【九】

 フィリシアはジリジリと男のあとをついて回った。
「剣舞!」
 目的は一つ。それを得るためには彼手ずからの教えに頼るか、もしくは剣舞を披露するための場が必要となる。
 つまり、乱闘の場が。
「……フィリシア、お前またろくでもないこと考えてないか?」
 嫌そうな顔をする楽師は、かなり勘が鋭い。
 悪巧みはすぐ見抜かれてしまうので、フィリシアは隠すことなくあっさり頷いた。
「だって、教えてくれないじゃない」
 かれこれ十日ほどついて回っているが、残念なことに楽師としての腕前は散々見る機会に恵まれるものの、肝心の剣舞にはとんと縁がなかった。
 これは一つ、乱闘をくわだてる必要がある。
「あのなぁ、だから見せ物じゃないって言ってるだろ。斬られると痛いんだぞ」
 自分はいっさい怪我をすることがないのに、ディックはそう溜め息をついた。
「それに鍛冶屋に直してもらわないと戦えない」
 彼は軽く腰の剣をたたく。恐ろしく引き際をわきまえた楽師に、少女は唇をへの字にした。
「おい、宿決めるぞ」
 彼は顎をしゃくってあたりを見渡す。
 フィリシアは憮然としてちらりと目の前に広がる光景を見た。小さいが旅人のよく立ち寄る町なのだろう。大きな通りを挟んで向かい合う店からは、客引きの威勢のいい声が絶え間なく響いていた。
「べつに、野宿だっていいじゃない。木の上に寝れば安全だし」
「……木の上?」
「枝と枝の間。落ちなきゃ獣にも人にも見付かりにくくて安全。川で水浴びするのも好き」
 真剣にそう言うと、ディックは深い溜め息とともに少女の肩を二回叩いた。
「お前は野生にかえるつもりか? 女が不用心なマネするな」
「……宿に泊まるより安全よ」
 小さくそう返すと、フィリシアが踊り子で、踊り子が兼業するのがなんであるかを思い出したようにディックは頭をかいた。
 色気がないと散々な言い方をしたわりに、どうやって彼女が安全を確保してきたかを知って少なからず心を痛めてくれるらしい。
 なかなかいい所がある――っと思って彼を見たら、店の奥から手招きしている綺麗な女に鼻の下を伸ばしていた。
「……宿こっち!」
 鋭く一喝し、フィリシアは近くの宿屋に飛び込んだ。店番をしていた女は不機嫌そうなフィリシアを見るなり目を丸くして、そして引きずられるようについてきたディックに苦笑する。
「今は一部屋しかあいてないけど恋人同士なら平気だね」
 そう言った中年の女性に、フィリシアはキッとディックを睨みつける。
「こんな男の恋人なわけないでしょ! 個室!」
「生憎ねぇ空室がなくて」
「ああ、かまわない」
 地団駄を踏みかねないフィリシアから視線をそらしてディックは店の外を見た。
「ここは歓楽街もかねてるんだな。オレは夜の蝶と戯れてくる」
「ディック!」
「じゃあな、フィリシア! 明日の朝迎えに来るから」
 器用に掴まれた腕を振りほどき、彼は店の外に飛び出した。生き生きとしたその顔に止める気力すら失ってフィリシアは顔を引きつらせる。
「……どうする?」
 店番をしていた女は、おそらく見慣れているだろう光景にただ苦笑しながら問いかける。いまさら追う気にもなれず、フィリシアは小さな袋から巾着を取り出して彼女の言う金額を払って部屋を借りることにした。
 剣の腕を見込んでいるのだからそれ以外のことでとやかく言う気はない――つもりだが、あまりにも失礼極まりない行動である。
 目の前にいるのも女で、外にいるのも女だ。
 多少姿形は違っていても、ここまで扱いに差が出るのもどうかと思う。
 彼について歩いている間、ずっと子供扱いされているような気がしてフィリシアは盛大な溜め息をついた。
 確かに年齢でいえば充分に子供だ。しかし、いままで辿ってきた道はけっして平坦なものではなく、これからむかう道も安全なものとはならないだろう。
 だが、それを彼に言っても仕方がない。
 あきらめたように狭く暗い廊下を歩き、店番の言ったとおりに進んだ先には、やはり言われたとおりドアがあった。
 フィリシアは盗られても痛くも痒くもない荷物を部屋に残し、湯を借りるためにそこをあとにした。身も心も締まるような流水で体を清めるのも好きだが、時には温かい湯で体を洗うのも悪くない。
 それが久しぶりであることに気付いて、少しだけ楽師に感謝した。
「あとはどうやって剣舞を教えてもらうか……」
 他人の意見に流されることのない楽師は、いっこうに首を縦にふってくれない。どうしてあそこまで頑なに拒むのかも結局口にはしないのだ。
 考え込みながら体を洗い、フィリシアは着衣して狭い廊下を再び歩く。
 ディックから剣術を学ぶのは想像以上に難しい。褒めておだてれば気をよくして教えてくれるかと期待しても、軽くあしらわれてしまう。
 手強い楽師をどうやって頷かせるかを考えつつドアを開けると、誰もいないはずの室内から物音がした。
 はっとして目を見張ると、そこには意気揚々と宿を飛び出したはずのディックの姿があった。
「どうしたの?」
「……全員持ってかれた」
「え?」
「団体さんご来店で、オンナ根こそぎ持ってかれた。出遅れ……!」
 心底くやしそうに楽師が呻いている。その視線は窓の外に釘付けだ。ほんの一瞬店に着くのが遅かったばかりに楽しみを奪われたなんとも間抜けな男の背中は、滑稽なほど落ち込んでいる。
 同情する気にはなれないが、使える。
 ひどく冷静にフィリシアはそう判断した。
 使える。これは、取引だ。
 これから起こることはすべて取引で、感情の一切をともなわない。
「ディック」
 緊張してこわばりそうになる声を、フィリシアはなんとかなだめて彼の名を呼んだ。
 声色になにかを読み取ったのだろう彼が振り向くと同時に、その体を包んでいた服を床へと落とす。
 月と町の明かりに照らされた少女を見て、男は一瞬言葉を失ってから苦笑した。
「それは?」
「――取引」
 裸身を隠すこともなく、睨みつけるようにフィリシアはディックに視線を向ける。
 そしてゆっくり彼に近付いた。
「子供がそこまでするな」
「踊り子は小さなうちから客をとらされる。私は、だから逃げてきた」
 父と母を愚弄することしか知らない団長とその妻から逃げ、ここまで来たのだ。集団で暮らす踊り子よりその生活が恵まれていたとはいえない。
 それでも、知らない相手に身を任せることなく今まで過ごしてきたことは、素直に幸運だったと思う。
「……そこまでして戦う理由がどこにある?」
「わからない」
 短く答えると、彼は大きく息を吐いてから言葉を続けた。
「いいか? 目的さえ果たせば見逃してやろうって思うお気楽な人間は山といる。けど、抵抗すれば殺されることだってざらだ。相手が戦えると知れば、まず間違いなく息の根を止める気でむかってくる。戦えないほうがいい。戦う術がないなら、命を繋ぐ方法だってあるかもしれない」
 無抵抗のまま、相手の望むようにさせろと――彼は言っているのだ。
 そうすれば命を落とす確率が減ると。
 ただ淡々と、残酷な言葉を吐く。
 フィリシアはまなじりを決した。
「慈悲を乞えって?」
「そうだよ」
 目の前に来た少女をまっすぐ見つめて、どこか自嘲気味に彼は答えた。
「これから命の駆け引きなんざ、何十回と経験する。死にたくないなら逆らうな。逆らう気なら命をかけろ。その覚悟がないなら、ただ黙ってるんだな」
 感情の片鱗も見せずにそう語る男の首に、フィリシアは白い腕をからめる。互いに逸らすことなくむけ続ける視線は、甘さの欠片もない。
 ディックの言っていることはわかる。
 戦うための力は諸刃の剣だ。単身で動くフィリシアにとって、それは心強くもあり死の香りを誘うほど危険でもあった。
 身分卑しいとされる踊り子が逆らおうものなら激昂する男が多かった。剣を振り回し追いかけてきた男の数は知れない。戦うために向き直れば加速度的に怒りは増し、手にした凶器を躊躇いなく振り下ろすだろう。
 そうわかっている。
 しかし、今の自分には彼の力が必要なのだ。
 そう確信する意味もわからないまま、フィリシアは男の胸に顔を埋めた。
「まったく……後悔するなよ?」
 呆れたような声が、そうささやく。
「どっちが?」
 ゆっくりと回される腕に安堵と同じくらいの不安をにじませ、フィリシアは小さく問いかけた。


 月が世界を包み喧騒が闇に呑まれたころ、深い深い眠りの底で、何かがわずかに共鳴するのがわかった。
 それは高く長く、震えるように続く金属のような音。
 ごそりと隣の男が身じろいで、そっと指先で鎖骨をたどる気配がした。混濁した意識は深い眠りについていると思えるのに、その感触は妙にはっきりと伝わってきた。
 やがてその指は鎖につながれた鍵を持ちあげる。
 普段なら血相を変えて奪い取るはずが、不思議と焦る気持ちはなかった。
「これ……」
 男の声が低くうめいた。
 そして続くのは、ハープの弦がなにかに弾かれる澄んだ音色。閉じたはずの目の奥に、男がハープと鍵を持つ姿が映った。
 どこからともなく高い音が静かに響き続ける。
 彼は息をのんだ。
「あの婆さんの……じゃあお前……」
 わずかに口ごもり、そして哀れむような、愛しむような視線を向けた。
「グラルディーに会ったのか、時間ときの介立者に……。お前も、大きな運命の内側にある駒の一つ――」
 過去に思いをせるように遠い目をし、そして彼は苦笑する。
「間違えるなよ。たくさんの命がお前に託されてる。まったくあの婆さん、回りくどいことしてくれる」
 彼は鍵から手を放した。
「いいか、お前は女だ。それは戦いの中じゃ不利になる。けどな――それは、最大の武器」
 つむがれた言葉は呪縛のように心の奥に忍び込む。どうしても男より劣ってしまう部分があることを案じている彼の声は、どこかはげますように静かに彼女に向けられ続けた。
「お前を待つ者がいる。だから強くなれ、フィリシア。オレはたぶん、そのためにここにいるんだ」
 すべてをかいしたように、彼は優しく微笑んだ。

Back  Top  Next