【十三】
「失敗した……」
目の前で酌み交わされるグラスを見るともなく見つめ、カップの端をギリギリ噛んでフィリシアは小さくうめいた。
場所は宿を兼ねた大衆食堂の片隅。
闇の中を迷い迷って森を抜け、ようやくたどり着いた先は世界に名をとどろかせる巨大国家バルトの城下町だった。
交易で栄えた国らしく、大衆食堂にはさまざまな土地のさまざまな人々が集まっている。肌の色や髪の色は言うにおよばず、体格や容貌すら共通点を見つけるのが困難な人間もいた。
すっかり角の取れたテーブルに視線を落とすと、香辛料をたっぷりきかせた色鮮やかな料理が派手な音をたてて置かれた。
「おまちど!」
ハキハキと中年の女性がそう言って、それからふと首を傾げる。
「一人かい?」
幾度となく繰り返されてきた質問に軽く頷いて、フィリシアはカップをテーブルに戻してフォークに手をのばした。
女の一人旅は目立つ上に危険が多い。邪なことを考えている輩にどうしたって目をつけられてしまう。
「ふぅん? まぁゆっくりしておいでよ。ここは安全な国だし、それにもうすぐ祭りがある」
「……祭り?」
「ああ、バルト王の戴冠十年式典。盛大に祝うらしいよ」
「……バルト王って、まだ若くなかった? それが十年式典?」
噂でしか耳にしたことはない。
いまだに妻を娶らぬ氷の美貌を持つ国王。噂には尾ひれがついて、実は種無しだとか男色だとか、稚児趣味だとか本当は隠し子が百人いるんだとか、そんなことすら言われている、どうにも締まりのない一国の主だ。
「エディウス様は御年二十八歳」
女はなぜか誇らしげに胸を張って返し、そして少し困ったように続けた。
「もうそろそろ、王妃決められてもいいのにねぇ」
なんで決めないんだろうとつぶやきながら彼女は踵を返した。
「二十八歳でいまだに正室なし……変な国王さま」
政略結婚で正室と多くの側室を持つのが一般的でありながら、今現在、王妃となる正室すら迎え入れないとなるとかなりの変り種だ。
食事を掻き込みながらフィリシアはそこまで考え、関係ないかと思い直した。
たまたま通りかかった国の裏事情などあまり興味がない。それに、いまは国王よりも森の泉で出くわしたあの男のほうが問題だ。
「失敗した」
小さく舌打ちして、フィリシアは同じ言葉を繰り返す。
素っ裸で踊っているところを目撃されるなんて一生の不覚だ。恥ずかしさのあまりフォークを持つ手が小刻みに震える。
舞姫とまで呼ばれている自分が、あの程度で狼狽えるわけにはいかないと平静を装ってはいたが、無論心中穏やかなはずはない。舞が乱れなかったのは不幸中の幸いだ。
否。
ふと、フィリシアは己の考えを否定した。
乱れなかったのではない。乱れさせられなかったのだ。
男の眼差しが、普通の男たちのそれとはまったく異なっていたから。
銀の髪と紺碧の瞳を持つ男が向けてきたのは、まるで神をあがめるような、穏やかで純粋な賛美を表すものだった。
それはどんな賛辞よりも心地よく酔わせてくれる。
「希少なのよね、あーゆう人」
本当の意味で舞だけを見てくれる人は少ない。
だから、あの状態でも警戒こそすれ気持ちよく舞えたのだ。
あの髪や瞳なら、男は北方の生まれかもしれない。整った容貌は充分に美形と呼ばれる部類のもので、間近に並ぶと身長はフィリシアより頭一個半は高かった。
まとっていた服は部屋着のようだったが、しかし一般人が身につけるにはずいぶん値が張っているように思えた。
舞の最中にそれだけを理解して、盗賊でないことの確認のために曲の最後に蛇剣を男の喉にあてた。
心にやましい事がある男ならば一瞬で目つきが変わっただろう。けれど彼は動じることなく、まるで剣を横にひけとでも言うように見つめ返してきた。
フィリシアは嘆息する。
命にかかわる取引にああも無頓着な人間をはじめて見た。
金に汚い人間は命にも汚い場合が多いが、どう見たって金持ちそうなあの男は例外的に別の部類の人間のようだ。
「……あ、国王も確か銀髪だって……」
まさかねぇ、とフィリシアは苦笑する。
珍しい容姿ではあるが別人だろう。
いくら平和な国だからといっても、一国の王が供もつけず、しかも夜中に部屋着で外をうろつくはずはない。
いままで見てきた要人は、ただひたすら命を大切に生きてきた。中には無骨で腕自慢な者もいたが、そんな人間でさえ丸腰で歩き回ることは稀だ。
これだけ規模の大きな国ともなれば、国王はさぞ物々しい警備の中に身をおいているはずだ。
そう考えるとあの男は、それなりに安全に暮らし、森がいかに危険であるかを知らない貴族あたりか。
夜の森を住処にするのはなにも獣ばかりではない。そこは盗賊たちの縄張りである場合も多かった。もっとも、盗賊たちは人の使う道に罠を仕掛けることが多いから、あんな森の奥の泉になど立ち寄ったりはしないのだが。
「でも、見るからに丸腰ってのは……」
平和な国だと呆れてしまう。
近くに城があったから、彼はそこの主人かもしれない。
そう考えてフィリシアは再び小首を傾げる。
「王城ってどこだろ」
いま自分がいる場所は城下町であることは理解している。そして、城らしい城が森に面している巨大な建造物以外見当たらないことも知っていた。
王城といえば高い城壁に囲まれ、兵士が絶えず巡回し、つねに周囲への警戒を怠らないものだ。
あれが王城なはずはないと、フィリシアは経験からそんな結論に達する。
しかしそうすると、バルトの王城が見当たらない。
「式典の宴、踊ってみたいのに……」
ゆうに三人前はありそうな大皿の上の料理を見つめ、フィリシアは大きく溜め息をついた。