【十八】

 外気が肌にまとわりつく。
 雷雨が去ったとはいえ、大地を覆うかのごとく降り続いていた雨の名残はそこかしこに残っていた。
 雲の切れ間から光がさし、点々とできた水溜りが空を取り込んだまま小波をたてる。
 まるで何事もなかったかのようなその景色を無言で見つめてから、フィリシアは王城に向かって足を踏み出した。
「それは賞賛には値しません、フィリシア様」
 咎めるような声が耳に飛び込み、フィリシアは身をすくめた。
 とっさに剣を握りなおし、体勢を低くする。
「その身に宿す命、この露と同じように消す気ですか?」
 低い声は問いかけというより確認するような口調である。
「いまの状態で流産していないほうが奇跡だ。その和子は、貴女が心を許した御方との間にできた大切な命だ」
「……ずいぶん知ったような口ね?」
 のせられるな、とフィリシアは自らの心に警告する。
 動揺を誘うのは常套手段だ。それにいちいち反応していては戦えなくなる。
 闇よりもなお暗い影を持つ声は、気丈に振る舞う少女に一瞬言葉を濁すように押し黙った。
 次の瞬間、彼女と通用口のあいだに闇が降りたつ。
「どいてくれない? シャドー」
 フィリシアは剣をむけ、表情を変えることなく対峙する黒装束の男に声をかける。
「ここで退くのが最良とは思いませんか?」
「……見逃がしてくれるの? 私を捕まえたあなたが?」
 問いかけて、フィリシアはふと言葉を切る。
 そう、彼が乱戦の中心にいたフィリシアを捕縛した張本人だ。なんの迷いもなくその喉元に突きつけた凶器で彼女の動きの一切を奪った。
 それはイリジア兵に加担しての行為だ。
 アーサーがイリジアに付き、彼を守る任のあるシャドーが主人に従ってイリジアに手を貸したために、フィリシアは地下牢に監禁された。
(でも、もし――もしも、あれがイリジアのためじゃなくて、私のためだとしたら……)
 安定期とはいえ、王の寝所での戦いは体に負荷がかかりすぎていた。
 それを案じて、止めようとしたのであれば。
「……私を、助けた……?」
 そんなはずはない。
 そんな都合のいい話があるはずはない。
 そう思う心とは別に、新たな疑問が生まれた。
「父親を知ってるの?」
 右手で剣を持ったまま、フィリシアはそっと腹部に手を置いた。
 その小さな命を愛でるはずのもう一人――記憶の彼方へと忘却され続ける男を、彼は知っていると言うのか。身籠っている本人すら知らない相手を。
「……失わせるわけにはいかないのです。アーサー王子のためにも」
 突然出てきたその名に、フィリシアは険しい表情になる。
「だから、ここまで見て見ぬふりをしたの?」
 王子の警護を任され、これほど身軽で機転の利く男だ。フィリシアがなにかをしでかす事ぐらい、容易に想像できただろう。
 それに、すでに敵となる者がいないのなら、敵となる可能性のある者を見張るのが筋という物だ。
「まさか城の者まで逃がすとは思ってもみませんでしたが」
 自白する男を、フィリシアはいぶかしげに見つめる。
 城内に捕らえられていた者たちの中には逃がすにはあまりに惜しいような大物も多くいた。それをすべて見逃してもかまわないと思えるほどの理由がシャドーにはあるらしい。
「そんなにも私を逃がしたかった?」
「この手で鍵をこじ開けようと思うぐらいには」
「……父親を知っていて、子供を死なせたくないの? ……これは誰の子?」
 闇がゆっくりと瞳を伏せる。
「それを知るのは、貴女とアーサー王子だけです」
「……アーサー?」
「逃げてください。彼は貴女を傷つけたくないと思っている。だが許す術も持ってはいない」
「私がエディウスの婚約者だから?」
 フィリシアの言葉に、シャドーはゆっくりと双眸を開いた。
「いいえ――すべての引き金を引いたのが貴女だからです」
 彼の声を聞いた瞬間、全身を悪寒がつつむ。
 その得体の知れない気配に総毛立ち、しっかりと握られていたはずの剣の柄が指からすり抜けて地面へと落ちた。
 指先が震えている。
 フィリシアはそれを茫然と見つめ、そしてその指の間から見える光景にすべての動きを止めた。
 人がいる。
 王城の二階の窓に。
 それはこちらを静かに見つめ、やがてゆっくりと微笑んだ。
 常闇の奥にある深淵のように感情の一片も垣間見ることのできない、それはあまりに歪んだ笑顔。
 あれはきっと知らない人だ。
 よく知る少年の形をしただけの、いびつに笑みだけを刻む人形。
「逃げてください」
 呼吸すら忘れて窓を凝視していた少女に、闇の使いは静かに告げた。
 その声にようやく正気に戻った彼女は、混乱したまま踵を返して森へ飛び込んだ。
 何がいたのかわからない。
 あそこに。
 形はアーサーだと思う。そう見えた。
 だが何かが違う。なにかが決定的にずれている。
「なに……!?」
 全身が恐怖で震えた。
「あれは何なの!?」
 どんなに真摯に説き伏せようとしても、あれには言葉など通じない――そう思わずにはいられなかった。
 いつから彼はあんな魔物を心の中に飼っていたのだろう。
 いつからその存在すらも漆黒へと塗りつぶすほどの憎悪を抱えていたのだろう。
「私が――」
 引き金を、引いた。
 彼を狂気へと導くための、取り返しのつかない引き金を。
 雨に濡れた枝を掻き分け、フィリシアは重くなった足を引きずるように森を進んだ。
 逃げてはいけないと理性が体を押し留めようとしているのに、本能がそれを裏切って前へ進もうともがいている。
 少しでも城から離れようとするかのように。
 あてどなく森を彷徨うのがどれほど危険かを知らないわけではない。けれど、全身を襲い続ける絶望にも似た恐怖がその足を止めさせてくれなかった。
 そして不意に木々の中に動く影を発見し、彼女はようやく立ち止まる。
 普段でも明るいとはいいがたい森が、薄雲のせいでさらに視界を暗くしている。
 フィリシアはとっさに身を隠す場所を探した。
 わずかな休息で体は楽になっていたが、水分を含んで重くなったドレスのままではとても戦えない。勝機のない戦いに挑むことは珍しくなかったが、今はなにより心が疲れ果てている。
 この状態で戦うことは不可能だと判断し、彼女はあたりを見渡した。
 多くの木々が周りにある密林で、体を隠す場所などすぐにでも確保できる。
 それなのに、混乱したままの彼女はそんな簡単なことも判断できずにただ視線を定まりなく移動させた。
 そして、近付いてくる人影にようやく顔を向ける。
 そこには、会いたいと切望するあまり彼女自身の願望が見せているのではないかと思ってしまう、そんな人がいた。
「――フィリシア?」
 驚いたような顔をして、その人は慌てて駆け寄ってくる。慣れない森の中を、それでも必死に走って来てくれる。
 状況もわからないまま、フィリシアは両手を伸ばした。
「エディ」
 崩れ落ちそうになる体を、バルトの王は優しく抱きとめた。
 全身の力が抜ける。張り詰めていた緊張が解け、安堵の吐息が知らずにフィリシアの唇を割った。
「よかった」
 包み込むように少女を抱きしめていた男が、小さくそう漏らした。
「エディ」
 しがみ付き、それが夢でない事を確認するように、彼女の手が彼の背中へと回される。布越しの熱が冷えた体に伝わってきた。
「エディウス」
 震えるフィリシアの体は木々から受けた露のせいでずいぶん濡れている。寒さに震えているのかと思っていたエディウスは、なんとなく彼女の呼びかけに嫌な響きを読み取って、柳眉を寄せた。
「エディウス」
 何度目かの呼びかけのあと、少女の手が彼の服を掴み、勢いよくその体を剥がそうとする。とっさに彼は腕に力を込めた。
「あんた何でこんな所にいるのよ!? ちゃんと追いつくって言ったでしょ!?」
 言った。
 確かにフィリシアは別れ際にエディウスにそう言った。しかし状況は最悪で――ここは素直に、感動の再会という場面であるはずで。
「人の言葉信用しなさいよ! イリジアに見付かったらどうする気よ――!?」
 ひどく理不尽なことで怒鳴られているエディウスは途方に暮れるように少女を見おろし、そしてなにを思ったのか再び冷え切ったその体を抱きくるめようと優しく両腕に力を込める。
「エディウス!」
 意地になってフィリシアは彼の服を引っぱった。
 この腕の中で一人だけ守られるわけにはいかない。今この国がどうなっているのかを、そして彼が誰と戦わなければいけないかを知った以上、ただ一人だけ安穏あんのんとした時間を得るわけにはいかない。
 敵はずっと、危うい均衡を保ったまま身の内にあったのだ。
「エディ」
 フィリシアは彼の服を引っぱっている手をはずし、抱きすくめられたままその手を上へと移動させた。
「人の話を聞きなさい」
 見おろしてくる男に真剣な表情をむけ、彼の頬を思い切りつねった。
「あなたの体はあなただけの物じゃないの。死ぬわけにはいかないのよ?」
「――お前の体もお前一人の物ではない。……死なせるわけにはいかない」
 微妙に違う言葉を返され、フィリシアはエディウスの頬をつねっていた指に力を込める。
「そうじゃ――」
「そうじゃないだろ、このバカ大将! 敵陣真っ只中に単身で突っ込んでくアホがどこにいる!?」
 フィリシアの言葉を遮るようにして聞こえてきた声は、若い男の物だった。
「そりゃ舞姫の処刑日教えたオレも悪いけど!」
 言うなり、どこからともなく黒い影が産み落とされる。
 それは一瞬身を低くして、勢いよく背筋を伸ばすように立ち上がった。
「ちょっと目ぇ放したすきに護衛もつけずに歩き回ってどーする!? そんな要人見たことねーよ! あんたアホだろ!?」
 黒い影はズカズカ近づいてきて言いたい放題言っている。
「あのね! あんたが一人で敵の前に出てもね! 捕まるだけなの! わかってる!? 舞姫放せって交渉するつもりだったらお門違い!」
「……」
 どうやらそのつもりだったらしい。男の声に反応し、エディウスの体が小さく動揺するように揺れた。
「あんた絶対アホ! 二人で並んで火あぶりか断首台決定! オレが暗躍してる意味ないだろ!? 頼むよ!!」
「……すまない」
 ポツリと謝罪するバルト王に、男は盛大に溜め息をついて頭を掻いた。
「しかもあんた追いかければバルトの人間にバンバン会うし」
「……いたのか?」
 エディウスの言葉に男はぴたりと動きを止めた。
「いただろ!? 気付けよ!!」
 エディウスがフィリシアを抱きしめたまま小首を傾げると、黒い影は大げさなほど体を仰け反らせてうなる。
「皆、無事なの!?」
 フィリシアが思わず黒い影に声をかけると、影は大きく肩をすくめた。
「ああ? 一人残らずセタの谷に行くように伝言したよ。まったく、なんでオレがこんなこと……」
 ブツブツ言っている口は、黒い影の一部を不自然なほど白く浮かび上がらせている。よく見ればそれは確かに人なのだが、全身があまりに黒い。
 フィリシアは目を凝らした。
 全身黒ずくめの男は、その双眸さえ黒い布で覆い隠している。にもかかわらず、その歩調に乱れはなく、まるで歩き慣れた平坦な道を進んでいるかのような調子で近付いてきた。
 動きに無駄がない。
 いや、それだけではない。
 まるで緊張感の欠片もなく振る舞ってはいるが、その神経はあたり一帯を網羅するかのごとく張り詰められていた。
(――かなりの腕前。……たぶん)
「シャドーの仲間?」
 静かな問いに、闇に浮かぶ白い口がニヤリと笑った。
「あんたが舞姫様? まったく、たいした女だな。じっと待ってりゃ助けてやったってのに」
 くっと喉の奥で低く笑って彼は足を止めた。
「姫様は姫様で牢屋飛び出すわ、王様は王様で姫様迎えに行くわで――あんたら無茶苦茶」
 そう言うなり、抱きすくめられたまま身動きの取れないフィリシアに向かって首を突き出し、クンクンと臭いを嗅いだ。
「すげぇ血臭。しかも、返り血?」
 露骨な言葉にフィリシアが眉をしかめる。まとったドレスは王の寝所でともに乱戦を経験してきた彼女の戦闘服だ。ところどころ赤黒いシミがあり、それは乾いてごわつく物もあれば、雨を吸ってぼやけて滲んだ物もある。
 あまり感心する姿ではない。それに、まとっているドレスと言ったら妙に露出度が高く――それで助けられたかんもないわけではないが、それでも普通に着るには問題がありすぎて。
「これ、エディウスの趣味?」
 ひとまず問いかけると、
「よく似合っている」
 肯定とも否定とも取れない返事をする。フィリシアは現状も忘れて摘んでいた頬をゆっくりねじった。
「もっとまともな服選びなさいよ!」
「まま、そこで揉めても始まらないから、とにかくいったん引き上げるぞ」
 黒装束の男は来た道をさして、ニッと笑った。
「――だから、あんた誰よ?」
 キリリと指をひねりながら聞くと、さすがにエディウスの顔が歪んでいた。
 が、無視して指に力を入れたままフィリシアは男を見た。
「タッカート。親衛隊長に拾われたんで、恩返し中」
「……シャドーとは?」
「……兄弟」
 フィリシアが目を見開いた。瞬時に警戒心をあらわにする少女に、タッカートは微苦笑する。
「オレはアイツに殺されかけて、親衛隊長に助けられた。忠義を誓うには充分な理由――それに、オレの敵もあそこにいる」
「……その言葉、信用できるの?」
 黒い布で覆われた両目で木々に覆われた城の方角を見ていた男は、フィリシアの声に小さく笑った。
「少なくとも、あんたたちを裏切った奴みたいな真似はしない」
 意味深な言葉に、フィリシアは唇を噛んだ。
 言葉の奥に隠された意味など深く問い詰める気にもなれず、フィリシアはいまだにひねりあげていたエディウスの頬をようやく解放した。
「おっと、親衛隊長のご登場」
 くすりとタッカートが笑う。エディウスがようやく解放された頬をさするために両手を放したのをいい事に、フィリシアはするりとその腕の中からすり抜けた。
 そしてタッカートの背中越しに物凄い勢いで走ってくるガイゼを発見する。相変わらず猛獣並みの形相である。
「……目、見えてないわよね?」
 フィリシアは一応タッカートに確認した。
「兄貴に潰されたから」
 飄々と男は返す。
「お蔭で耳だけは人一倍いいぜ? バルト城はいまだに祝宴でバカ騒ぎ――呑気なもんだ」
 唖然としてフィリシアは男を見上げた。耳がいいにも程がある。人間の聴覚をはるかに超えた男は肩をすくませた。
「昨日は雨音で大変だったけどな。まあ今もいろいろうるさいけど」
 とりあえず後ろが。
 と、彼は小さく続けて笑った。
「陛下! ――フィリシア様!?」
 我を忘れて向かってくるその姿を見ると、どうも反射的に逃げたくなってしまう。フィリシアはこっそりエディウスの陰に隠れた。
「ご無事で! 捜しました!!」
「野生動物並みの勘だな」
 ボソリとタッカートがつぶやく。密林でよくも捜し当てたと言いたいらしいが、彼は意外に人を捜すのが上手い。すっかり鳴りを潜めた胡散臭い吟遊詩人は、事あるごとに彼に見付かって追い掛け回されていたのだ。
 その過去を思い出して、ふと胸がざわつく。
 その時、微動だにしなかった目の前の男が、ゆっくりと体の向きを変えた。
「エディウス?」
 不思議に思って彼を見上げると、彼の頭上には密林にはふさわしくないような青空がぽっかりと浮かんでいた。
 思考が一瞬停止する。
 まるで切り取られたかのような青空は、奇妙なほど清々しい。
 その青空の下へ男はゆっくりと向かっている。
「陛下?」
 ようやくたどり着いたガイゼは肩で大きく息をしながら、小さく拓けた空間を歩くバルト王を見つめた。
 フィリシアが体をこわばらせる。
 そこは、名もない墓標が二つ並ぶ静寂の空間。
(――三つ……)
 皮膚が粟立つ。
 以前見たときは確かに二つしかなかったはずの墓標は、もう一つ増えていた。
 まだ新しいと知れる墓石には、何かがかけられている。それは日の光に鈍く輝き、自己を主張し続けていた。
 フィリシアは重い足を引きずるようにエディウスのあとを追った。彼は墓石の前で立ち止まり、感情の読み取れない瞳でしばらく石を見つめていた。
「エディウス……?」
 彼は一番奥の墓石を食い入るように見て、そしてようやく口を開く。
「なぜ増えている」
 と。
 フィリシアは彼の言っている意味がよく理解できずに息をひそめた。
「私の作った墓は、これだけだ」
 彼は一番奥の墓を指差して、誰に語るともなくそう口にした。
「え……?」
「私が作ったのはアーサーの墓だけだ。お前の墓は作らなかった」
 ざわりと背筋に冷たい物が走り抜ける。
 忘れかけていたはずのその言葉は、まるで拒絶のように冷たくフィリシアの耳に届いた。
「わ……私を殺したの? アーサーといっしょに?」
 ゆらりとエディウスがフィリシアに向き直る。それは、彼がクカを使い続けていた時に見せた茫洋とした表情だった。
「アーサーは一年前、祝儀の日に。お前はその二ヵ月後に――殺したはずの、アーサーの目の前で」
 焦点の合わない瞳は、フィリシアでなくもっと別の物を見るかのように細められた。
 それが地下牢で見たアーサーと重なって、あの時の恐怖がよみがえってくる。
「どうして――!?」
 なぜ、この二人はここまで似ていながらも反発しあうのだろう。同じ血を分けた兄弟であるにもかかわらず。
「殺してなんかいないじゃない! アーサーも私も生きてるじゃない! 殺す理由なんてないでしょ!!」
 フィリシアの言葉を聞いて、ふと、エディウスが微笑んだ。
「殺す理由……? お前が私を裏切り、アーサーと通じていたからだろう?」
 どこか不思議そうに問いかける。
 それがあまりに不自然で、フィリシアは激しく首をふっていた。
「そんなこと――してない!」
 記憶はいまだに戻ってはいないが、そんなはずはない。裏切るなど考えられない。少なくとも、今の自分に裏切る気持ちなど微塵も存在しない。
 それは確かだった。
「どうして信じてくれないの!?」
 悲鳴のようなフィリシアの言葉にエディウスが薄く笑んだ。
「なにを、信じる?」
「私とアーサーは、あなたの婚約者と弟でしょ!? それがどうして――」
「違う」
 ポツリと男はつぶやいた。
 感情すらも凍りつかせ、彼はフィリシアを視界へ入れたまま再び口を開いた。
「あれは弟ではない」
「エディウス……?」
「あれは、私とウェスタリア様との間にできた不義の子だ」
 なにを言っているのかがわからなくて、フィリシアはエディウスを言葉もなく見つめていた。
 ウェスタリアはアーサーの母親で、イリジアの第三王女だった女。夫である前バルト王に相手にされず、クカを常用し、心を壊した女性。
(クカをエディウスに教えたのが、彼女?)
 もともと常用していたのなら、そして正気を失っていたのなら、その機会は充分ある。王子に麻薬をすすめる者などそう多くはないだろから、身近だった彼女の手からエディウスに渡った可能性は限りなく高かった。
 美しい側室に心を奪われた夫を、彼女はどんな思いで見つめ続けたのだろう。
 愛する夫が別の女に生ませた子供は、彼女の目にどう映っていたのか。
 エディウスの歳が二十九で、アーサーの歳が十七ならば、いくつの時にできた子供かは容易に想像がつく。
 それは、あってはならない歪んだ愛情の形。
 正気でない女がまだ幼かった少年にしたのは、人道を外れた背徳の行為だった。そしてその果てに生まれたのがバルトの第二王子=\―。
「アーサー……」
「なにを信じればいい? なにを疑えばいい? お前はとうに狂っていると言われたら、いったい何人がその言葉を否定できる?」
 ささやきながら、エディウスはその場に座り込んで墓石に両手を伸ばした。
 彼の言葉どおりなら、そこに眠っているのは彼の子供。不義の子とはいえ、長く彼の傍で彼を支えてきた大切な存在だったはずだ。
 では、王城にいるのは誰≠セ?
 その墓の隣にある墓標の下に眠るのは――。
 アーサー≠ヘフィリシア≠ノ言った。
 あれが彼と自分の墓であると。
 性質たちの悪い冗談を言って、そして笑っていた。
 けれどあれがもっと別の意味を含む言葉であったのなら。
 そこまで考えたフィリシアの視線が、誰が作ったとも知れない真新しい最後の墓標をとらえた。
 その墓標には、世界に二つと存在しないだろう見覚えのある首飾りがかかっていた。
 わずかな風に揺れ光を反射するのは、緻密で優美でどこか禍禍まがまがしい模様が彫り込まれている大きさの違う二つの鍵。
「セルファに盗られた……守り人の鍵……」
 その鍵は、大きく曲がっている。もともと壊れていた大きめの鍵は完全に二つに折れ曲がり、小さめの鍵の中央にあったはずの赤い石は砕かれて欠片がわずかに残るだけとなっていた。
 骨董品としての価値も出そうだったその鍵は、すでにガラクタと化して墓標にかけられている。
 守り人の鍵はセルファが奪い、それを追いかけて森へ入った。
 そこにはアーサーがいて、彼はセルファが城へ帰ったと言った。
 けれど実際、その姿を見た者は一人としていなかった。彼の荷物はそのまま放置され続け、やがて倉庫へと押し込められた。
 フィリシアはぐるりと森を見渡して、その光景に愕然とする。
 セルファを捜していた途中に彼に会ったのもここだ。
 そう、確かにここだ。
 だがセルファはここにはいなくて――。
(でも、もしここに彼がいたのなら)
 辻褄が、合うのではないのか。
 昨日セルファの行方を聞いたとき、彼は確かに言ったのだ。
 鍵はもう使えない。
 あれは壊れた、と。
 その言葉の意味も深く考えず、彼女は聞き流したのだ。その不自然な会話を。
 鍵の状態を知るはずのない彼がそれを語ったことよりも、鍵の存在を知っていることばかりに気をとめていた。
 それを語る彼がいつもと別人に見え、その事に気をとられていた。
 フィリシアはその場にしゃがみ込む。
「フィリシア様……」
 青ざめたガイゼが小さく呻くように声をかける。
 しかし、それすらフィリシアの耳には入ることなく、彼女は震える指で鍵に触れた。
「セルファはこの下にいるの?」
 それを報せようとでもするかのようにかけられた鍵。
「セルファを殺したのは、アーサー?」
 フィリシアの言葉にガイゼが息をのむ。
「私を許せない? ――でも、恨んでも……いない?」
 混乱する。過去に彼からもらった言葉と、それにまつわる情報があまりに曖昧で。
「どうして人を殺せるの? 赤ちゃんを取り上げたいって――」
 そう嬉しそうに話してくれた人が、同じ顔をしたまま人を殺せるのか。あれほどまでに憎悪をにじませ笑むことができるのか。
「だから、産婦人科の……?」
 何かが引っかかっている。
 小さく。
 ほんの小さく気付かぬほどに。
 いい医者になりそうと言ったら、二回目だと返して笑った。
 フィリシアはなにかに惹かれるように、鍵にそそぎ続けていた視線を中央の墓標に移した。
 そして、目を見開く。
 墓標にこれほど近付いたことはなく、だから、そこに名が刻まれているとは思いもよらなかった。
 ずっと名もないと思いこんでいたその墓標には、小さな小さな文字が、まるで隠すように刻まれていた。
 それはこの国の文字ではなくて。
 それはあまりにも懐かしい過去の残像。
「エディウス」
 震える声を抑えることができなかった。
 そう、だから彼はこれほどまでに――。
「エディ」
 これほどまでに、憎悪するのだ。
 エディウスを、フィリシアを――そしてこの世界そのものを。
「彼を、止めなきゃ」
 急激に色を失っていく世界に向かって、フィリシアはあえぐように言葉を続けた。
「止めなきゃ――あそこにいるのは、アーサーじゃないの」
 そう、あそこにいるのは優しい時間をくれた、大切な大切な――
 過去の、残像。

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