【二】
「ありゃ即死だな。今夜の舞台は――」
ガリガリ頭をかきながら、団長はいまだにくすぶるテントを見た。
少女は自失して真っ黒な炭と化したテントの前に立ち尽くしていた。団員たちが大声で叫びながら、父と母であったものを探している。
使い古されていたテントとともに、少女の両親はこの世を去った。
「目玉の踊り子が死んじまいやがった。クソ……っ」
団長が忌々しそうにうなるのが聞こえる。
「あんた、あの子使ってみればいいじゃない」
団長の妻が少女を顎でさす。光を失ったような虚ろな目をテントに向け続けていた少女の耳にもその言葉は届いていた。
「恥かくだけだ」
「いいじゃない、子供が踊るんだ――失敗したって笑ってすまされるさ。次の踊り子を見付けるまでの繋ぎだよ」
団長の妻は、そう言って笑った。
転々と移動して暮らす彼らには団員は家族の同然である。それにもかかわらず、彼らは平然とそんなことを言ってのけた。
まるで血の一滴も通わないような冷酷な声で。
少女にとって、父と母は憧れであり、誇りだった。
舞台に立てば人々の目を釘付けにして、その美しい踊りで呼吸さえ忘れさせ、そしてテントを大歓声で満たす――。
それが彼女の両親だった。
しかし、いつも暖かく包んでくれる自慢の親を、団長とその妻はまるですげ替えのきく部品のように扱っている。
絶望で塞ぎかけた心は、どうしようもない憤りで塗り替えられていった。
父と母の死を嘆くそぶりすら見せない非情な大人たち。
「どうせまともに踊れやしないよ。気圧されて動けないのがオチさ――でも、いないよりはいい。せいぜい笑われておいで」
団長の妻は、そう言って少女に醜い笑顔を向けた。
その歪んだ顔を睨みつけた少女はその夜、初めての舞台に立った。
母の代わりとして、父の代わりとして。
幼い少女が人々に披露したのは、誰も見たことがない、初舞台とは思えないほど完成された舞だった。
少女が深く優雅に一礼したあと、しばらく誰も動けないほどの。
やがて生まれた拍手と歓声は、闇を震わせるほどだった。
舞台を終えた少女に、団長は猫撫で声でこう言った。
「さる貴族の旦那が、個人的のお前の舞をご所望だ」
と。
意味もわからず体を清められ、綺麗なドレスをまとって馬車に乗り、貴族の住む館に案内され、それから五分――。
少女は真っ赤になって再び馬車に乗り込んで団長の元まで帰っていった。
我を忘れるほど怒る少女より、さらに激昂したのは団長本人だった。
「踊り子は娼婦だ! 体を売るのが商売だ!!」
乱暴に引きむしられた少女のドレスは、貴族が少女になにを求めていたのかを皆に知らせていた。
しかし、それが普通なのだ。
たとえ幼くとも、踊り子は踊り子。
彼にとっては娼婦≠ネのだ。
「どこの馬の骨とも知れないお前の母親でさえ、拾われた恩を返すために十歳でこなしてきたんだ! 娼婦の娘ならそれらしくしろ! お前は仕事をして、少しでも多く金をせびってくればいいんだ!!」
少女は激しく首をふった。
「いいか、お前のその名前だって、花を売る女の名だ! オレが付けてやったんだよ! 初めからそのつもりで育ててやったんだ!!」
そう言った団長に、少女は近くにある道具箱を投げつけて逃げ出した。
「待て……!」
「放っときなよ。腹が減ったら帰ってくるさ」
団長の妻が嘲笑混じりにそう言ったのが少女の耳に届き、悔しくて涙がこぼれた。
団長とその妻を見返すために、必死で踊った。
大切な二人を汚されたくなくて――悲しみを殺して、気丈に舞台に立ったのだ。奇異な物を見るようなすべての視線を受け止めて、持てる力をすべて出し切るつもりで舞った。
踊っている時は、悲しみや悔しさを忘れていた。
ただ真っ白になって、夢中で母の面影をたどった。
そして得たのは、両親が死んだことによって
嗚咽がもれる。
少女はいつの間にか団員が作ってくれた墓の前に立っていた。
もう触れることすらできない、大切な家族。
少女は彼らの最期の顔さえ思い出せず、声を殺して泣いた。名を刻む墓石すら与えられていない大きな
時間がたつのも忘れるほど泣き、それでも涙は枯れることを知らずに少女の頬をぬらし続け――やがて。
「狭間まで聞こえてくるから誰が泣いているのかと思ったら」
老婆の声が、穏やかに少女を包んだ。
「難儀な子だねぇ」
驚いて濡れた顔をあげると、そこには闇に溶けるような黒衣をまとった小さな老婆がいた。目深にかぶったフードが邪魔してその顔を見ることはできなかったが、黒衣から突き出していた手は細く皺だらけである。
「……誰……?」
「グラルディー」
老婆は滑るように少女に近付きそう告げる。
「
続けたその言葉は、寂しげに空気に溶ける。
「お前、不思議な星の下に生まれたね。異界の者との混血――別にそれ自体は珍しいことじゃぁないが」
老婆はひょいとしゃがんで、少女の顔を覗きこむ。
ようやく見ることのできたその顔は、青白いが声同様に穏やかなものだった。ただその瞳が、どこか人とは違う光を宿している。
大きくしゃくりあげた少女の豊かな黒髪を老婆は細い指でそっと梳いた。
「大きな国の命運を、どうやら背負い込んじまってるらしい。難儀だねぇ。お前を呼ぶ声が聞こえるよ。はるか未来、救えるのはどちらの命かね?」
「未来……?」
「目を逸らしちゃいけないよ。間違えちゃいけないよ。たくさんの命が、お前の小さなその手の上で踊っている」
そう言った老婆は、少女の目の前に鍵を差し出した。
二つの形状の異なる鍵は、今までに見たこともないほど美しく、そして、おぞましかった。
まるで魂を塗りこめるようにして彫られた模様は、鍵に絡みつくように表面を覆っている。大きな鍵の中央には、長細い穴が開き、一回り小さな鍵の中央には真紅の石が埋め込まれていた。
老婆は真紅の石を親指で押して、器用に取り外した。
「口を開けてごらん」
少女は言われるままに口を開け、老婆は開いた口にその石を放り込んだ。
口いっぱいに広がるそれは、紛れもなく血の味である。
少女は慌ててその石を吐き出し、口を押さえた。
「異界の呪物で作られた血の石さ。命を固めてできている」
老婆は身をかがめて石を拾い、それを鍵にはめ込んで少女に再び差し出した。
「その一族は、時空を渡り言葉を解する。己の体に魔力を封じる哀れな者たちでねぇ」
老婆はそう言って、少女の手に無理やり鎖で繋がれた鍵を握らせた。
泣くことも忘れ、少女は
小さな手に握らされたそれは、ただの金属の塊であるはずなのに少女の全身に悪寒を走らせる。
危険なものであると、少女の直感が伝えてくる。
「これは、誰の目にも誰の手にも触れさせてはいけないよ。お前が持っておいき。使う時機も使い方も、お前自身が知ってるよ。いいかい、使い方を間違えちゃいけない」
「嫌……」
「お前が持つんだ。大切な人を守るために」
「そんな人――」
もういない、と、少女は声に出さずに老婆に言った。
父も母も、すでに土の中で冷たくなっている。
温かい腕も、優しい声も、もう二度と彼女に向けられることはない。
絶望に囚われながらしゃくりあげると、老婆は穏やかな笑みを浮かべた。
「いるよ、ちゃあんとお前を待ってるよ。今は闇の中、たった一人で戦っているよ。そばに行っておやり。間違えないように支えておやり。それができるのはお前だけだ」
老婆はゆっくりと立ち上がると滑るように少女から離れた。
「さあ自分の力で歩き出すんだ。大丈夫、お前の両親はお前をいつでも守っているよ。それを忘れちゃいけない」
その言葉だけを残して、老婆はわずかに残った闇に溶けるように消えた。
茫然と森の一画を見つめていた少女は、その視線を土塊へと向ける。
緩みきった涙腺は落ち着くことを忘れ、新たな涙が乾きはじめていた頬を濡らしていた。
「お父さん、お母さん」
手の中の鍵を痛いほど握りしめ、少女はいつの間にか明るくなっていた空を見上げる。
「もう少しだけ泣いてもいい? そうしたら……」
そうしたら、歩き出そう。
不思議な老婆の言葉を信じて、誰の手も借りずに歩き出そう。
未来に出会う、大切な誰かのために。