【十五】

 エディウスは誰にも悟られないように溜め息をついた。
 座についてからどれほど時間がすぎたのか記憶すらさだかではないが、午前中のパレードと昼からの式典、そして夜間の宴とつづけば書類の束に埋もれる日常がどれほど平和だったのかがよくわかる。
 もともと派手な催しを好まないエディウスがしぶしぶながら戴冠十周年を執り行なったのは、臣下たちからの懇願につぐ懇願ゆえである。
 だが、式典があと二日も続く事実に内心疲れていた。
 明日は大聖堂かと溜め息混じりに考え、大広間で警備兵に守られたまま集まった人々を見るともなく見ていたエディウスは、次の瞬間、息をのむように身を乗り出して目を見張っていた。
 一流の楽師たちが奏でる音色にあわせ、大広間に作られた人の壁をすり抜けてくる少女の姿があった。
 長い黒髪を結い上げ、きらびやかに飾る少女。少しきつい色彩で整えられた化粧は、もともと鋭い彼女の黒瞳をさらにいっそう強調する。
 大広間の一角がざわめいた。
 動揺する警備兵が少女を追いかけるように室内に入る。
 その一連の動きを、エディウスは無言のまま見つめていた。
 少女には見覚えがある。
 あの時とだいぶ印象は違うが、それでも見間違うはずがなかった。
 ほんの数日前に、ほんの数分ともにしただけの少女であるにもかかわらず、それは鮮烈な記憶となって彼の中に刻み込まれていた。
「あの時の……」
 泉の少女。
 名を聞くことすらできなかった踊り子。
 その踊り子は、別人かと思うほど凛と張り詰めた中に高潔な笑みを見せた。
 広間の中央にたどり着く手前で、少女の手がローブにかけられ投げ捨てられる。柔らかなローブが波打ちながら落ちてくる下を潜り抜けたその肢体は、官能的といえるほど大胆な衣装で飾られていた。
 室内がどよめき、途切れなく奏でられた音が乱れる。
 それすら気に止めた様子もなく、少女はエディウスの前に立った。
 少女が驚いたようにエディウスの顔を見つめる。
 しかし、わずかな動揺を見せた少女は言葉を発することなく優雅に一礼した。
 流れるような独特の動きで顔をあげた時、彼女の顔にあったのは今までの笑みでも動揺でもなかった。
 空気に色がつくような一瞬。
 際立って美しい少女ではないと記憶していたその踊り子は、驚くほどの艶色を以って挑発的な笑みを浮かべた。
 警備兵が一瞬で緊張する。
 派手な衣装で身を固めてはいるが、それらは肌に張り付くようなわずかなものだ。
 警備兵が警戒したのは、少女の腰にさげられた二本の剣。
 まとう衣装と同様に派手な装飾をほどこしたその二振りの長さの違う剣を、少女は両腕を交差させながら手にする。
 ざわりと人々が声を漏らす。
 剣や槍を持った警備兵が手にした武器をかまえる瞬間、エディウスは無言で彼らを制した。
 乱れがちだった楽師たちの指が、警戒を解けと暗に語るエディウスの動きで再び優美な音楽をつむぎ出す。
 剣を鞘ごと持った少女の周りには自然と空間ができた。
 前触れもなく少女の持つ剣が大気を薙いだ。それが始まりの合図だった。
 少女の舞が一流であることを知るエディウスは、奏でられる音にあわせるように踊る彼女に無言で魅入っていた。
 少女の奇抜な衣装に度肝を抜かれていた人々は、すぐにそのことすら忘れて優雅で美しい舞に見惚れた。
 曲調が変わる。
 はじめは楽師たちの曲に少女が踊りを合わせていた。しかし、いつの間にかそれはまったく違うものへと変化していた。
 式典のために集められた楽聖たちが生み出す音が広間を埋める。
 その音色を少女の演舞が至高のものへと導く。
 時間を忘れるほどに魅入られた人々は、舞が終わったあと動くことすらも忘れていた。
 少女の髪にささっていた銀の飾りが透明な音をたてた。
 軽く息を弾ませ、彼女は舞の延長のように優雅に頭を下げる。
 それを見てようやく我に返ったエディウスは、月夜に答えを受け損ねた問いを口にした。
「名は?」
 エディウスの問いかけに、ふっと少女が笑う。
 そして、瞬時にその笑みを消し去った。
「――フィリシア」
 よく通るその声は、世情にうといエディウスさえ耳にしたことのある大陸一の踊り子の名を静かに伝えた。

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