【十七】
足音を忍ばせて、フィリシアは壁に寄り添うようにして進んだ。
自分がどこに向かっているのかもすでによくわからない。たどり着いた先に平穏があるとは、今はとても思えなかった。
それでも前に進み続けることを彼女は選ぶ。
どんなときでも、留まって得られるのは彼女が望む未来ではない。
それがはっきりとしている今、次に何をするべきかをふと考えた。
出口さえわかれば、逃げ出す事ができる。イリジアの兵は城内をすでに制圧したようで、争うような声は聞こえては来なかった。
ただ時折、甲冑を着ているだろう彼らの歩き回る音と、男たちの歓声が彼女の元に届いた。
どこかで祝宴が執り行われているようだ。
王の寝所の一件を別にすれば、圧倒的な数での侵略はほぼ予定通りに進行したのかもしれない。それなら彼らが喜びの声をあげるのも頷ける。
(私を囮にエディウスをおびき寄せる気なら、闇雲に動き回るより鋭気を養ったほうがいい――か)
自嘲気味にフィリシアが笑う。
本当にそれだけの価値が自分にあるのか、記憶のないフィリシアはそれすらわからないのだ。
(でも、もしそうなら、私に価値≠ェあるのなら――)
それを利用させるわけにはいかないから。
「戦わなきゃね」
ふわりと少女が微笑む。
その視線の先には、彼女に背を向けるようにして座り込み、前後に大きく揺れる男の背があった。
なにかを抱え込んでいるらしいその背中は、王城に攻め入った兵士とは思えないほど貧相に弧を描いている。
フィリシアは滑るように男の背後に近付いた。
「ねぇお兄さん」
体をかがめながら優しく声をかけると、前後に揺れ続けていた体がぴたりと止まる。
そしてゆっくり振り返った。
男が身につけていたのは不気味に光る甲冑とは違い、見慣れぬ形状の若草色の服だ。バルトの物ではないとすぐに知れるゆったりとした服の脇からは、小さな酒樽が見えた。
どうやら一杯引っ掛けていたらしい。
あの裏切り者が口封じのために渡した可能性が高い。でなければ、わざわざ廊下の真ん中で一人寂しく酒盛りなどしないだろう。
男は赤い顔をフィリシアに向け奇妙な声をあげた。とろんとした目は、かなり酒が回っているようで今にも閉じてしまいそうである。
これでは見張りとしての役目も果たせない。
「ねえ、私のこと知ってる?」
胸の開けたドレスはまだまとったままだ。フィリシアはその谷間を強調するように、わざと深くかがんでみせた。
どうやら素直な性質らしい。男の口がぽかんと開いている。
「知ってるの?」
「いい女だな……」
まるで的外れなことを言う彼の視線は、フィリシアの顔ではなく胸元に吸い寄せられていた。
(……使えるのよね、この方法。でもちゃんと、エディウスには文句言わなきゃ)
彼の好みでドレスが選ばれていたのなら、やはり問題があるように思う。少なくとも今フィリシアがしている格好で、男の目が露骨に胸に釘付けになっているのだから、どう考えても開きすぎという事だ。
フィリシアは小さく頷いて、再び口を開いた。
「私、今日の舞踏会に呼ばれたんだけど、迷っちゃったの。案内してくれない?」
ゆっくり噛み砕くように言うと、男の眼球がぐるりと一回転する。
「舞踏会?」
酒が回りすぎているらしい。
男は一瞬前のめりになって、低く唸っている。
「ああ、舞踏会……ダメだ、あれは終わったんだ」
うわ言のようにつぶやき、彼は小さな酒樽を持ちあげてコルクの抜かれたそれを口元に運んだ。その傾き加減から、かなりの量を飲んでいるのだと判断できる。
「終わったの? じゃあ外に――」
言いかけて、フィリシアは一瞬言葉を濁した。
出口を聞けば、すぐにでも逃げられる。この男が知らない可能性もなくはないが、全く見当がつかない自分よりは充分に役に立つ。
しかし、黙り込んだ彼女は予定していた質問とは別のことを口にした。
「連れがいるの。皆がどこに行ったか知ってる?」
「皆……ああ、皆……」
男は呻くなり、さらにぐったりと崩れていく。
「ちょ! ちょっと! 寝るなら質問に答えなさい! バルトの人間は!?」
フィリシアの言葉に男はハッとしたように顔をあげた。酒樽を抱いていた腕をはずし、慌てて剣にその手を伸ばす。
しかし、彼が伸ばした先にはあるべきはずの物がない。
手は虚しく空を掻き、鞘にぶつかった。
「お、お前、舞姫……!」
見開かれた目に微笑む少女が映る。
「答えてもらえる?」
男はその剣がいつ奪われたのかもわからないまま、喉元に突きつけられた切っ先を見た。
「言うわけ……」
「手加減しないわよ? 顔の皮剥がされたくなかったら言いなさい」
ついっと伸ばされた剣先は、男の喉仏に当てられた。
「いい事を教えてあげる。その酒渡したの、バルト兵?」
男はフィリシアの問いには答えず、唾を飲み込んだ。
「そいつ、クカを使ってるかもしれないの。この意味わかるかしら?」
ゆっくりとした彼女の口調に男は怪訝そうな顔をして、すぐに目を大きく見開いた。
「責任は誰が負うべきか――あなたが仕える主人は、忠実な部下の言葉を信用する人間? それとも平気で寝返る男を信用する人間?」
「っ……!」
「どっち? 私を案内するのは、あなた≠ナなくてもいいのよ?」
「――あんた、たいしたタマだな」
皮肉を込めた男の言葉に、それ以上に皮肉っぽくフィリシアが笑う。
男はどうやら、フィリシアの言葉を正しく理解したらしい。
フィリシアに道を指し示すのは、目の前の男でなくてもいいのだ。濡れ衣を着せる事のできる相手は、地下牢に囚われたままの下賤者。
何かあったとしても、痛くも痒くもない相手だ。
「わざわざ血を見たくないし――あの男、許せないの。駒の一つなら潰してやる」
飾ることもない少女の本心に、男は言葉をのみこんでからゆらりと立ち上がった。向けられる剣先に少しだけ緊張したような表情をして歩き出す。
「あんたの腕前は知ってるさ」
手にしていた酒樽を廊下に置くと、その体は大きくよろめいた。
「飲みすぎよ」
呆れたようなフィリシアの声に、男は肩を揺らして笑った。
「当たり前だろ、祝宴だ。長くこの機を窺ってたんだ、酔わずにはいられねぇ」
千鳥足で歩きながら、男は言葉を続ける。
「アーサー王子が加担しなきゃ、この作戦は成功しなかった。王子は
「――彼の意志?」
思わず問いかけるフィリシアに、男は顔だけを向けた。
「何があったか知らねぇけどな。……あれは、どんな狂人より狂ってるよ」
そして再び肩を揺らして笑う。
フィリシアは口をつぐんで男の背を見つめた。動揺のために彼に向けられた剣先が小刻みに揺れている。
それを悟られまいと、彼女は剣をしっかりと握りなおした。
長く続く廊下をしばらく歩き、男は不意に振り返った。
「なぁ、オレが案内した場所が違う所だとは思わないのか?」
「違う?」
「オレの仲間の所だ」
「――別にいいわよ。また暴れるだけだから」
フィリシアの言葉に、男は肩を大きく揺らす。
「いや、さすがに舞姫様だ。大陸一の踊り子に会えて嬉しいぜ」
フィリシアがなにを思って答えたのかも知らず、相変わらずの千鳥足でヨロヨロと歩きながら彼はなおも笑い続けている。
「殺すのは勿体ねぇなぁ。オレも一回あんたの舞を見てみたいよ」
「そのうちにね」
社交辞令のように返すと、それもおかしかったのかさらに笑みを深くした。
「そのうちな。ああ、見たいねぇ」
そう言って、彼は一つのドアの前で足を止めた。そしておもむろに顎をしゃくってみせる。
「ここに全員押し込められてるよ。ここから一番近い出口は西の通用口。次の角を右。そこにゃ見張りはいない」
「少しの間なら見張っといてやる。顔の皮の礼」
上機嫌な声は、やはりどう考えても酒が回りすぎているとしか思えない。一眠りしたらこの出来事すら忘れていそうな雰囲気だ。
(そっちのほうがいいか……)
そう思い、フィリシアは苦笑した。酒のせいで記憶が曖昧になるのなら、この男にも迷惑をかけなくてすむ。
ひとまず地下牢にはあからさまに怪しい男が捕まっているのだ。イリジアの人間がよほど捻くれていない限りは、誰がどう見てもフィリシアの代わりに閉じ込められている男の方を疑うだろう。
「ありがとう」
小さく礼を言うと、肩越しにあがった手がヒラヒラとふられた。
「その剣、餞別」
男はそう残して姿を消した。フィリシアは手に握られたままの剣を見て瞳を細める。敵の物とはいえ武器があるのは有り難い。少なくとも逃げることばかりを考えなくてもいい。
フィリシアは、体中をこわばらせている緊張の糸を解きほぐすように、大きく深呼吸をしてからドアノブに触れた。
捻ってみるが、案の定鍵はかけられている。
フィリシアはダリスンから奪っておいた鍵束を手にし、それを次々とドアノブの鍵穴に差し込んでいった。
残り三つというところで、ようやくドアノブが鈍い音をたてる。
彼女は鍵束をドアノブにくっつけたまま、勢いよくドアを開けた。
「逃げるわよ!」
充分に広さのあるその部屋には、窓らしい窓がない。むせ返るような湿度の中、多くの人影がいっせいに動いた。
ご丁寧に城中の人間を集めて詰め込んだらしい。
他の部屋よりは広めのその一室は、身動きが取れないのではないかと思うほどの人数が押し込められていた。
「フィリシア様!?」
どよめき始めた室内を制するために、
「黙って」
そう、低く命令を出す。
「見付かれれば命はないわ。――出て。西の通用口には見張りがいないから、そこから逃げて。音をたてないで、声を出しても駄目」
言われた言葉を理解して、室内に押し込められていた者たちの何人かが頷くのが見えた。
フィリシアは次々と吐き出されていくバルトの民を確認しながら鋭く辺りを見渡す。剣は一本。戦える人間は、この中ではほんのわずかだろう。
出てきた人間の大半は夜会に呼ばれた重鎮と城で働く侍女や使用人だった。
兵士が異様に少ないのも、アーサーが裏で糸を引いた可能性が高い。
周到に準備された侵略。
その中心にいたのがアーサー。守るべきはずの国を敵に差し出したこの国の王子。
フィリシアは汗ばむ手をドレスでぬぐった。
敵対するには、彼を知りすぎている。フィリシアの中でアーサーという存在は、憎悪に囚われ対峙するべき相手ではなかった。心を占めるのは怒りや憎しみではなく、ただ胸が痛くなるほどの悲しみだった。
こんな状態にあってなお、彼を信じたいと思う心がある。
「フィリシア様」
小さくかけられた声に、はっとして顔をあげた。
「全員出ました」
最後の一人らしいバルト兵は、ぐったりとした少年を背負っている。
「その子……」
「平気です。酸欠と緊張で気を失っているだけで」
「そう」
胸を撫で下ろし、フィリシアは歩き出した。
見張りを一人に留めてくれた侵略者たちは宴の真っ最中だ。バルトに兵士が少ないことを見越し、そして、侵略の際ほとんど無抵抗で捕まったその従順さから安心しきっているのかもしれない。
実際、バルトの民は戦闘能力に秀でた者は少ないし、鍛え抜かれた兵士を別にすれば、ずいぶんとか弱い一族と思われていた。
あまりいい評価ではないが、今はそれに救われている。
バルトは城下町を中心とした貿易で栄えている巨大国家でもあった。肉体より頭と話術を駆使して生き抜いてきた国民たちの多くは、イリジアにとっても統治しやすい人種かもしれない。
恐怖は判断を鈍らせる。
やがて人々の胸に芽吹くだろう反旗は、圧倒的な武力で早々に潰されるに違いない。
それだけの力を、イリジアが蓄えてきたとしたら――。
「急ぎましょう」
フィリシアが少年を背負ったバルト兵の肩を軽く叩くと、その手に小さな手が触れた。
少年が苦しげに目を開ける。
「大丈夫?」
巨大な城に作られた小さな扉をくぐり、フィリシアは少年を見た。白む世界は、動乱を予期させる新たな一日の幕開けをしらせてきた。
イリジア兵の祝宴が終われば、彼らはフィリシアが閉じ込められていたあの地下牢に行く。いや、その前に給仕の者が訪れる。
そうすればあの男が見付かり、彼女が脱獄したことが知れわたる。
早急にここから離れる必要がある。
「……様……」
少年は小さくあえぐように口を開いた。
フィリシアは深い森に体を隠すように移動しながらも少年の声に耳を傾ける。
「――様は……」
搾り出された少年の言葉に、フィリシアは足を止めた。
走り続けていたバルト兵が驚いて振り返る。
「そのまま走って!」
「フィリシア様?」
歩調を乱して男は立ち止まる。
「行って! まだ中に――アーサーがいるの」
迷いながらもそう伝えると兵士が駆け戻ってきた。蒼白となった顔をまっすぐフィリシアにむけ、覚悟を決めるように口を開く。
「自分が行きます。自分がアーサー王子をお助けするので、フィリシア様はこの子を」
彼は背負っていた少年をフィリシアに渡そうと体をわずかに傾けた。
フィリシアはその体を優しく押して首をふる。
「私が行くわ」
彼は、アーサーを助ける≠ニ言った。
(アーサーが内乱の首謀者だとは……気付かれていない?)
その可能性は皆無ではない。
ならば、彼を行かせるべきではない。アーサーが首謀者だと知られれば、内通者の王子がどうなるかは見えている。
まだ心のどこかでアーサーという少年を信じたいと思っているフィリシアは、兵士の顔を正面から見つめた。
「安全なところまで逃げて。アーサーは私が連れ戻す」
「ですが……」
「行きなさい、時間がないわ。大丈夫、ちゃんと戦えるから」
フィリシアは戸惑う兵士に剣を見せた。
兵士用に鍛えられた持ち重みのする剣は、フィリシアにとってはかなり扱いにくい物だ。だが、心強い事には変わりない。
まだ戦える。
ほんの少しの休養が、彼女の体を突き動かす。
立ち止まる事のないように。
後悔を、しないように。
「行きなさい」
静かな声に兵士は唇を噛みしめてゆっくりと頷いた。
「ご武運を」
残された言葉にフィリシアが微笑む。
「あなたもね」
無謀だとはわかっている。だが、引き下がる事はできなかった。
王城の侵略はバルトの崩壊を意味すると同時に、二人の男の対立の図式を表す。
戦うべきではないのだ。
あの二人は――。
エディウスとアーサーは、戦ってはいけないのだ。
だから、今できることを。
再び走り始めたバルト兵の背は、すぐに深い森へと吸い込まれていった。
そこは密林。王城に隣接しながら、人の手がほとんど加わることなく残されている巨大な迷路。
イリジアの兵が逃げた者たちを見つけるのは困難だろう。
それを確認してから、フィリシアは再び城に足を向けた。
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