【八】

 一連の演舞が終了すると、あたりには血臭と男たちの呻き声で満たされていた。
 青年は店内の惨状を見渡してからそれぞれの剣を鋭く一振りして血を払い、くるりと持ち直して鞘に収めた。まるでその動きすら剣舞の延長のように映る。
 彼はいったん建物から出ると、すぐに使い古された袋を持って戻ってきて、そこから小さな巾着きんちゃくを取り出した。
「店荒らしてゴメンな」
 巾着から数枚の金貨を取り出し、彼はその巾着をぽかんと口を開けたまま立ち尽くしていた店員に渡した。
 その中にはきっと、先刻手にしたばかりの金が入っているはずだ。とても裕福そうには見えない青年は、それを惜しむ様子もなく店員に渡し、彼女と同じように立ち尽くしていたフィリシアの腕を取った。
「ほら行くぞ」
 軽く引っぱられると、自然と体が傾いた。床はいまだに歪み、地に足がついている感じがしない。
「質が悪すぎるぞ、ここのクカ」
 フィリシアの状態を瞬時に理解して、青年は小さく毒づいた。
「クカ……?」
 思わず問いかけると彼は溜め息をもらす。男たちが呻きながら床に伏せる中、フィリシアを誘導しながらテーブルや椅子が散乱した店内を歩いて彼は口を開いた。
「麻薬だよ。常用性はないが、使い続ければ精神を破綻に追い込むもの」
 立ち込める甘い香りに眩暈を覚え、フィリシアは青年を見上げた。濁ったような目を向けてきた労働者とは違い、彼の眼差しはどこか澄んでいる。
 それが不思議だった。
「――オレには効かない。稀にそういうヤツもいる」
 フィリシアの視線の意味を悟り、わずかな苦笑とともにそう返し、彼は通りに面したドアを開けた。
 新鮮な空気が肺を満たす。
 フィリシアは何度も深呼吸を繰り返し、軽く頭を左右にふった。
 まだ正常とはいいがたい状態のまま、ようやく青年の顔を見る。
 この町に似合わない整った顔の男。楽師として一流の腕を持ち、なおかつ卓越した剣術すら身につける旅人。
 関わりたくないと思ったから遠慮なく股間を蹴り上げたのに、わざわざ追いかけて助けてくれた。
 信用するかどうかは別として、助けてもらったその礼はまだ伝えてはいない。
「……その」
 広場に向かって歩き出した彼についていきながら、フィリシアはわずかに口ごもった。
「痛かった?」
 とっさにそう訊くと、彼は柳眉を寄せて振り返る。
「お蔭で手元が狂っていつもより斬りすぎた」
「……殺さないの?」
 勝者が敗者の命を奪うことなど珍しくはない。酒場での乱闘とはいえ、中には刃物を持っている男もいたのだ。
 武器を持った相手にいちいち手加減をしていれば、どれほどの危険がその身に降りかかるか戦いに身をおくものなら誰でも知っているはずだった。
「そいつの一生背負い込むほどオレの背中は広くないの。オレの剣術は身を守るための物」
 彼はそう言って肩をすくめたが、そのわりには戦い慣れしている。
「それに、さっきの乱闘のせいで剣を傷めた。これ以上は斬れない」
 どこか面倒臭そうに彼はつぶやく。
 その背中を見つめ、フィリシアは唇を噛んだ。
 卓越された剣術。意識がしっかりしていれば少しは頭の中にその動きが入っていただろうが、クカと呼ばれる麻薬のせいで、男の動きがよく思い出せない。この男の体のどこにあの見事な剣舞が刻まれているのか――その肉体には、鍛え上げられたという印象は微塵もなく、戦いに何かしらのコツがあることが予想された。
 力の差があり、多勢に無勢でも渡り歩けるほどの剣術を男は身に着けているのだ。
 広場に着き、そこを横切る男にフィリシアは無言で付いていく。
  男は広場の途中で立ち止まり、金貨を二枚、フィリシアに手渡した。
「それ、分け前。じゃあな」
 別れの挨拶を短くつげて青年が再び歩き出す。
 ただ金を渡したいがためにわざわざ酒場にまで乗り込み、剣舞を披露して助け出したらしい。
 フィリシアは驚いて彼の背を追った。
「どうして助けたの?」
「さぁな」
 彼は短くそう返す。本当に気紛れだったのか、彼は広場を抜けて脇道へと入っていく。町を出るのだろうその進路に、フィリシアはもう一度大きく深呼吸した。
 甘ったるい空気はもうない。
 ゆっくりと冴えていく意識の中、彼女は前方の男を見つめた。
「剣舞、教えて」
 あの剣術があれば戦える。複数の敵がいたとしても、迷いなく己の意志を貫くことができる。
 そう感じて、フィリシアは男の背にそう言葉を投げた。
「見せ物じゃない」
「戦いたい」
「――断る」
 あまりにそっけなく彼は答えた。
「女は守られてこそ華だ。自分から傷つく必要はない」
「また襲われたら?」
 真剣に問うと彼は足をとめ、考えるように少し間をあけた。
「目を閉じてれば? 抵抗しなきゃ、命までは取らないさ」
「……意外と最低な答えね」
「女の一人旅は危険だってことくらい、身をもって知ってるだろ。ましてや踊り子なんて、いい目印にされる。――歳は?」
「……二十歳」
 小さく答えると、溜め息をついて彼が振り返った。
「二十歳過ぎた踊り子が男も知らない生娘なわけないだろ。あんな色気のない舞、オレは初めて見たぞ」
 バッと頬に朱が散る。失礼な男には多く出会ったが、ここまで無神経なのは初めてだ。
 怒りにまかせてフィリシアは手をあげる。
 彼女が振りおろした手は大きく弧を描いて男の頬のすぐ手前でぴたりと止まった。
「そう何度もやられてばかりと思うなよ。歳は? どうせ十五もいってないんだろ?」
 フィリシアの腕を掴んだまま鼻で軽く笑って、彼は彼女を見おろす。再び股間を蹴り上げるために足を動かした瞬間、その足の甲さえ行動を読んだらしい男に踏みつけられた。
「何度もやられないっての。いくつだ?」
「……十四」
 ふぅん、と男は小さく声を発する。いつも年上に見られるフィリシアの実年齢を聞いても、彼は別段驚いたそぶりを見せなかった。
「まぁ色気はないが、お前以上の舞い手には会ったことがない。世界はまだまだ広いな」
 どこか満足げに笑って、彼は彼女を解放して再び歩き出した。
「ねぇ! 剣舞教えてよ!」
「ヤダね」
「どうして!」
「オレ、手加減下手なんだよ。危ないだろ、斬りすぎるヤツは」
 笑えないことを言って、空を見上げた。
「いつも警告するんだけどなぁ」
 どうやら本気でそう言っているらしい楽師の横顔をフィリシアは呆れたような表情で見つめた。あれは警告ではなく挑発だ。頭に血の上った男たちが、見るからに弱そうな男に警告され素直に退くわけがないのだが、彼にはその心理は理解できないらしい。
「名前は? 私――」
「フィリシア。歌と踊りを愛する豊作の女神の名。別名は、舞姫」
 驚いて青年の顔を見ると、彼はちょっと得意げに笑みを浮かべた。
 きっとたくさんの国を渡り歩いているのだろう。なんとなくそう感じて、フィリシアは彼を見つめた。
 まるで雲のようにつかみ所のない男だ。
 けれど、強い。今まで出会った誰よりも強くてしなやかで、そして戦慄するほどに冷酷な一面すら持ち合わせている。
 あの場に死者が出なかったのは奇跡で、平然と人を斬り捨てるその姿は死神を連想させた。戦う術を何一つ持ち得ない自分が師とするならこの男がいい。
 これからこの世界で生きのびようと思うなら時に非情になることも必要だ。
「私、立ち止まれない。強くなりたいの」
 まだ見ぬ誰かの支えとなるそのために、それが必要なのだと自分自身に言い聞かせる。
 確証なんて何一つない。それでも、その力があれば切り抜けられる窮地があるかもしれない。大切な人を守れるかもしれないのだ。
 剣舞は身を守る術となるだろう。だが一番に願うのは、それとはまったく別の思いだった。
 彼女は強い意志を宿す瞳を男に向けた。
 男はフィリシアの言葉に耳を傾けながらも黙々と歩いている。
「……じゃあ、名前くらい教えてよ」
「……」
「名前!」
 語調を強めると、男はあきらめたように口を開いた。
「……ディック」
「剣舞!」
「ダメ」
「どうして!?」
「見せ物じゃないって言ってる」
「見せないよ、あんな物騒なもの!」
「でもダメ」
「ケチ!」
 いつの間にか肩を並べて歩きながら、同じやり取りを繰り返す。接点のないように見える二人には、たった一つの小さな共通点があった。
 一つは少女の胸元の鍵。
 一つは男が持つ魔獣の骨より作られたハープ。
 それは持ち主の気付かぬうちにわずかに共鳴して、すぐに静寂を取り戻した。

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