【十七】

 香をたこうとして、エディウスは考えるようにその手を止めた。
 外はすでに闇に覆われている。一つ溜め息をついて月光に誘われるようにバルコニーへと足をむけた。
 風が木々の間をすり抜け、その風は彼の銀髪を優しく撫でていく。穏やかな夜風にしばらくあたり、ゆるりと月を見上げると、木々のざわめきとは異質な音がエディウスの耳に届いた。
 音の原因を探ろうと見渡し、彼はすぐさま裏庭の光景に目を奪われた。
 部屋着姿の少女が風の音にあわせて舞っている。本当に踊ることが好きなのだと知れるその動きと表情に、自然と心すら穏やかになっていく気がした。
 舞姫と呼ばれる少女は、弟のアーサーと同じ十六歳だった。
 しかし、その肝のわりかたが半端ではない。
 たかが踊り子風情と小馬鹿にした臣下たちがなにかの拍子に動揺する姿をよく見かけた。下賎の出と高を括った彼らが、確かな自信に裏打ちされた少女に気おくれして返す言葉すらなくし、そして無様に狼狽えたのは一度や二度ではなかったと聞く。
 たった一日城にいただけの少女はその立場からもよく目立ったのだが、城内で注目を集めるのはそれだけが原因ではないらしい。
 祭典二日目の今日は、アーサーと一緒に釣りにいったと報告を受けた。
 大切な国儀に弟が代理をたてて逃げたのはすぐに気付いた。だが、彼の気持ちが痛いほどわかったので小言は出てこなかった。
 アーサーはフィリシアとともに川で大物を釣り上げ、嬉々として料理長に食材を提供したらしい。その突飛な報告に、あきれを通り越して苦笑いした。
 戸惑うフィリシアを晩餐に呼び、城で一夜を明かした者たちが帰路につく中、エディウスは行くあてもなく旅を続ける彼女を引き止めた。
 ――少し、強引な手段を使って。
「舞姫」
 ふとつぶやくと、まるでその呼びかけに応えるようにフィリシアが夜空をあおいだ。
 静かな舞の余韻を残し、彼女は驚いたようにエディウスを見上げる。そして、あたりを見渡すとバルコニーの脇まで近付いた。
「そこ、国王様の部屋?」
 確認する口調に違和感を覚えながらも頷くと、彼女の表情があからさまに硬くなる。
 なにかを考えるように口を閉じ、すぐに彼女はまっすぐエディウスを見つめた。
「鍵かけられて中に入れないの。そっちに行ってもいい?」
 バルコニーは二階にある。二階といっても通常の建物よりも天井が高いために必然的にバルコニーも相応の場所にあるのだが、エディウスは彼女の言葉をあまり深く追求せずに頷いた。
 了解を得るとフィリシアは城の外壁に手を触れる。
 どうするのかと手すりから身を乗り出して見守ると、まるで野生の動物のように彼女は石の壁を登り始めた。
 エディウスは立場上いろいろな人間を見てきた。中にはかなり型破りな人間もいた。
 しかし、王城の壁を素手で登ってくる娘は初めてだ。
 呆気に取られて少女が石の壁を登っているのを見ていると彼女が顔をあげた。慌ててエディウスは身を乗り出したまま手をのばしていた。
 安堵するようにフィリシアが微笑する。
 エディウスは伸びてきた彼女の手をしっかりと握り引き上げる。意外なほど少女が軽く感じたのは、エディウスが手を引くのにあわせて石の壁を蹴ったためだろう。
「ありがとう」
 フィリシアは笑顔を見せた。そして、ちょっと困ったようにその笑顔を苦笑に変える。
「手」
「て?」
「放してくれない?」
「ああ」
 言われてようやく握りしめたままだと気付く。普段なら女に触れることすら毛嫌いしているのに珍しいことだと、不思議なくらい冷静に自分を分析しながら彼はようやく彼女の手を解放した。
 フィリシアは服についた埃を払い落としてちらりと部屋に視線を投げる。
「あなたの部屋?」
 再度確認するフィリシアに肯定の意味を込めて頷くと彼女は眉根を寄せた。
 どこか深刻そうに考え込んでいる。部屋がどうかしたのかと疑問に思いながら、エディウスも同じように視線をやった。
 広いだけの殺風景な部屋だ。代々この国の王は寝室に物をおくことを嫌っていて、物を増やせば災いを招くとされ、王の寝所は必要最小限のものしか置かないような慣習になったと聞いたことがある。
 フィリシアはエディウスに視線を戻し、
「剣は?」
 短く問う。熱心に部屋を見ていたのは剣を探していたからかと納得する。剣舞の際に使用した剣はその直後に没収されてエディウスの元まで届けられていた。
 奇妙な形状の刀には、かなり値が張るだろうという装飾がほどこされていた。
「……大切なものか?」
「師匠から譲り受けたものだから。……一応は、大切にしてる」
 よく手入れされた剣を思い出し、一応という言葉に苦笑した。あの二振りの剣は、彼女をここに留めさせるだけの価値があるということだ。
「いずれ返す」
「いずれ?」
「……ああ」
 曖昧にエディウスは笑う。少し怒ったように睨みつけられ、それでも彼女に剣を返す気にはなれなかった。
 まるで駄々をこねる子供のようだと思う。自分の立場を利用して相手をここに留めるよう命令することはできるが、おそらくそんなことで引きとめられる相手ではない。
 大切な剣を取り上げたことによって、彼女は渋々ながらもひと時この城に留まることを承諾した。
 だから、もう少し。
 もう少しだけここにいて欲しい。
 それ以上のことなど望みはしない。
「……手持ちのお金、ないんだけど」
 不意にかけられた言葉にエディウスは彼女の顔をまじまじと見た。
 一瞬なにが言いたいのかわからなかった。
「あんな部屋に泊めてもらっても、払えない」
 宿代のことを言っているらしい。
 エディウスはきょとんとフィリシアを見つめた。大陸一の踊り子といわれた少女が無銭だとは思わなかった。
 フィリシアは舞姫とまで呼ばれた娘だ。その舞を一目みたいと口にする者は多く、金など黙っていても積まれただろう。彼女は莫大な財を築けるはずの立場にあったはずだ。
「お金持つとロクなことがないのよ。……そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「ああ……そうだな」
「だから、お金払えない」
 真剣にそういう彼女がおかしかった。理由はどうあれ、剣を取り上げられているのだから彼女は被害者だ。それなのに意外な言葉を口にする。
 その瞳同様にまっすぐ言葉を返してくる少女。
 ウェスタリアの影を祓う彼女の存在が、知らずに心を慰めていた。
「そばにいてくれればいい」
 穏やかに笑んで素直な気持ちを告げると、なにか言いたげに口を開いた彼女は、ついっと視線を逸らした。
「そういう言葉は……」
「なんだ?」
「……なんでもない」
 搾り出すように言った彼女の顔が心なしか赤い気がした。
「どうかしたのか?」
「なんでもない!」
 短く答えて彼女は部屋を横切る。まっすぐにドアに向かうその後ろ姿を引き止めたくて、エディウスはその背に言葉を投げた。
「明日も舞うのか?」
 フィリシアの足がとまる。
 振り返って、彼女が笑った。
「月が綺麗ならね」
 たった一言を残して、少女はドアの向こうに消えた。
 予想だにしなかった言葉をエディウスは口の中で幾度か反芻し、振り向いて再びバルコニーに出る。気が重いばかりだった式典三日目が急に待ち遠しく思え、彼は無言で月を見上げた。

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