、物陰に立てかけるようにしてそれを隠した。
 下手な工作だともう一度笑って、フィリシアは衣裳部屋をあとにした。長い廊下で誰かとすれ違うたびに好奇の目を向けられる。
 それは彼女が舞姫≠フ異名を持つ踊り子であり、国王の部屋に通う娘でもあるからだ。
「……実際なにもないんだけどね」
 最近ではエディウスが気を利かせて飲み物や果物を用意してくれているが、これといって親密な会話に発展することはなかった。
 どうやらエディウス自身そういった色事が苦手な人間らしい。あれでは臣下が苦労して当然かと、自分の立場を忘れてフィリシアはしきりと同情した。
 そんなことを考えながら廊下をしばらく歩くと、鮮やかな小花の咲く広い中庭に出た。
 誰の趣味なのか、王城にはふさわしくないほどずいぶんと可愛らしくまとまったその場所をぶらぶらと歩く。
 いつもなら食事にありつくために演舞の場所を探す時間帯だが、黙っていても食事が出てくるのだから何もやることがない。
 これでは体がなまってしまう。
 小さく溜め息をつくと背後から人の気配が近付いてきた。
「フィリシア、かくまって!」
 元気な声が叫ぶなり、緑の塊が背の低い植木の中に突っ込んでいった。
 唖然とそれを見つめていると、はるか後方から怒声がアーサーの名を呼び散らしていた。
「アーサー王子はいらっしゃいませんか!?」
 目を血走らせた中年男が細長い棒を打ち鳴らしながら問いかけてきた。
「こっちには来てないけど」
 形相に絶句しかけたフィリシアが慌ててそう答えると、男は礼も言わずに遠ざかっていった。
「ありがとう、助かった」
 男が完全に見えなくなると植木の枝をへし折りながらようやくアーサーが顔をあげた。髪も服もすっかり薄汚れている。
 ここ数日で王子らしからぬ行動が多いことを知ったフィリシアは、やはりとても王子とは思えない服装の少年に視線を戻した。
「……どうしたの?」
「ん? 帝王学サボったら、ちょっと殺気立っちゃって。たった十回くらいでなんでああも怒るのかな」
 エディウスとともにこのバルトを支えていくであろう少年の言葉にフィリシアは呆れてしまう。
「でも、もしかしたら別のことかも。……どれかなぁ」
 小さくうなりながらアーサーは虚空を睨む。ずいぶんと教育係泣かせの性格らしい。国王といい弟といい、巨大国家と名をはせたバルトもその内情は意外と大変なようだ。
 親近感を抱きながらフィリシアは微笑した。
 その笑顔からなにを感じ取ったのか、アーサーは小枝とゴミを叩き落として近付いてきた。
「フィリシアって、ずっとここにいるの?」
 唐突な質問に不思議そうに視線を向けると、
「兄上のこと好きなんだろ?」
 と、そう続けた。
 言葉を理解するよりも早く頬に朱が散った。踊り子という立場を卑下するつもりはないが、大国の王に恋情を抱くなど馬鹿げている。
 一国の王女ならいざ知らず、あまりに身分が違いすぎた。瞬時にからかわれたと判断して睨みつけると、アーサーはしゃがみ込んで近くの小花をつまんでいた。
 その横顔にはあざけりの表情はなかった。
「兄上、鈍いんだよなぁ。絶対気付いてない」
 アーサーは考えるようにつぶやいている。
 気付く、気付かないの問題ではないだろう。比べるまでもなく身分が違いすぎるのだ。手が届く場所にいるという事自体が奇跡なほど。同じ部屋にいて、言葉を交わすなどまずありえないほどに。
 考え込むアーサーがひどく遠いような気がした。
 思いを告げることはおろか、本来なら視線すら合わせることができないほどの相手なのだ。
 そのことに、アーサーは気付いていない。
 それが壁というものだろう。
 ふと顔をあげる。ゆらりと広い廊下を歩く人影を見つけて、フィリシアは瞳を細めた。
 銀の髪が柔らかく風と踊る。
 高貴なその姿は、まるで一枚の絵画のように秀麗で硬質だった。臣下に守られてゆったり歩くエディウスを見つめ、フィリシアは唇をきつく噛んだ。
 身分が違いすぎる。
 ――はじめて、自分の立つ場所を悲しく思った。

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