【十五】
涙をぬぐい、フィリシアは手を伸ばして南京錠に触れた。
地下牢から逃げ出さなければ、もう悲劇しか残されていない。アーサーがイリジア兵を動かせるなら、そして本気でエディウスを捕らえる気なら、それを回避する方法はたった一つ。
彼女はきゅっと口元を引き結んだ。
泣いていても始まらない。ただ待つだけの未来に残されているのは、バルト王と婚約者の死、そして大国の崩壊を知らしめる破滅的なものだ。
公開処刑を阻止すれば、それでエディウスを守る事ができると思っていた。
命を絶てばそれですべてが終わるのだと――まさか、別人を処刑台に立たせるなど、そんな非情な手段をとるとは考えもしなかった。
自分一人が死んでも、それは哀れなバルトの娘を一人、処刑台に送るだけの結果になる。アーサーはその事実をフィリシアに伝えるためだけにここに来たに違いない。
そして、それを知ればフィリシアが自害できなくなるのも計算の上だろう。
エディウスは、果たして来てくれるだろうか。危険とわかっているその場に、死さえ覚悟して。
フィリシアは唇を強く噛んで、南京錠を引っぱる。
真新しいそれは、彼女の力ではびくともしなかった。
しっかりと南京錠で繋がれた格子戸もわずかに揺れるだけで、とても開きそうにない。なにか針金でもあれば南京錠を開けられたかもしれないが、投獄される前に武器や道具になりそうなものは一切取り上げられていた。
フィリシアは立ち上がって大きく息を吸う。
足を大きく持ち上げて、その踵をドアめがけて勢いよく当てる。
「……っ」
鈍い金属音とともに、足がじんじん痺れた。
「丈夫じゃないの」
わずかに揺れるに留まったそのドアは、やはりフィリシアの力ではどうなるものでもないらしい。
窓のないその空間では外部に助けを求める事もできなかった。
大きな石を組み合わせて作られた壁の向こうは土。過去に投獄された人間が脱走用に細工をしていないかと探し回ってみたが、簡易ベッドと汚物入れがあるだけというそこは、さほど時間もかけずにそんな都合のいいものがない事実をフィリシアに伝えた。
フィリシアは不快な音をたてる小さな木のベッドに腰をおろした。使用しないときには壁に収納されるようで、そのベッドはただの一枚板を鎖で固定するだけの作りだ。
少し考え、フィリシアはそのベッドを持ち上げてみた。
なにもない。
横穴でも作ってくれていればいいのに、大きな岩の壁は動かされた痕跡もない。
フィリシアはもう一度ベッドに腰掛けた。簡易トイレとして置かれた汚物入れが視界に入り、眉をしかめる。
もうどのくらい時間が過ぎたのかもよくわからない。
そろそろ日が昇る頃かもしれない。
急に肌寒くなった気がして、フィリシアは己の肩をきつく抱いた。
いずれ誰かが食事を運んでくれるだろう。食事を差し入れる隙間さえ確保していない格子だから、必ず南京錠が外される。
その時が好機だ。
それまでわずかに時間がある。
フィリシアは体を横たえて膝を抱えて丸くなる。
眠ったほうがいい。たとえどんな窮地でも体を休めることを忘れてはいけない。
さんざん動き回った体はすでに限界を訴えている。
フィリシアは薄汚れた布をかぶって目を閉じた。
その目が、薄く開く。
(……動いてる)
手がゆっくりと腹部におりた。あれほど暴れまわってかなりの負担を強いたはずなのに、そこに宿る命は確かに息づいている。
「ごめんね……生んであげられないかもしれない」
弱音を吐き出すと、腹部でもう一度動くのがわかった。今までほとんど動く事もなく、フィリシア自身も忘れかけるほど静かだった胎児が、こんな時に自己を主張しているようだ。
まだこれから数ヶ月かけて大きくなるその胎児は、生まれる前から生きようともがいているのかもしれない。
フィリシアは双眸を閉じる。
一人ではないと、ようやく気付いた。
それがどれほど心強いことなのかも、いま初めて知った。
「いっしょに帰ろうね」
愛しい人のもとに。
彼女はそっと腹部に手をそえたまま、深い眠りに落ちていった。