【十四】
岩と岩のわずかな隙間から、エディウスは雨の降り止まぬ空を見上げた。
まだ日が昇るには時間がある。
「陛下」
野太い声に、エディウスは視線を洞窟の中に移す。
「二人の容態は?」
「……あとは本人たちの体力次第です」
赤く染まる手を外に突き出して、ガイゼが小さく答えた。雨がゆっくりと血を洗い流していく。
「さっきの男は?」
双眸を厚い布で覆い隠した黒装束の男を思い浮かべ、エディウスはガイゼに問いかけた。恐ろしく身軽な男は、雨が降って滑りやすくなっているはずの垂直の岩肌をいともあっさり登っていってしまった。
ガイゼは一瞬言葉を濁す。
「川で……拾いまして」
バツが悪そうに、彼は両手に視線を落としている。
「両目を潰され、瀕死の重傷でした。捨て置くわけにもいかず手当てしたのですが」
「それで忠義、か」
「はい」
「報告は受けてはいないが」
「……同じ頃にアーサー王子が影≠拾い、嫌な予感がして国のはずれで世話をしていたのです」
「……あの者がシャドーと戦ったと?」
「体の数箇所に長い針が刺さり、裂傷に至っては見入るほどの切り口でした。対峙したのが王子の影である可能性は高い。あの状態で川に落ち、命があったのは奇跡でしょう」
「……」
「因縁めいたものを感じます。ですから、なるべく手は借りたくなかったのですが」
「仕方あるまい。私たちにできる事はあまりに少ない。――あの者の名は?」
「名無しと呼べと言われました」
「名無し?」
「はい、しかしそれでは自分が落ち着かないので、タッカートと」
「鬼神タッカートファード?」
夢物語としても語られなくなって久しい神の名をエディウスはとっさに繰り返す。
「死の淵にあってなお、戦おうと起き上がった馬鹿者ですから」
微苦笑でガイゼが頷いた。
一国の王とその親衛隊長は口を閉ざした。外は一寸先も見えず、朝日さえ忘れてしまいそうな常闇がただひっそりと広がっている。
雷雲が去ったセタの谷は、雨音だけが支配する死後の世界のようだった。
「……アーサーは、無事なのか?」
エディウスは独り言のように闇に問いかける。
混乱の最中そこまで気を払うこともできず、多くの臣下たちと同様に弟であるアーサーも城に残してきたままだった。
「無事であると……願いましょう」
「……夜会があった。それには多くの重鎮たちも出席していた。国が落ちるというのは、造作もないことなのだな」
これでバルトの内政は総崩れだ。兵の多くは帰路についており、多少の戦力にはなるだろう。しかし、それをイリジアがみすみす逃がすとは思えない。
両目を失っている男に、果たしてどれだけの兵が集められるか。
任せるしかないという事はわかっている。
自分が出て行ってイリジアの兵に捕まらないとは限らないし、同じようにガイゼが敵の手に落ちるのも、現状あまり好ましくない。
今ここで動けるのはフィリシア付きの侍女であるマーサだけだが、彼女を行かせるにはあまりに酷だ。
彼女は高熱でうなされるバルト兵二人の間を何度も往復して世話を焼いてくれている。
献身的な看病を続ける彼女は、エディウスと目が合うと、服の袖で汗を拭きながら明るい笑顔を向けた。
そして、低く呻く声に驚いて忙しく走り回る。
エディウスとガイゼはそれをしばらく見つめ、ほぼ同時にその視線を外へと向けた。
地面を叩き付ける雨音に異音が混じる。
ゆっくりと水を弾く音が大きくなるにつれ、闇よりなお暗い影が輪郭を崩しながら近付いてきた。
不気味なほど黒いそれには、口元だけが白く浮かび上がっている。
「タッカート」
呻くようにガイゼがその影の名を呼ぶ。趣味の悪い登場の仕方だ。
雨に掻き消されてしまいそうな小さなその声を聞き取ったかのように、白い口がニッと笑みを刻む。
そして彼は、瞬時に音を消し去って素早く洞窟の入り口に来た。
「ちゃんとドア閉めとかないと見付かるぜ? せっかく作ったんだから利用しろよ」
彼はそう言って、岩に手をかける。洞窟の入り口には、どう掘り出したのかを問いただしたくなるほど巨大な岩の扉が付いていた。
それは半ばまで閉められており、エディウスとガイゼはその隙間から雨の中悠々と立っているタッカートを見ている形になる。
彼は二人の男の前でいきなりそれを閉めた。
突然の彼の行動に、唖然としてエディウスとガイゼは顔を見合わせる。
「な、いい出来だろ?」
自分で閉めた岩の扉を再び開け、タッカートが自慢げに笑っている。大岩を片手でも閉められるように作ったからくりは、一見しただけでは全くわからない。両目から光りが奪われているのに器用な男である。
「で、兵のほうは?」
手ぶらで帰ってきたタッカートに動揺しながら、ガイゼはそれを悟られまいとして低く問いかけた。
「安心しろよ、それなりに集めた。明け方には雨もやむ。そうしたらここに集まるように伝えてある」
「……そうか」
「信用しろよ、オレは約束を
タッカートは見えない目をエディウスに向けた。
「舞姫の処刑の日、結婚式の日らしいぜ?」
タッカートの言葉にエディウスが息をのむ。二日後のその日は、国中が祝福の色で染められる記念すべき一日となるはずだった。
その日をわざわざ処刑日に選ぶイリジアに、言葉では言い表せない怒りが込み上げてくる。
これほど効果的な見せしめはないだろう。
「行かないほうがいい。これは忠告じゃなくて警告。舞姫はあんたをおびき出すための餌にされるよ。イリジアが動かす兵は数千――あんた、確実に殺される」
「引くわけにはいかない」
「命あっての物種だろ? 婚約者ともども火あぶりだよ。未来は見えてる」
「――それでも」
ぐっと拳を握るエディウスの気配をさぐり、タッカートは小さく溜め息をついた。
「舞姫が無事である保障はないし、行くだけ無駄になる可能性もある。人質が生きている必要はないってことも――わかってる? そこにいるのが知らない女でも、あんたそこに行く勇気がある?」
「二度も……見捨てることは、できない」
「……わかったよ、策を練る。ひとまず休んでてくれ」
エディウスの言葉に微苦笑し、タッカートはガイゼに顔を向ける。
一瞬何かを考えるように間をおいて、ガリガリ頭をかく。彼は小さく溜め息をついてから顎をしゃくってみせた。
「……親衛隊長、あんた血の臭いがするから、ちょっと雨にうたれろよ」
怪訝そうにしながらも、ガイゼはタッカートに誘われるまま降りしきる雨の中へ進みでた。ずぶ濡れの体はすぐにでも火に当たりたいぐらい冷たいが、タッカートの様子がどこかおかしい事も気になり、彼は闇の中を平然と歩き出した黒装束の男のあとに続いた。
タッカートはしばらく雨音が支配する谷を歩き、そしてガイゼに向き直る。
「アーサーって、国王の弟だよな?」
確認するようなタッカートの言葉にガイゼが疑問の目を向ける。唐突な質問の意味がよくわからない。
「ああ、そうだが」
「……それが、裏切り者」
「なんだと?」
「イリジアと通じ、バルトを売った張本人」
「――馬鹿な」
吐き捨てるように、ガイゼがつぶやく。アーサー王子は利発な少年だ。以前は手に負えないような悪戯もよくしたが、最近では落ち着き、国王のいい補佐になるだろうと臣下たちからの評判もよかった。
裏切るなど考えられない。
エディウスとアーサーは仲のよい兄弟ではなかったが、裏切るほどの要因は何一つないはずだ。
ましてや、イリジアと通じて――。
「イリジア……?」
それは、アーサーの母親の母国。
「しかし、そんな……」
「最近、イリジアからの使者が多かったんじゃないの? 謁見は誰がしていた?」
ガイゼは呻いた。
最近はエディウスも忙しく、アーサーがたびたび謁見の間に駆りだされていた。その中に、イリジアが含まれていたかもしれない。
「城の近くに行ったよ。アーサー王子の名が何度も聞こえた。殺したいほど憎いあいつの声も、ね」
タッカートの口が
「なんで教えてくれなかったの? あいつ、いま王子を守ってるんだ?」
「タッカート」
「シャドーって言うんだって。おかしな話だなぁ、これじゃ逆じゃない」
そう言って、タッカートはガイゼに近付いた。
「シャドーはね、オレの兄貴。オレを殺そうとして失敗した男。それで、その男が守っているのが兄を殺そうとしている弟。ねぇ、これじゃまるであべこべだ」
「――実の、兄」
それに殺されかけた弟が目の前に。
そして、実の兄を殺そうとしている弟が、王城にいる。
「いったいなにが起こっている、この国に……」
ガイゼは低く呻く。
どこで何がどう間違ってしまったのか。これからも栄え続けると信じていた国は今、あまりに脆いガラス細工の土台の上で、ようやく存在し続けている。
その現実が、はじめてガイゼの前に突きつけられた。
「馬鹿だな、簡単じゃないか」
ふっと、黒装束の男が口元を歪める。
「これはただの安っぽい復讐劇さ」