【十二】

「ご苦労様、兄上」
 深く溜め息をつくと、そんな声がかけられた。
 視線をあげる。
 柔らかく揺れる松明の明かりの中に、見慣れた少年が現れた。
「臣下は早く王妃を決めてもらいたいらしいね。イリジアの第七王女も候補にあがってるって――まだ十三歳の女の子だよ」
 婚姻の話をいくつか持ってきた臣下が渋い顔をして去っていくのを眺めながら少年が苦笑していた。
「……政略結婚だ。珍しくはない」
 エディウスは目の前の少年を見つめる。柔らかい栗色の髪に同じ色の瞳、幸いにも母親の容姿をそっくりそのまま受け継いだバルトの第二王子――アーサーを。
 彼は今年で十六歳になる。エディウスが十二歳の時にウェスタリアが生んだ不義の子は、前王が認知したこととイリジアの第三王女である女が産んだ王子である点からも、父親がわからない事実を公にしないまま大切に育てられていた。
「兄上は後宮とか作らないの? 他の国の王様は作ってるって聞くけど」
 どこか面白そうにアーサーが問いかけてくる。
 父である前王が他界し、エディウスが戴冠してバルトの王となった。それに伴って、後継者を残すことも彼の職務の一つに加えられた。
「後宮を作る気はない」
 エディウスはうめくようにそう返した。
 美しく着飾った女たちをはべらせ、王家の血を残すためだけに開かれる狂宴。その女たちがなにを求めるのかを考えただけで、吐き気を覚えた。
 前王が他界した直後、城の暮らしに飽きていた彼の母はなんの未練もなく故郷へと帰り――。
 そして、アーサーの母親であるウェスタリアもまた、故郷であるイリジアへと帰ったのだ。
 ウェスタリアが帰郷してもう十年も経つ。
 しかし悪夢は、いまだに消えることなく彼の目の前にあり続けていた。
「……お前はどうだ、アーサー。気になる相手はいるのか?」
 淡々とエディウスが問いかけると、アーサーは大げさに肩をすくめた。
「教育係みたいなこと訊かないでよ。何人か候補はあがってるよ。そのうちよさそうなのがいたら適当に選ぶ。バルトに輿入れできるなら、相手にとっても悪い話しじゃないだろ」
 どこか割り切ったようにアーサーは言う。
 政略結婚は国と国を繋ぐ大切な架け橋ともなる。大国であるバルトと繋がりを持ちたがる国は多く、そう望む諸国との結束を硬くしたいなら、むしろすすんで婚姻を結ぶべきだ。
 一国の王が妻も娶らず長く一人でいるのは体裁も悪い。
 国を統治する者としては、どこかで妥協をしなくてはならない。
 だが、目の前に過ちの象徴となる少年が現れるたび、傷をえぐられるような気がした。
「もう遅い、お前も休め」
 エディウスはアーサーから視線を逸らしながら言葉をかけた。
 彼は渡り廊下から夜空を見上げ、溜め息をつきながら頷く。
「今日王宮入りしたアガストって小国の王女、オレか兄上の正室候補らしいよ。――お休み、兄上」
 アーサーはそう残して、自室へ足を向けた。
 気が重い。
 事あるごとに王妃となるにふさわしい女を連れてくる臣下。
 美しく着飾った女たちは、上品で貞淑な姿だけを見せてくる。姿形はまったく違うにもかかわらず、それはことごとくウェスタリアと重なっていった。
「国王陛下、湯浴ゆあみを……」
 音もなく近付く侍女を、エディウスは無言で拒絶して歩き出した。
 体を清めることぐらい一人でできる。たとえそれが大国の王らしからぬと言われても、不快なのを我慢して侍女たちのしたいようにさせる気にもならない。
 大浴場にたどり着くとそこにはやはり侍女たちが待っていたが、戸惑う彼女たちもすべてその場から離れるよう命令した。
 体を清めて湯につかり、ぼんやりと天窓を見る。
 月が闇の中に浮いている。
 手を伸ばせば届いてしまいそうなほど大きな月。
 張り詰めるような清雅さに焦がれているわけでもないのに、その月にむかって無心に伸ばし続けていると、不意に背後から物音がした。
 侍女はすべて下がらせたはずだ。
 エディウスは怪訝に思って振り返り、そして、表情を凍らせた。
 湯浴み用の薄い衣をまとった娘が深々と頭を下げていた。
 侍女すべてを記憶しているわけではないが、顔をあげた娘が一介の侍女と違うことなど容易に想像がついた。
 その目的も、深く考える必要などなかった。
 国王である彼の元に送られるほどの娘なら、目的も地位も、わかりきっていた。
「エディウス王」
 鈴を転がすような声に、心が冷えていく気がした。
 無言のまま湯船からあがると、彼女は身をすくませてうつむいた。わずかに震える体は、彼女が自分の意志でここに来たのではないという事を伝えてくる。
 エディウスはそのまま大浴場を出た。
 背後にいる娘が驚いて言葉を探している間にドアを閉め、乱暴に体をふいて用意してあった服に袖を通す。
 この分では、間違いなく深夜に彼女が寝室を訪れるだろう。
 いまだに王妃を選ぶ気配さえ見せないとなると、臣下たちにも焦りが出て当然だった。女遊びに明け暮れていたほうが、彼らにとってはよほど助かったに違いない。
「国王!?」
 廊下へ出ると年老いた男が駆け寄ってくる。おそらくは娘を大浴場へよこしたのも彼だろう。青ざめた男に、
「夜風に当たってくる」
 と短く告げ、エディウスは足早にその場を去った。なにか訴えるような声が聞こえたが、そのすべてを無視して彼は城を出た。
 息が詰まる。
 バルト王家の血がこの国の象徴としてどれほどの意味を持つかは知っている。そして、その血を継ぐ者が今ではエディウスとアーサーの二人しかいないという実がどれほど臣下たちに危機感を与えているのかも充分に理解している。
 しかし、そうはわかっていても祓えない過去がある。
 すべての女が、狂喜して絡み付き、楽しげに彼を奈落へと引きずり落とそうとしたウェスタリアへと繋がっていく。
 快楽と恐怖の象徴となった慕い続けた優しい面差しの女は、いまだに彼の心に巣食いつづけて甘い毒を吐き散らしていた。
 エディウスは空をあおぐ。
 暗い闇に、月だけを浮かべた空。
 木々に囲まれた夜空は圧迫されるように小さく、息苦しそうにも見えた。
 エディウスはふと立ち止まる。
 どこからか水音が聞こえてきた。
 城の裏手に広がる森には滝はない。せせらぎとは違う水音に、彼はあたりを見渡して息を殺す。
 獣の類かと思ったが、しかし水音がずいぶん不規則だった。
 彼は一瞬考え、音のする方角へと歩き始めた。
 不規則に聞こえた水音は、意外にも一定のリズムがあるらしい。そう気付いた瞬間、彼は小さな泉にたどり着いた。
 月光が差し込むその場所は、一点の穢れすら見つけられそうにないほど澄んだ空気で満たされていた。
 その中央に、全裸の少女がいた。
 楽しげに水を弾いて踊る少女はどこか異国の歌を口ずさんでいる。
 指先まで神経を使っているのだろうその動きは、観客が一人もいないこの場で披露されるには惜しいほど完成された演舞。
 木々に隠れるように立っていたエディウスは、無意識のうちに歩き、そして泉のほとりで立ち尽くした。
 弾かれた雫が、月光を受けて光の珠となって輝いている。
 洗練されたその舞に賛辞の言葉すら思いつかなかった。
 魂が抜けたようにその舞を見つめていると、ほんの一瞬少女と視線が合った。
 相手はおそらく踊り子――しかも、かなりの舞い手だ。夜中の泉には誰も来ないと思って一糸まとわぬ姿で踊っていたのだろう。
 人に見られているのを知れば、舞が乱れるどころか悲鳴をあげてもいいはずだ。
 しかし少女はまるで動じた様子もなく、エディウスを無視して踊っている。
 呆れるほどの図太さだ。
 確かに、完成された肢体は恥じることなどないほど自慢の武器かもしれない。踊り子の多くは娼婦であると言われている。体を武器に世を渡り歩くのだ。
 しかし、見られていることを知っているのに、彼女の舞には扇情的な要素が何一つ含まれてきていない。
 色気とはまるで無縁とでも言うように、ただ楽しいと全身全霊で叫び続けるような舞だった。
 少女が身をかがめると長い黒髪がさらりと音を奏でた。
 流れるように移動した指先に、水面からのびた剣の柄が触れる。
 少女の口ずさむ曲が変わる。それは昔からうたい継がれた、誰もが耳にしたことのある名もなき唄。
 少女が手にした波打つような不思議な形状の剣が唄にあわせて風を斬る。
 月光に輝くのは空を舞う飛沫と彼女が持つ剣。なにより、彼女自身が強烈な光となって脳裏を焼くようだった。
 動きのすべてに鋭さとしなやかさを秘める剣舞。一切の思考を奪われながら、ただ憑かれたようにエディウスは目の前で舞う少女を見つめていた。
 その彼女が、いつの間にかすぐ目の前まで来ていた。
 際立って美しいというわけではない娘だった。道端に立っていれば、おそらくは気にも留めないだろう容姿だった。
 それなのに驚くほど鮮烈な印象を与えてくる。
 ややきつい黒瞳を、彼女は臆することなくまっすぐにエディウスに向けた。
 ふわりと舞った次の瞬間、なんの迷いもなく彼女の持つ剣がエディウスの喉元に当てられた。
 彼女が剣を引けば命はない。
 そうわかっているにもかかわらず、恐怖はなかった。それは目の前の少女が剣を引かないと確信していたからではなく、引いてもいいと、エディウス自身が思ったからかもしれない。
「夜盗じゃなさそうね?」
 ふっと、少女は揶揄するように笑う。
 わずかに引きかけた剣を、ほんの一瞬迷っただけであっさりとどけた。
 エディウスは剣が触れていた喉元に手をやった。小さく刺すような痛みが走る。
「薄皮一枚。無料見ただみなんだから、文句言わないでよ」
 やはり少女は踊り子なのだろう。短くそう言って、剣についた水滴を一振りで払い、泉から出てじろりとエディウスを睨んだ。
「いつまで見てるの? むこう向いててくれない?」
 きつい言葉尻で命令され、年頃の娘の体を不躾に眺めていたことにようやく気付き彼は慌てて視線を逸らす。
 舞い同様に洗練されたその肢体には女としてのなまめかしさはなかった。そこにあったのは天上の演舞を世に送り出すために存在する完成された一つの器。
 エディウスは衣擦れの音を聞きながら、月の揺れる湖面を凝視した。
 まるで夜が生み出した精霊のように、大胆でありながら清雅でどこか高潔な少女がいる。
 ウェスタリアと関係を持って以来、初めて不快以外の感情をもつことのできた少女。
「……名は?」
 衣擦れの音が消え、しばらく間をあけてエディウスは問いかける。
 しかし、言葉が返ってこない。
 不思議に思って視線を移動させると、強い風にあおられてザワリと木々が大きく揺れた。
 エディウスが見つめたその先には人影などなく、ただ無限とも思える闇が広がっていた。

Back  Top  Next