【七】

 楽師の奏でる音が高い空へと吸い込まれていく。
 いい腕前だ。
 多くの楽師を見、その音とともに大気の中を舞い続けてきた少女――フィリシアは、ふっと笑みを刻んだ。
 名器が紡ぎ出す音は、確かに深い。けれど楽師の腕が悪ければ、名器もただの楽器へと格を落としその価値さえ地に落とす。
 だが、この楽師は名器を名器として扱えるだけの確かな技術を持っている。
 演舞の終わりを茫然と見つめていた町の人々は、大歓声とともに金をばらまいた。人々が腕を振り上げるたびに青空がキラキラ輝いて地面に光の粒が散乱する。
「気前のいい」
 フィリシアは小さく笑って、慌てたように金をかき集める若い楽師を横目で見てから身をかがめて服を掴み、ついでに金貨を一枚つまんだ。
 これでしばらく喰うに困らない。
 素早く服を着ながら、彼女は人ごみに紛れる。ずいぶん汚らしい町だが、腕のいい楽師がいたお蔭でちゃんと収入があった。
 手の中にある金貨のわずかな重みに嘆息すると、不意に強い力で肩を掴まれた。
「おい、お前!」
 凛と張りのある男らしい声が続き、フィリシアは不機嫌そうに振り返る。そこには、先刻の楽師がハープと荷物と小金の入った袋を手にし、息を切らして立っていた。
「なによ」
 せっかくいい気分だったのにと、フィリシアは心の中で毒づく。久しぶりに楽しく踊れたのだから、そっとしておいてくれれば幸せな気分がもうしばらく続いたはずなのに。
「お前、金!」
 目の前の青年は中肉中背、いたって平凡な体型だ。しかし、屈強な男ばかりが住み着く町のお蔭で妙に小さく見える。
 長い黒髪と黒瞳を持つ自分とは違い、くすんだ金髪にもっと深い色をした黄金の瞳――汗臭い町に似合わない容姿から察するに旅人らしい。
 彼はなかなかに整った顔をわずかに歪める。
「お金?」
 あれほど金を撒かれたのにたった一枚の金貨にこだわるなんて、なんて器の小さい――そう思いながら楽師を睨みつけると、彼は大きく息をついた。
「そうだよ、金! ちゃんと半分持っていけ!」
「……半分?」
 意味がわからず彼を見上げると、小金のつまった皮袋を目の前に突き出された。
「金貨一枚でどうする!? 分け前はちゃんともらっとけ」
「――いらない」
 おかしな事を口走る楽師に不信感を抱きながら、フィリシアは短くそう返して歩き出した。踊り子という立場上、あまり宜しくない輩に声をかけられることが多い。こんな妙な男にかまうよりも、一刻も早く人ごみに紛れて姿をくらませたほうが賢明だ。
 そう思った瞬間、再び強い力で肩を掴まれた。
「なに?」
 しつこい。
 そう思ったときには体が動いていた。
 フィリシアは振り向き様に足を大きく一歩前へ進める。肩から外れた手をみっともなく空中に漂わせていた男に向かって、踏み出した足を真上に持ち上げた。
「い……!?」
 男の体が前のめりになる。
 ハープ以外の荷物を地面に落とし、彼は股間を押さえて背を丸めた。
「直撃」
 にっこり微笑んで、脂汗を流しながら呻く男を一瞥する。
 そして、男の股間にめり込ませた足を素早く引き、フィリシアは足早に歩き出した。
 見知らぬ男に声をかけられるたびに足をとめ、いちいちその話に耳を傾けていたら命がいくつあっても足りないだろう。危険を回避するには、危険である可能性のある者に近付かないのが一番いい。
 経験上そう答えが出ている。
 分け前を持って行けという言葉は良心的だが、その言葉をそのまま額面どおりに受け取れない。人を安易に信用することもまた、危険を招くのだ。
 己のその考えに苦笑して、フィリシアはしっかりと握られた手に視線を落とす。手の内には、小さな金貨が一枚あった。
「……別に、このくらい平気」
 ずっとずっと一人旅を続けてきた。その理由を忘れてしまいそうになる事など何度でもあって、それでも前へ、ただ前へと歩き続けた。
 老婆の言葉が、まだ胸の奥で生きている。
 長い時間を経ても薄れることなく、むしろあの時の情景は鮮明なほど脳裏に刻み込まれていた。
 彷徨うように旅を続けていて出会えるのかはわからない。名前も性別も何一つわからない相手を探している自分はあまりに滑稽だと思う。
 しかし、旅をやめることができなかった。
 あの老婆の言葉が、絶望と悲しみの中で泣き続けていた自分にとっての唯一の光りだった。
 だから。
「まだ、平気」
 微笑んで手を開く。知らない男の横顔が刻まれた、自分にとっては物を買う以外の価値しかない小さな金の塊。
 それを手に乗せたまま、彼女は近くにあった店のドアをくぐった。
 甘い煙の立ち込める奇妙な空間には、乱雑に並べられたテーブルと、それを囲むように座っている肉体労働者然とした男たちがいた。
「いらっしゃい、なんにするんだ?」
 一瞬くらんだ視界に、丸々と太った女が割り込んでくる。町と一緒でくすんだ色の服を着た女は、舐めるようにフィリシアを見て鼻で小さく笑った。
「休憩なら二階の部屋が空いてるよ」
「……食事を」
 女の言った言葉をすぐにのみこめず、フィリシアはやや間をあけてようやくそう返した。
 女が顎をしゃくって席を指す。
 フィリシアはよろよろと歩きながら、途中で何度も人やテーブルにぶつかった。
 床が波打っているように歩きにくい。視界が際限なく歪み、店内に響いている男たちの声も妙に遠い。
 背後でドアが開く音がする。
「おい、そこの女――」
 怒声のようなものがかけられ、フィリシアは振り向く。しかし、すべての景色が輪郭を崩した世界は瞳に映りはしても、情報として処理することができない。
「コイツ、はじめてなのか?」
 笑いを含むような声が耳に届く。
 何の事だかわからずに、フィリシアはうつろな目をあたりに向ける。
 甘い空気を吸い込むたびに、ふわりふわりと意識が浮遊する。危険を察知すれば本能で警戒するはずの体は、非常事態に警告を出すことすら忘れている。
「そいつ、舞姫だぜ」
 誰かの声。
「二階空いてるよ」
 無愛想な女の声。それが聞こえた途端に、誰かがフィリシアの腕を取った。
 下卑た男の声が耳元でささやいたが、それは言葉として理解できず――。
 そして。
「子供相手になにしてるんだよ、ゲス野郎」
 呆れとも、非難ともあざけりとも取れる声が凛と響く。
 ざわりと店内が沸いた。腕を解放されたフィリシアは、崩れゆく視界を声のする方向へやる。
 ドアの前には店内にいた男たちとは比べ物にならないほど頼り無げな男が一人。
 それが先刻股間を蹴り上げた男と同一人物であるということを、フィリシアはぼんやり確認する。
 どうしてここにいるのだろう。
 何をしているのだろう。
 なにを、言っているの?
 鈍くなる思考でそう考えていると、椅子に座っていた屈強な男たちが次々と立ち上がった。
「お楽しみを邪魔するんじゃねーよ、兄さん。それとも混じりたいか?」
 下品な笑いを漏らすと、彼は小さな溜め息をついた。
「あいにくそういう高尚こうしょうな趣味は持ってないんでね」
 嫌味をひとつ吐き出して、大げさに肩をすくめている。
「じゃあとっとと失せな」
「その子渡してくれれば」
 怒声に動じることもなく涼やかに微笑んでいる。それが男たちの何かに火をつけることを承知しているように、彼は再び口を開いた。
「聞こえなかった? 頭どころか耳まで悪いの?」
 男たちが扉の前に立つ青年に向かっていく。
 屈強な男たちに囲まれた青年は、右手を腰にさげていた細い剣の柄にかけ、左手を反対側の柄に伸ばしてにっこり微笑んだ。
 男たちにむけたのは、嘲笑と呼ばれる部類の笑みだ。
 武器を手にして優位に立ったと勘違いしている――おそらく、男たちは青年に対してそう思っていることだろう。
 怒りのために赤黒くなった顔を悪鬼のごとく歪める。
 それを相変わらず平然と見つめ、青年はさらに口を開いた。
「怪我したくなかったら離れてろよ」
「――! そりゃこっちのセリフだ!!」
 怒りの咆哮がフィリシアの耳に届く。
 それとほぼ同時に、二筋の光りが空を舞っていた。
 視界と同じように朦朧とした意識で見た光景――そこには、波打つような不思議な形状の長剣と、短めの剣を手にした青年がダンスを踊っていた。
 振り下ろされる拳を流れるような動きで避け、繰り出された蹴りを寸でのところでやり過ごす――初めて見るその動きは、父のものよりももっとしなやかで変幻自在の演舞だった。
 飛び散る真紅の玉が、血臭を運んでくる。
 巨漢たちの間を踊るようにすり抜けると呻き声がもれた。
「……剣舞」
 洗練されたその舞は楽師のものとは思えないほど卓立されていて、そして容赦の欠片もなかった。
 戦い慣れしたその動きは、あまりにも優美で。
「――きれい」
 ただ一言、それ以外の賛辞は何一つ出てこなかった。
 旅の途中で出会った一人の男。
 それは少女の一つの通過点であり、大きな運命の分岐点でもあった。

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