【十三】

 アーサーはフィリシアを見つめていた。
 口元に笑みを刻んだまま、彼は一切の躊躇いも読み取れない瞳で牢獄の内側へとその視線を投じていた。
「アーサー!」
 何度目かの呼びかけに、少年は半歩だけ彼女に近付く。
「オレにも聞かせてくれない? どうしてキミがここにいるの? ここにいるべきなのはバルト王じゃないの?」
 冷ややかに問いかけるその口調は、フィリシアが初めて耳にするような冷酷な響きを持っていた。
 見知らぬ人間が目の前に立っているように思え、フィリシアは息をのむ。
 姿は同じなのに、あの人懐っこい少年とは一線をつきしている。
「アーサー」
 フィリシアは鉄格子を掴んだ。
「あなたもエディウスと同じ? 心を――」
「一緒にするな」
 彼女の声を遮るように、アーサーは低くささやいた。
「あれと一緒にするな。オレはあんな醜い生き物じゃない」
 アーサーは再び足を進める。憎悪で燃える瞳は面前のフィリシアを通り越し、いるはずのない兄にそそがれている。
 フィリシアは一瞬言葉を失った。
 初めてアーサーに会ったとき、彼が兄であるエディウスに向ける視線に恐怖にも似た感情を抱いた。
 しかしそれ以降、彼は別段普通で――あまりに普通に思え、フィリシアはあの出来事さえ忘れていた。
(でも、違う)
 フィリシアは鉄格子越しにアーサーを見つめた。
(アーサーとエディウスが長くいっしょにいたのなんて夜会の時ぐらいで……あれだって、エディウスを見るアーサーの目は……)
 弟が慕っている兄を見る眼差しではなく、そして、吐き出された言葉にも愛情の欠片さえ感じることはなかったではないか。
 フィリシアは自分を通して兄≠ニ対峙する弟≠見て、向けられていた感情がなんであるのかをようやく理解する。
「殺したいほど憎いの?」
 王の首をイリジアが狙い、それを手引きしたのがアーサーならば、そう考えるのが妥当だろう。
 事実、アーサーはフィリシアの問いに顔色一つ変えなかった。
「すぐには殺さない。苦しめばいい。すべて失って、絶望しながら死ねばいい。それが一番ふさわしい死に様だ」
「――どうして……?」
「……キミは、オレに聞いてばかりいる。答えはキミの中に眠ってるのに」
 感情の波をやり過ごすように、アーサーが瞳を伏せる。
「ねぇ、どうしてこんな事になったのかな」
 ポツリと言葉が零れ落ちる。アーサーは鉄格子を掴んでいたフィリシアの手に、己のそれをそっと重ねた。
「オレたち、出会わなければよかったのかな。キミを助けなければ――オレは、まだ幸せでいられたのかな」
「アーサー?」
 フィリシアの呼びかけに、アーサーが顔をあげる。それは、悲しみと絶望に支配された初めて見せる少年の素顔。
 自嘲気味に笑って、彼は口を開いた。
「夢を見るんだ。同じ夢を、何度も何度も。オレが狂ってるのか世界が狂ってるのか、それとも正しい物なんて何もないのか、オレはずっと血溜まりの中でそれを考えるんだ」
 ひどく危険な瞳でアーサーが笑っている。夢や希望を捨て去った、自虐的でどこかが壊れたかのような笑み。
 それはエディウスが持つ闇とはまったく異なる、生きることすら手放した者が持つ絶望の深淵。
「シア――シア、どうしてキミがここにいるの? ここにいるのは、オレの傍にいるのは、キミじゃないはずだ……!」
 静かすぎる慟哭がフィリシアの心を揺さぶる。
 忘れている。
 大切な事、思い出さなければいけない事。
 彼がずっと抱え続けている過去。思い出さないほうがいいと言いながら、望み続けている閉ざされた時間。
 それがきっとすべての答えに繋がるはずなのに、フィリシアはいまだに記憶の糸をたぐり寄せられないままでいる。
「アーサー……」
 過去を問いかける事がどれほど残酷かを考え、フィリシアは言葉を濁す。
 そんなフィリシアの思いに気付いたかのように、アーサーはようやく彼女≠見た。
「シアに一度言ったよね? オレ、手遅れだったけど兄貴を助けたかったって。だから嬉しかった。その手に……剣を見つけるまではさ」
 アーサーは意味を成さない言葉の欠片をフィリシアに投げかけ、彼女の手をきつく包んでいたそれを不意にはずす。
 彼は狂気さえ滲ませてゆるく微笑んだ。その指先は鉄格子を潜り抜け、彼女の頬を懐かしむように、慈しむように撫でる。
「同じ事をしてあげる。耐えられると思う? それとも、キミを見捨てるぐらいなら、たいしたダメージにはならないのかな?」
「……なにをする気?」
「キミの公開処刑の日取りが決まったよ。成婚の儀の当日だ。御触れは日の出とともに、バルト城陥落の報と同時に国中に響き渡る」
 フィリシアは息をのむ。
見物みものだろ? 処刑場に玉座と婚約者を奪われた王が現れなければ、国民は彼をなんて言うだろうね? キミだけが取り残されたことを、彼らはどう思うだろう」
 フィリシアは楽しげにささやく王子を凝視した。
「引きずり出してやる。大兵を用意して逃げ場を完全に塞いでやる」
「来るわけ――ないわ」
「来るよ、必ず。いまのキミは玉座と同等の価値がある。相手すらわからない子供を妊娠した娘を、国王はそれでも妻にしようとしていたんだ。もし国が彼の手に戻ったとして、それほど愛した娘が殺されるのをただ黙って見ていたとしたら――国民は彼を受け入れるかな?」
 アーサーの指がフィリシアから離れる。
「国王は来るしかない。国とキミのどちらを選ぶにしろ、この結論だけは変わらない」
「やめて……!」
「キミが死んだら、彼は悲しむと思う?」
「アーサー!!」
「守るべき者を、帰るべき場所を失ったら、死にたいって言ってくれるかな? 殺してなんか、やらないけど。楽になんて死なせないけど」
 くすりと少年は笑って視線を薄闇に移動させた。その足が階段に向かって踏み出される。
「シア、キミがもし自害したら、キミによく似た女を探す。死体を増やしたくなかったら馬鹿なことは考えるな」
「どうしてそこまでするの!?」
「……どうしてかな? よくわからない。誰が死んでも、もうどうでもいいのかもしれない。早くこの手が真っ赤になればいいのにな」
 なにかが、どこかがずれている。
 彼の中で、彼すら気付かないうちに。
 それは狂気と呼ぶにはあまりにも危うい物のように思え、フィリシアはその場にずるずると座り込んだ。
 まるで空回りし続けているような会話。
 全身を襲う虚無感。
 ただ一つだけフィリシアの心の中で繰り返される言葉が、ゆっくり閉まっていく地下牢のドアの音と重なった。
「お願い、来ないで」
 見捨ててくれればいい。
 守るために残ったのだ。足手まといになるためでも、彼を苦しめるためでもない。
 ただ生きて欲しかったから。
「エディ、お願い」
 こらえきれない嗚咽がもれ、石で囲まれた小さな空間を絶望が満たしていった。

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