【一】
深夜に疲れきったような青い顔をして帰ってきた母は、そのまま少女を連れてこっそりとテントを出た。
いくつも並ぶ丈夫な厚手の布で作られたテントは、移動にも重宝されている最低限の雨風をしのげる程度のものだった。
そこから少し離れた場所に、リズロック移動雑技団≠ニ書かれた馬車が停まっている。カーテン越しに小刻みに揺れる見慣れた人影は今日の売り上げを確認しているのだろう。
少し冷気をまとった夜風にあおられ、馬車が小さく悲鳴をあげた。
「お父さんは……?」
少女は手を引く母を見上げる。
月に照らされたその顔は、泣いているかのように濡れていた。
「散歩よ」
母は短く答えて顔をそむけた。
ときどき見かけるその表情のあと、彼女は決まって少女を闇の中に連れ出す。
そして適当な広場を見つけると、少女を座らせて踊り始めた。今夜は森の中にある、小さな空き地だった。
大きく腕を広げ、母の体は月光を受けるかのように静かに動きを止める。
その後に続く彼女のダンスは、少女には見慣れないものだった。母の踊りはいつも艶っぽくて官能的なものが多く、それは父といっしょに舞台に上がったときも同じで、その形態自体は崩れたことがない。
けれど月光のもとで踊るダンスは、優雅で柔らかなものが多かった。
風にあおられ音を奏でる木々に合わせるように、母は緩やかなステップを踏む。
「お母さん、その踊り何?」
少女が問いかけると、母は遠い目をして笑った。
「バレエ」
「……バレエ?」
聞き慣れない単語に少女は母の言葉をたどる。
「十歳まで姉さんと一緒に頑張って習ったのよ。発表会の当日――お母さんだけ、こっちに落ちてきちゃったから」
愁いを含んだ笑顔で母はそうつぶやいた。
「でも、踊れてよかった。ここでもちゃんと生きてこられた。――それに」
母は少女に手を伸ばす。思わず立ち上がると、彼女は少女の体を抱きしめながらくるくる回った。
「お父さんに出会えて、大切な宝物をもらったし」
「なに?」
問いかけると笑顔が優しくなる。彼女は少女を下ろし、そして誘うように再び踊り始めた。
見慣れたステップとともに少女の耳に飛び込んできたのは、古くから人々の間で愛され続ける名もなき唄。母はそれを口ずさみながら、少女の周りで軽やかに踊る。
母がふと手を伸ばすと、その手に別の手が絡んできた。
「お父さん!」
細身の男が、母を引き寄せて少女に微笑みかける。
母が逃げるような仕草を取ると、それが合図となったかのように、母が口ずさむ歌はそのままにステップが変わった。
くるくる踊る対の男女は、まるで少女を誘うかのようにダンスの途中で手を差し伸べてくる。
何度目かの誘いに、少女はようやく両親の手を取った。
月光のもとで開かれる小さな夜会。
観客もなく喝采もない、三人だけの小さな舞台。それは優しく穏やかなひと時だった。
少女の両親は移動雑技団に籍を置いている。
移動雑技団といえば聞こえはいいが、人の下半身に魚のウロコをつけて半魚人≠セと言っては金を取り、石を食う男だと吹聴しては砂糖菓子をかじるような――結局のところ嘘を並べた見世物小屋の延長にあるような集団だった。
その中で、両親の踊りだけは秀逸と評判だった。
「もうこのテント、ガタがきてるわよ」
ある日の夕刻、雑技団の団長の妻が眉間に皺を寄せながらテントの柱を蹴飛ばした。夜の部の開演を間近に控えたあわただしい時間に、団長の妻は小言を言いに舞台となるテントの中を歩き回っている。
「そんなこと言ってねーで、松明用意しろ!」
遠くから団長ががなりたてている。顔と胴体をそのままくっつけたような小男は、その容姿さえ武器にして雑技団を運営する金の亡者だった。
団長の妻は舌打ちしながらもう一度主柱を蹴飛ばし、そして団長のところへ歩いていく。
少女はその後ろ姿を見つめ、忙しく歩き回る人々を避けるようにテントの中央――主柱まで向かった。
巨大なテントを支える大きな柱がミシミシと小さく悲鳴をあげている。
少女はそっと柱に手をそえた。
不思議な振動が柱から少女の手へと伝ってくる。
「どうしたの?」
少女が真剣にそれを手から感じ取っていると、舞台用の艶やかな衣装に身を包んだ母が不思議そうに声をかけてきた。
「柱が……」
少女が顔をあげて母に柱の異常を伝えようと口を開いた瞬間、真剣な父の顔が目に飛び込んできた。
必死で手を伸ばす父は、母と少女を突き飛ばそうとして――。
そして、失敗した。
耳を覆いたくなるような音が辺りを包む。視界が大きくブレた。
勢いよく後方に尻餅をついた少女は、茫然と目の前の光景を見つめていた。
主柱のはるか上部に設置されていたはずの機材が土埃を巻き上げて少女の前にある。その場所には確かに父と母がいた。
父と母であったものが、そこに。
少女の目には赤黒い血を吸い込んでいる土と、父と母の腕が映っていた。それはともに少女を突き飛ばした形のまま止まっている。
「おい! テントが崩れるぞ!!」
誰かの声が響いた刹那、テント内は混乱の渦に巻き込まれた。主柱が音をたて始めると同時に緩んだテントの一部に松明の炎が引火し、瞬く間に燃え広がっていく。
悲鳴が空気を満たす中、少女は這いつくばるように両親の元へ移動し、すでにピクリとも動かなくなった二人の手をつかもうと自分の物を伸ばした。
もう少しで触れ合うというその瞬間、
「死にてぇのか!?」
怒声とともに、少女の体は団長に抱え上げられた。
「お父さん……お母さん……!」
どす黒い機材に押しつぶされた二人の体は明るい炎に包まれて、すぐに上空から落ちてきたほかの機材で見えなくなった。
「お母さん……!!」
一生の別れはほんの一瞬で訪れた。
のちに舞姫≠ニ呼ばれることとなる天賦の才を持つ少女は、わずか九歳にして天涯孤独の身となった。