【五】
ふわりふわりと月夜に舞う女たちは、透けるように薄い布を幾重にも重ねて身にまとっていた。
わずかな動きが風を生み、その独特の衣装が鮮やかに月から零れ落ちた光を受け止める。
豊穣祭の目玉の一つであるその舞は、精霊に扮した女たちが無音のまま踊る特殊なもので、観客もやはり無言のまま仮設舞台の中央に見入っていた。
彫刻のように固まった人々の中には、口を大きく開けたまま止まっている者もいる。
まったく異なる種類の鮮やかな衣装を着た少女もまた、食い入るように舞台の中央を見ていた。
舞台にいるのは六人の女。
彼女たちの舞はバラバラである。それぞれが違った演舞を披露している。
しかし、何かの拍子に舞が重なる。それが伝染するように、別の女たちの舞もぴったりとそろう。
やがて個々が違う舞へと変化し、それが不思議と一つの大きな演舞へとかわる。
「――すごい」
少女は両手をきゅっと握りしめ、圧倒されたように舞台を見つめていた。
両親の舞台はいつも目にしていた。少女が誇るほど、彼らの踊りは緻密で非の打ちどころがなく、事実、どこに行っても多くの称賛を受け続けていた。
だが、彼女たちの舞のような独特の華はない。
「すごい」
ただ漠然と同じ言葉を繰り返し、少女はコクリと喉を鳴らした。
彼女たちの舞が終われば、少女の出番になる。豊穣祭の花形とも言われる豊作の女神に捧げる舞。
「……大丈夫?」
話を持ちかけた当人であるセルファは、心配そうにテントの隙間から外をうかがう少女の顔を覗きこんだ。
少女の黒瞳には、流れるように舞う清雅な女たちが映っている。
まるで糸が切れたかのように彼女たちの動きが止まった。終幕をしらせる静寂に観客はいっせいに惜しみない拍手をし、女たちは妖精さながらに一礼してふわりと森に向かって走り出した。
「今年は凝ってるなぁ」
どこか呆れ気味にセルファがつぶやくと、楽師たちが楽器をかまえた。
ざわめきが一瞬大きくなり、楽師たちが顔を見合わせるとすぐに消えた。
誰かが足で拍子をとった次の瞬間、始まりの
舞台の中央に舞い手が立ってから始まるのが本来の型だ。しかし、少女は音楽に合わせて人々の間を風のように舞っている。
唖然とした人々はそこにいるのが昨晩の少女と気付いて驚き、そして笑顔を浮かべた。一つの型に囚われないその動きは、全く予想不可能だった。その少女の舞に誘われるように、楽師たちが奏でる音楽も変化をみせ始める。
豊穣祭の舞は聞き馴染んだ音楽へとすりかわり、その音色にあわせて少女は息すら切らすことなく人々の間を軽やかに踊る。
少女が舞台に舞い降りた瞬間、音色が変わった。
凛とした空気が一瞬にして空間を満たす。少女に笑顔をむけ続けていた人々は、その張り詰めた気に圧倒されて息をのんだ。
姿形はそのままに、玲瓏とした少女が舞台の上にいた。
長い髪を高く結い上げ色とりどりに飾り、朱の襟首に金の刺繍、シミ一つない純白の生地には同じく純白の糸で細やかな刺繍がなされている。
細い腰を縛る赤い帯にも金の刺繍が入っている。
薄化粧をほどこした少女は、両手を大きく広げた。
そして続けた舞は、女神に捧げるにふさわしい演舞。
少女は声もなく見惚れる人々にセルファから教えられた舞を組み込んだ踊りを披露した。
不思議と緊張はしなかった。
踊ることはただ楽しくて、音楽に合わせて体を動かすと何もかも忘れて真っ白になれる。楽しかった頃に戻れたような気がした。
少女は舞台に立つ両親の姿を思い描き、それを再現する。
しなやかな動きは母から、力強さは父から。そして、それを繋げるのは彼女自身の天性の才能。
一連の演舞が終わり、楽師が静かに楽器をおろしたそのあとに――。
深々と一礼する少女に割れんばかりの拍手が贈られた。
少女はゆっくりと顔をあげる。
満面の笑顔で手を叩き言葉をかけてくる人々が視界に飛び込んできた。以前に立った舞台より観客との距離が近いせいもあって、人々の興奮の様がありありと伝わってきた。
昨日もこの場で踊りを披露したが、そのときの記憶はひどく曖昧だった。
曖昧どころか、ほとんどなにも覚えていないと言ってもいいほどで、足の痛みさえ感じていなかった。
だが、今日は違う。
今日は彼女の意志でこの舞台に立ち、そして豊作の女神のために舞ったのだ。
即興ともいえるその舞の中で、少女は両親の動きをなぞった。そして不意に老婆の言葉を思い出す。
両親はいつでも守っていると、老婆は穏やかにそう告げた。
そうかもしれない。
守ってくれているのかもしれない。
二人が残してくれたものが少女にとってすべてだった。踊ることで、少女は自分の居場所を見い出すことができた。
他には何一つない。彼女には学も、後ろ盾もない。
だがなにより心強いものが、その細胞の隅々にまで息づいていた。
踊り続けよう。
ふと、少女は心の中でつぶやく。
それが今の自分にできることだ。
自己満足でいい。誰かの心に、ほんの少しでも残ればいい。
踊りという手段で表現することしか知らないが、大好きな二人の記憶をそうやって自分の中に刻み込み、そして誰かの思い出の中にそっと忍ばせていこう。
少女は再び一礼して舞台をおりた。
鳴りやまぬ拍手が心地よく大気を揺らす。
歓声はやがて歌声となり、人々はその曲に合わせて軽くステップを踏む。
不思議な光景だった。笑顔をふりまき陽気に踊る彼らは本当に楽しそうで、それを目にした少女の顔にも知らずに笑みが浮かんでいた。
「お疲れ様――君、いい踊り手だね」
舞台を降りると、セルファが笑顔で出迎えてくれた。
「村長が話をしたいって。いい?」
そう訊きながら、セルファが手を伸ばしてきた。
その手が、少女の胸元で止まる。
「これ……」
鎖が耳元で不快な音をたてる。その音で、全身の血が凍りつくかと思った。
「綺麗な首飾りだね」
踊りに夢中になりすぎていつの間にか服の外に放り出されていたらしい。少女の首にさげられている、老婆から受け取っていた禍禍しい二つの鍵を、少年はその手に包み込む。
「――ゾクゾクする」
少女は鍵をひったくるようにして、そうつぶやいた彼から離れた。
「ダメ」
驚きを隠すことなく見つめる彼に、少女は震える声で続けた。
「これは誰の手にも、誰の目にも触れてはいけないもの――守り人の、鍵」
全身を包む悪寒に耐えながら、少女は小さな両手に食い込むほどきつく、そのおぞましい鍵を握りしめた。
手の中で鍵が脈打ったように感じ、彼女は真っ青になる。
人知を超えたものが実際にあるのかどうかなど彼女にはわからない。噂は絶えず聞くが、目にしたことなどただの一度もなかったのだ。
けれど少女は自分の手の内にある二つの鍵がひどく危険なものであることを本能で感じ取っていた。
他者の手に渡れば、悲劇を招くかもしれない。
「……わかったよ、ごめん」
セルファは苦笑して歩き出した。
少女は彼の背を見つめ、こわばる手から力を抜くように大きく息を吸った。冷たくなった指先は感覚が狂って上手く動かなかったが、彼女は歩きながらもなんとか鍵を見えないように服の中に隠した。
セルファはすぐ近くのテントに少女を導き微笑んだ。
「舞姫の踊り手――急な話とはいえ、見事なものでした。どこの劇団の方ですか?」
小柄で白髪の老人が一人、革張りのひときわ立派な椅子に腰掛けて微笑みかける。
踊り慣れていることを見抜かれたのだろう。
少女は目を大きく見開いてから、老人の言葉を否定するように首を左右にふる。雑技団を飛び出した今、両親の思い出以外の過去はすべて捨てるつもりだった。
生まれ育った場所も、仲のよかった団員たちも、自身の名とともに無へと帰すつもりだった。
そして新しい自分に生まれ変わろうと――。
「名は?」
穏やかな老人の声に、少女は唇を噛む。
名はない。
あんな団長につけられた名など、名乗りたくはない。耳に馴染む名ではあるが、娼婦としてつけられた物に未練はなかった。
だから名はない。
「くれませんか?」
名は、ない。
ならば手に入れればいい。
新しい一歩を踏み出すのにふさわしい名を。己の存在を指し示すための大切なものを――。
「女神様の名前、私にくれませんか?」
その名に負けないような自分になるために。