【十六】

 金属同士がぶつかる音が響いた。
 石で囲まれ世界と隔離された薄暗い部屋は、小さな物音さえ大きく反響させる。
 フィリシアはわずかに瞳を開けた。
 不快な音とともに地下牢の鉄格子がゆっくりと開く。
(食事じゃない……)
 身じろぎせず、彼女はそう判断した。
 食事なら声をかけてフィリシアを起こし、床に腹ばいにさせるか壁に手をつけさせてから南京錠を開けるはずだ。いくら彼女が武器となるものを一切持っていないとわかっていても、王の寝所であれだけ暴れたのだから扱いは慎重にならざるを得ない。
 しかし、鍵を開けた人間は一言も発せず、むしろ足音さえ忍ばせて地下牢の中に入ってきた。
 小さな雑音で目が覚めてしまうほどその神経は高ぶっているのにも関わらず、ひと時ではあるが深い眠りにつけた。お蔭で体がずいぶん楽になっている。
(――バカがいてくれて助かる……)
 フィリシアは薄く開いた双眸を閉じた。
 慎重に近付いてくる気配がベッドの前で止まる。布のこすれる音が耳に届いたとき、不意に手首を掴みあげられた。
 両手首を乱暴にまとめ、強引にそれを頭上へと移動させる。
 フィリシアが目を開けたとき、そこには見覚えのある顔があった。
「抵抗するなよ、舞姫さま。給仕が来たあとは、あんた自分がどうなるかわかってるだろ?」
 光りの欠片すら宿さないよどみ切った目が覗き込んできた。興奮したように上ずる声は早口で熱を帯びている。
「王子がいるからよ、占領してもバルトの女を犯れねぇんだよ。なぁ、こんなの理不尽だろ? イリジア兵はお預け喰らってるんだよ。あんたはどうせすぐに処刑されるんだし、捕虜になった女が辿る道なんてどれも一緒だろ? 他の女の分も、あんたが皆を慰めるんだよ」
 そう言ったのは、忘れたくても忘れられない裏切り者、門番のダリスンだった。
 彼の言ったことは確かに正しい=B
 捕虜になった女が大切にされるのは有り得ないのだ。しかも、すでに処刑の日取りまで決まっている――その間、ただ牢屋に入れておくほど彼らが紳士的であるはずがない。
 無情な殺戮を繰り返さなかった分、ここには女が多い。しかし、バルトの王子でもあるアーサーがいることにより、彼らはバルトの民を簡単には傷つけられないのが現状だろう。
 戦利品を前に手を出せないでいるのだ。
 その中にあって、フィリシアは特別≠ネ存在になっているに違いない。
 イリジア兵を多く負傷させた舞姫は、彼らにとっては間違いなく敵なのだ。
 捕らえたあと、死刑執行直前まで嬲りものにしたとしても――誰も、咎めはしない。
 この男は、イリジア兵が来れば自分がおこぼれに預かれないとふんで、まだ落ち着きを取り戻していない今、ここに忍び込んで来たという所か。
「一番に味見しに来たってわけ?」
 呆れるほど単純な発想にフィリシアは内心溜め息をつく。
「大人しくしてろよ」
 ダリスンは口の端に溜まった泡を飛ばしながら頷いた。抵抗する気配のないフィリシアの姿を単純にあきらめたと判断したようである。
 彼が手首を掴む力が少しだけ緩くなった。
 フィリシアは男の腕を見た。
 王の寝所の前で戦ったときの傷は手当てされているようだ。無様な姿を晒したあの時のことを、この男はあまり気にとめていないらしい。
(頭弱いのかしら)
 興奮しきっている男は片手でフィリシアの手首を押さえつけ、もう片手に持たれた紐で彼女の抵抗を防ぐためにその手首を縛ろうとしている。
 ダリスンの腕に巻かれた包帯は所々赤く染まっていた。
 フィリシアは小さく息を吸う。
 ダリスンは彼女の手首を縛ろうと悪戦苦闘しているが、なかなか上手くできない。フィリシアは目の前で小刻みに震えている腕を見つめた。
(コイツもクカ常習者?)
 ふと鼻腔に届いたわずかな残り香に麻薬の名を思い出す。もし正気だったら、バルトを裏切ることもなかったかもしれない。エディウスの茫洋とした表情と男の顔は比べるにはあまりに接点が少なかったが、正気を保てない事実がなぜかそんな思いを彼女の胸へと運んできた。
「……取り込み中のトコ悪いんだけど」
 フィリシアがそう声をかけると、濁っているくせに血走った目が彼女に向けられた。
「重いからどいてくれない?」
 にっこり微笑み、彼女はダリスンの腕めがけて頭を振った。
 ダリスンが一瞬息を詰めた。
 頭突きを喰らわせた腕の包帯が、見る見る赤く染まっていく。
「てめぇ……!!」
 低く呻く彼が拳を振り上げる。この状態で大声を出さないとなると、この男も他の人間に知られると、何かまずい事があるらしい。
 フィリシアが遠慮なく足を振り上げると、彼女の膝がダリスンの股間にめり込んだ。
 掠れた悲鳴がダリスンの口から漏れ、彼は前のめりに倒れてきた。
 彼女はそれを瞬時に避け、股間を押さえて丸くなった男をベッドの上に無造作に転がす。
「悪いけど遊んであげる暇ないの」
 フィリシアは激痛のために声すら出せずに丸くなっているダリスンから鍵束を奪い、素早く地下牢から出た。
 そして、牢屋の扉に引っ掛けられたままとなっていた南京錠を再び閉めなおす。
「てめぇ! クソアマ!! 殺してやる……!!」
 ダリスンは地下牢のベッドから涙目でフィリシアを睨みつけてきたが、股間を押さえたままの滑稽な姿では、説得力の欠片もない。
「大声出す? 結局は恥かくだけだもんね?」
 まだ痛みが消えないダリスンは、フィリシアの言葉に低く呻いた。
 彼女は小さく笑って、階段を駆け上がる。
 逃げられる。
 エディウスの元へ帰ることができる。
 そっと腹部に手をやって、彼女は吐息をついて顔をあげる。
 閉ざされているドアを細く開き、息を殺して神経を集中させる。そこは松明を等間隔に掲げた、見たこともない長い廊下だった。
 窓さえないその光景は、少なくともそこが外壁に面してはいないという事を示している。
 さらに、死角となり敵から身を隠せるような場所はなく、思った以上に状況が悪い。
 地下牢から出れば上手くいくと思っていた。
 この暗い場所から抜け出せばエディウスの元に帰れるとそう信じていた。
 それですべてが終わったわけではなく、直面しなければならない問題は多く残されていたが、なんとかなるはずだと淡い期待を抱いていた。
 しかし、それはあまりに楽観的な考えだった。
 彼女は半ば絶望しながら、あたりを注意深く見渡した。
 両側は完全な石の壁だ。ドアもない。
「出口は……」
 フィリシアはちらりと地下牢を見た。あの裏切り者に出口を聞こうかと一瞬悩み、すぐにあきらめた。
(どうせまともな事なんて言わないだろうし)
 いまだに呻いている情けない男から視線をはずし、フィリシアはもう一度外の様子を伺う。
 人の気配はない。
 彼女は意を決して廊下へと足を踏み出す。どこを進んでいいのかわからない。バルト城は異様に大きく、使われていない部屋も多い。
 空き部屋が近くにあれば隠れて敵をやり過ごすこともできるが、逃げ出すとなるとそう簡単にはいかないだろう。
 フィリシアは壁に貼り付く。
 右に進んでいいのか左に進むべきなのか、それすらもわからない。過去にフィリシアが歩き回っていたのがバルト城のほんの一画であったことを、彼女は改めて痛感した。
 視線を走らせ、迷いながらも左へ進んだ。
 その選択が間違っていたら、進んでいる道が出口ではなくまったく違う場所に通じていたとしたら――そう思うだけで、全身の血が逆流しそうだった。
(もし)
 もし、敵に見付かったら。
 剣を向けられたら、それで終わりだと彼女は自分に言い聞かせる。
 これが最後。
 無事に城から抜け出して逃げられればいい。けれど、そうでなければ――。
「派手に騒いで、死んでやる」
 フィリシアは長い廊下をきつく睨みつけた。
「絶対に私の代役なんて立てさせない」
 それで救える命がある。
 自分と子供の命を代償に救うのは、バルトの王とそれに従う多くの民。
 彼女はすべての迷いを振り切り、そして歩き始めた。

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