【三】

 雑技団の一行から逃げ出すように別れて数日。
 上質なドレスの裾は木の枝に引っかかって所々破れ、泥と汗で汚れて随分みすぼらしくなっていた。とても町中を歩ける状態ではないが、どこまでも続く樹海に迷い込んでしまったせいで身なりの心配をする必要もなかった。
 真っ赤に焼けた空が、闇にのみこまれていく。
 少女は耳を澄ませ、辺りをうかがった。
 両親の墓をあとにしてからずっと森の中を彷徨い続けている。幸い危険な動物はいないようだが、同じように食べ物となる果実も見付からない。
 熟れた果物をいくつか手にとってはみたものの、ほとんどが渋みが強く、中には口に入れた瞬間に舌が痺れたりもした。
 とっさに吐き出したが、その日一日は体が痺れ続けて歩くのも困難だった。
 この森には食料となる物があまりに少ない。
「お腹……すいた……」
 ぼんやりとつぶやく。
 朱に染まる空があとわずかで黒く塗りつぶされる。
 少女はカラカラに渇いた唇で小さく息をついた。森がどこまで続くかもわからない。雑技団にいた時の移動手段は馬車が中心だった。決していい道を選んで走っていたわけではないし、移動中の馬車は荷馬車といっても過言ではないほど荷物が詰め込んであり、快適なものではなかった。
 それでも、今よりは幾分ましだった。
 ドレスにあわせて慣れない靴を履いているため、足は靴擦れをおこしている。代わりとなる物がないので仕方なくそれを履きつづけているが、足場が悪いために皮がめくれた足に靴が当たり痛みはひどくなる一方だ。
 少女は木の根に足をとられ体を大きく傾ける。とっさに近くにある木にしがみ付いたが、足から全身に響いてきた痛みに小さな悲鳴をあげた。
 思わずしゃがみこむと、ボロボロと涙が零れる。
 父も母もいない。
 たった一人で必死にここまで来た。
 大好きだった両親をただの消耗品としてしか見なかった団長たちの元にいるのはどうしても我慢できなかった。
 どんなに懸命に尽くしたとしても、その心にはなにも伝わらないのだとわかったから――。
 あそこにはいたくない。
 そして何より、老婆の言葉を信じたかったから。
 一人ではないと、そう思いたかったから。
「……っ」
 少女は汚れたドレスの袖で顔をぬぐい、唇を噛んで立ち上がった。
 痛みを訴えつづける足と空腹に悲鳴をあげる胃を無視して、再び歩き始める。そしてすぐにもう一度足をとめた。
 かすかに聞こえてくるのは、清涼たるせせらぎ。
 少女は目を見開いて、慌てて走り出す。途中何度か転びかけ、悲鳴を上げながらもようやく音の出処にたどり着く。
 そこは小さな川だった。
 いつの間にか空に浮かんだ月に水面をキラキラと反射させ、よどむことなく新たな流れを生み続ける場所。
 少女は座り込むなり、顔を川に突っ込む勢いで清水を喉の奥へと送り込む。
 一息つくように顔をあげると、とたんにむせた。
 激しく咳き込み、酸欠で慌てて息を大きく吸うと再びむせる。それを数度繰り返して、ようやく肩で大きく息を吸う。
 こめかみが酷く痛む。
 しかし落ち着くと、少女はこりもせず水面に顔を近づけ、そしてそこに月以外の光が揺れていることに気付いた。
 少女はまっすぐ顔をあげる。
 小さな川の向こう岸、森の奥に柔らかい光りが揺らめいていた。
 その光りがあまりにも温かそうに見え、少女がふらりと立ち上がる。
 靴を履いたまま川を渡り、木々を掻き分け、彼女は誘われるようにそこに向かった。
「年に一度の豊穣祭だ! 前夜祭だからってバカにするんじゃねーぞ! さぁ踊り明かせ!」
 どこからか威勢のいい声がそう怒鳴ると同時に、次々と松明に火が入れられる。数箇所揺れるばかりだった光は、瞬く間に少女の目の前にあった広場を埋め尽くした。
 広場の片隅にさまざまな楽器を手にした男たちが丸椅子に腰掛けていた。
 彼らは互いの顔を見合わせて小さく頷く。
 誰かが足で拍子を取ると、軽快な曲が流れ出す。
 その音楽に乗り、広場の脇を固めていた人々が恋人を誘うように中央へと移動していく。軽快な曲にあわせて軽快に踊る人々の間を大皿を持って移動する者がいる。大皿に盛られた鶏肉は、こんがりといい色に焼きあがっていた。
 少女は唾を飲み込んだ。
 自分の姿を恥じて木の影に隠れた少女は、目の前を行き来する皿に気を取られている。空腹感は水では抑えきれなかった。
「果実酒だよ!」
 豊満な女が取っ手のついた小さな樽型の容器に酒をなみなみとついで大声を張りあげる。
「無礼講だ! 豊作の女神様に歌と踊りを!」
 小さな樽が空中でぶつかり合い、鈍い音とともに酒が零れる。
「舞姫に!」
 誰かが叫ぶと同時に、小さな樽を持った者たちがそれを虚空にあげ、それぞれが小さな樽をあおる。
 奇声と歓声の中、着飾って楽しげに踊る人々。
 少女の目の前に広がるのは、手が届きそうなほど近いにもかかわらず隔離されてしまったような錯覚を抱く遠い世界だった。
 空腹で眩暈がする。
 膝に力が入らず崩れ落ちそうになったとき、少女の耳に懐かしい曲が届いた。
 それは母が月夜の晩に少女を連れ出し必ず舞った名もなき唄。
 人々が愛し、そして口伝くちづてに広がり続ける優しい曲。
 崩れかけた体が前へ進む。
 理性もなく常識もなく、ただ本能の赴くままに少女は人々の輪の中に飛び込んでいた。
 少女の無残な姿に驚いて人々が後退るのにも気付かずに、彼女は動揺した楽師たちが奏でる音にあわせて踊る。
 一見して子供だと知れるのに、乱れた音楽にさえあわせるその力量は踊りを愛する人々さえ目を見張るものだった。
 やがて楽師たちは顔を見合わせ、大きく一つ頷いてから各々の楽器を握りなおした。
 そして弾きなおされたのは、少女のための音楽。
 名もなき唄を彼らなりにテンポのいい曲調に仕上げたもので、それは余興に近い演奏だった。
 しかし、楽師たちの期待にこたえるように、少女はその曲を見事に踊りきった。
 それは踊り慣れた曲で舞うような、乱れのない堂に入った見事な演舞。
 曲が消えたその瞬間、唖然とした人々のうちの誰かが手を叩いた。小波のように増えていく拍手の中、少女はにっこりと微笑んで優雅に一礼し――。
 そして、その場に崩れ落ちた。

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