【四】

 不意に鼻先をくすぐる香りが生まれた。
 香辛料をたっぷりきかせたのだろうその香りにつられるように、少女の胃袋が小さく鳴く。
 凍えながら夜の森で眠ると、きまって優しい両親と温かい食事の夢を見た。
 雑技団で支給された食事は決しておいしいものではなかった。具の少ないスープは味さえ薄く、出されたパンは長旅でパリパリに乾燥して上顎に刺さるほどだったし、所々カビていたこともある。
 たまに豪華な食事を出された事もあるがそれは本当に稀で、次はどんな無理難題を団長が言い始めるのかと団員たちは顔を見合わせて話し合うほどだった。
 それでもあの頃は幸せだったと少女は夢うつつで考える。
 そう、幸せだった。
 なんの不安もなく、ただ両親に甘えていればいいだけの日常は確かに幸せだったのだ。
 その幸福を失った時、彼女はようやくそのことに気付く。
 不意に何かがぶつかるような鈍い音がすぐ近くで聞こえた。
 少女の呼吸が一瞬止まる。
「まだ寝てるみたいだな……」
 少年の声がポツリとそうつぶやいた瞬間、バネ仕掛けの人形のように彼女は双眸を開いて起き上がった。
 彼女はとっさに身をひねって香ばしい匂いの元をたどり、両手を伸ばした。
 それが何かもよくわからずに、彼女はただ食べ物≠ニしか判断できない料理を鷲づかみにして口に押し込んでいく。
 ずっとまともな物を口に入れていなかったから、飲み込み方も忘れてしまいそうだった。水はあんなにやすやすと喉を通っていったのに、料理は上手く喉を通り過ぎてくれない。
 それでも強引に少女は食べ物を口の中に押し込んでいく。
 少年は唖然としたように立ちすくみ、やがてベッドの上でなりふりかまわず食事を摂ろうとする少女の目の前にしゃがんだ。
「もう大丈夫だよ」
 少年はそう言って右手で少女の頭を撫でた。
「大丈夫。ゆっくり噛んで、ゆっくり飲み込んで……いろいろ、大変だったんだね」
 穏やかなその声に、少女は大きくしゃくりあげた。大粒の涙をこぼし続ける瞳では、少年の顔がよくわからなかった。
「ここで待ってるから、落ち着いて食べて」
 少年はそう言って、窓辺に歩いてく。
 少女はようやくそこが建物の中であることに気付いた。服の袖で涙をぬぐおうとして、それが今まで着ていたボロボロのドレスでないことに気付く。
 わずかに足を動かすと、手当てをされたのだろう足首がずいぶんと窮屈になっていた。
 少年は鼻歌を歌いながら窓から外を眺めている。
 少女は彼から視線を外してあたりを見た。
 古い造りの家だ。置かれた家具もかなり年代物のようで所々色落ちしたり、その逆に手垢で汚れたりしていた。
 そこは温かい家庭の匂いがする家。
 少女は鼻を盛大にすすってから食事を再開し、そして途中で皿の脇にスプーンがそえてあることに気付いた。
 しかし今更スプーンを使うこともないと判断し、彼女はそのまま素手で食事を進めた。
 料理は香り同様に香辛料をよくきかせた物で、柔らかい肉と数種類の野菜を炒めた簡単なものだった。それでもここ数日まともな食事にありつけなかった少女にとってはご馳走で、そして雑技団にいたときにもめったに口にすることのできなかった豪華な食事だった。
「落ち着いた?」
 皿の上を綺麗に片付け終わってグラスの水を一気にあおると、窓辺にいた少年は微笑みながら戻ってきた。
 すらりとした細身の少年は光りに透けるような金髪をフワフワとなびかせている。細めた緑の瞳には、印象的な泣き黒子が一つ。
「僕はセルファ・シルスター。君は?」
 小首を傾げるように問いかけられ、少女は大げさと思われそうなほど体を硬直させた。
 彼女の名は、団長がつけたらしい。
 将来踊り子にするために、花を売る女の名をつけたらしい。
 少女は唇を噛んだ。
「……じゃ、おいでよ」
 少女の表情からなにかを読み取ったのか、セルファと名乗った泣き黒子の少年は手招きをした。
「君、踊りが得意? ああ、そこにある靴はいて――傷には当たらないから」
 セルファはちらりと振り向いてから部屋のドアを開けた。
 少女は慌ててベッドから降り、言われたとおりに靴を足に引っ掛けて彼のあとを追った。
 彼はすぐに水瓶に彼女を案内して手と顔を洗わせ、そして玄関のドアを開けた。
 少女は視界を埋めた光りの強さに思わず瞳を細める。
「おお、目が覚めたのか!」
 見事に晴れた温かい日差しの中で、大きな荷物を肩にのせた男が汗だくになって少女に笑顔を向けた。
「昨日の踊りは見事だったぞ! たいしたもんだ!」
 男がそう少女を褒めると、立ち並ぶ家々のいたるところから人が現れ、あっという間に二人を囲んだ。
「いい踊りだったよ、久しぶりに感動したねぇ」
 ふくよかな女が野菜を振り回しながら大きく頷くと、
「オレは拍手しすぎて手が痒くなったよ」
 そう笑う男がいた。
 集まってきた人の良さそうな者たちは口々に少女の踊りを褒め称え、そして、
「フィリシア様の舞い手もあれだけやってくれりゃ申し分ないんだがねぇ」
 誰かがつぶやくと人垣がいっせいに笑い声をあげた。
「うるさいよ! 十日で覚えろなんて無茶なこと言われなきゃそれなりにできるよ!」
 セルファは怒ったように返して、少女の手を取った。
 そしてやや強引に歩き出す。
「本番今日なんだよ! しっかりやんなさいよ!!」
 女が声をかけると、再び人垣が笑い声をあげながら四散していく。その様子を首をひねって確認し、少女は手を引く少年を見た。
「舞い手?」
「……もともとの舞い手は病気で大きな町のお医者様にかかってる。僕は代役。本当は女の子が舞うんだよ」
 少し不機嫌そうにそう告げて、彼は空き地に少女を導いた。
 唖然とする少女の前で、彼は背筋を伸ばしてまっすぐ空を見上げた。そしてゆっくりと、まるで紐で吊り上げられていくかのように腕を伸ばし静止する。
 少女が食い入るように見つめていると、彼は少女が初めて目にする独特の動きで風を切るように一連の舞を披露した。
「これが一つ目」
 そう言って動きを止め、今度はさらに異なる動きを見せる。
「二つ目」
 言葉をなにかの区切りにするようにつぶやいて、セルファは五つの短い踊りを少女の目の前で舞ってみせた。
 瞬きすら忘れて見入る少女に、セルファは息を切らせて近付く。
 一つ一つは短いものの、その動きが激しいために運動量はかなりのものだ。
「……舞姫に捧げるのはね、この五つの踊りを組み込んだ、毎年違う踊りなんだ。五つの型さえ踏んでいれば踊り自体は舞い手が決めてもいい」
 セルファがそう声をかけたとき、少女の手は小さく今見た舞を反復している最中だった。
 セルファは驚いたように目を見開き、そして溜め息をつく。
 少女の小さな手の動きは、寸分の狂いもなく彼の舞をたどっていた。
「……覚えるの、七日もかかったんだけどな」
 微苦笑でつぶやくと、少女がはっとしたようにセルファを見上げる。
「いまの踊り!! 初めて見た!」
 興奮して頷く少女に、セルファは唸りながら空を見上げた。
 小さな村に伝わるその舞は、豊作の女神に捧げられるためのものだ。
 誰もが見るものではないし、一夕一朝で覚えられるほど単純なものではない――はずだった。ひとまず、彼はそれを間違えずに踊れるようになるまで七日間かかり、それでものみこみがいいと褒められたのだ。
 豊穣祭のために踊り手が費やす時間は彼が練習した十倍とも二十倍とも言われ、美しく着飾って女神を称えて舞うその姿は、祭事最大の目玉といってもいい。
 その舞を、少女はわずか数分のうちに会得した。
「ねぇ君さ、今晩踊ってみない?」
「え?」
「いまの踊りを組み込んで、音楽に合わせて踊るの。本当は事前に何度も練習して――」
「いいの!?」
 興奮しきった少女は、セルファの言葉に瞳を輝かせる。
 その姿にぎょっとしたように彼は上体を仰け反らせた。
「う……うん、いや、でも今晩なんだけど」
「大丈夫! 踊れる!!」
 靴を脱ぎ捨て少女は空き地の中央へ跳ねるように移動し、そして彼女は今見たばかりの少年の舞を再現してみせた。
 一曲踊って倒れ、ついさっき食事を摂ったばかりだというのに、その動きは指の先まで神経の行き届いたものだった。
 彼女が一礼すると、セルファは無意識に手を叩いた。
「すごいね、君……」
 無意識に拍手を贈っていた彼は、自分の手を驚いて見おろしてから苦笑いをした。
「昨日即興で合わせたのを見たから、こうゆーの慣れてるのかと思ったけど……まさか本当にできるなんて……うん、君すごいや」
 ボリボリ頭を掻きながらしばらく考えるように空をあおぎ、セルファは大きく頷いた。
「踊り手の衣装、急いで直してもらおう。おいで!」
「うん!」
 差し出された手を、少女は笑顔で握った。

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