【十】

 バルトと呼ばれる大国がある。
 城壁を持たず、すべての人々を等しく受け入れるその国の王は、代々たった一人の女を娶って生涯の伴侶とした。
 これは非常に稀な風習でもあった。
 国王の役目は国の統治は言うにおよばず、象徴となるその血を絶やさないことも大切な職務の一環である。
 国が大きくなればなるほど他国からの干渉が増す状況下で、命の危機は何度も訪れる。ゆえに王は正室のほかにも後宮に数十人という側室を召し抱え、王家の血が途絶えないようにする。
 それによって様々な覇権争いや陰惨な事件が多発するが、最終的に王家の血が残れば万事問題なしとされ、血生臭い真実は闇から闇へと葬り去られていった。
 しかし、バルトはそうではない。
 正室は一人。それ以外の女は娶らない。
 それは古くからのしきたりで、破られたことはなかった。
 ――そう、破られたことはなかったのだ。現国王以外は。
「ウェスタリア様!」
 少年は走る。
 柔らかい木漏れ日の間を。
「ウェスタリア様」
 見事な銀髪が光に透けて眩しいほどに輝いた。バルトの民とは思えない容姿の少年は、しかしこの国の第一王子という皮肉な立場にあった。
「エディウス」
 振り向いた女は新緑の中で優しく微笑む。ほつれた栗色の髪をそっと手で撫で上げるその仕草がまるで少女のようだった。柔和な彼女はエディウスの母親とはまったく異なる。母は北部の生まれで、良家ではあるが田舎の娘でしかない。それがバルトの王に見初みそめられ、側室として召しかかえられた。
 バルトはもともと正室である王妃しか妻にしない。少年の目の前にいる女だけが王の寵愛を受けるはずだった。
 けれど運命は残酷で、正室であるウェスタリアには子がなく、側室として王宮入りした田舎娘が懐妊した。
 生まれたのは第一王子<Gディウス。
 母の容姿そのままに、見事な銀の髪と紺碧の瞳を持った美しい少年。
「どうしたの?」
 ウェスタリアは息を切らせるエディウスに言葉をかける。少年は淡く朱に染まった顔をまっすぐ彼女に向けた。
 自由奔放なエディウスの母は遊ぶことに夢中で彼を一向に気にかけるそぶりすら見せなかった。それとは正反対に、ウェスタリアはいつもエディウスに優しかった。この人が母上ならよかったのにと、少年は心の中で何度も繰り返していた。
「見て」
 エディウスは握りしめていた手をひらく。
 そこには彼の瞳と同じく紺碧の石がのっていた。
 深い蒼は光にかざすと鮮やかに輝く。ウェスタリアは驚いたように声をあげた。
「綺麗な宝石ね」
「十歳のお祝いに父上からいただきました」
 弾む声でそう報告すると、ほんの一瞬彼女の表情が曇った。
「ウェスタリア様?」
「もう十歳になるのね」
 茫洋とつぶやく。どこか絶望するような響きさえ含むその声音に、エディウスは不思議に思って彼女を見あげ続ける。
 彼女は瞳を伏せるとあたりを見渡した。
 そして侍女がいないことを確認するとエディウスの手に金貨を三枚握らせる。
 不気味なほど焦点のあわない瞳で微笑んで、彼女は少年にささやいた。
「城下町へ行って買ってきて欲しいものがあるの。覚えている、エディウス? あのお店」
 彼女に連れて行かれた店は一軒しかない。薄汚れた路地を進み、何度か角を曲がったのさきにある、大通りからは決して見ることのできない小さな店。
 王妃が向かうにはあまりに不自然なその場所を、彼女は仕立て屋から訊き出したようだった。
 彼女はその店をひどく気に入っていたようだが、エディウスにとってはわずかに白く濁った空気は甘く、肌にまとわりつくようで例えようもなく不快だった。
 ウェスタリアはおそらくその店のことを言っているのだろう。
 エディウスは戸惑い悩みながらも小さく頷いてみせる。
「いい子ね、エディウス。誰にも内緒でそこに行って、葉を買ってきて」
「……でも」
 店内に小分けされた葉が山積みになっていたことを思い出しながら、エディウスは返答に窮した。
 教育係からは城外へは出るなと口をすっぱくして何度も言われている。それに午後からは帝王学と護身術を勉強する予定になっていた。
「大丈夫、お店に行けばすぐに商品を出してくれるわ。お金を払ってそれを受け取ってくるだけよ」
 優しく髪を撫で、彼女は微笑んだ。母とは違いまっすぐに自分を見てくれる。王子としてではなく、普通の子供を相手にするように接してくれる彼女にただ嫌われたくなくてエディウスは頷いた。
「ありがとう。その髪は目立つから、目深にフードをかぶってお行きなさい」
 安堵する彼女を見て、少年もほっとしたように笑った。
 拒絶されたくない。
 広い広い城の中で、若い母は自分のことにだけに夢中で、父である国王もそんな彼女を溺愛していた。美しい母の容姿を受け継いだ彼も溺愛の対象とはなったが、それ以外には何一つ愛されていないことに少年は気付いていた。
 なんの見返りもなく優しくしてくれるのは目の前の女性だけ。
 柔らかく微笑む彼女の心のうちを知る術もなく、少年は城下町へ行き薄暗い店内で甘い芳香を放つ葉を買った。
 クカと呼ばれる、人の心を狂わせる麻薬を。

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