【十一】

 広い室内は血の臭いでむせ返るようだった。
 いたる所に飛び散った血が、乱戦の激しさを物語っている。その惨状を一見した男はわずかに眉を吊り上げた。
「派手に暴れてくれたものだ……」
 王が生活する部屋とは思えない安っぽい石を敷き詰めただけの床には、赤黒い血だまりがいくつもある。絨毯にも同じように黒いシミが数え切れないほどあった。唯一値の張りそうな純金のベッドにも、無粋な返り血がべっとりと付着している。
 負傷したイリジア兵がいまだに残るその部屋は、フロリアム大陸有数の巨大国家となったバルト王が寝所。
 それは、彼――イリジアからの親善大使としてバルトに侵入したゼノムの想像していたものとは随分かけ離れた、質素極まりない部屋だった。
「バルト王はどうした?」
 静かな問いかけを耳にし、ゼノムは視線を声の主へと移動させる。
「我々がここに来たときにはすでに……」
 イリジア兵があえぐように声の主――アーサーにそう報告する。
「婚約者を囮にして逃げおおせたか」
 少年は硬質な声でつぶやく。感情を押し殺したその声が、異様なほど冷たく響いた。
「オルグ! この男の手当ても頼む!」
 彼の呼びかけに、老医師は救急箱を持って近付いてきた。
「被害は?」
「――たいした腕前です。これだけの敵を相手に、致命傷となる者を出さないというのは……並みの腕ではありません」
 オルグはちらりと室内を見渡す。多くの兵がいまだに室内にとどまり手当てを待っているが、命を落とすほどの怪我人は一人としていない。戦場なら間違いなく再び前線に送り出される程度の軽傷者ばかりだ。
「急所を外しているのか?」
「頭部を狙わなかった辺り、そう考えるべきでしょう。すべて鎧と鎧の繋ぎ目を確実に攻めている。唯一の重傷者ははじめに城内へ侵入した雇われ兵だけです。まぁあの者たちも、手加減がどうとか騒いでいたので、命に別状はないようですが」
 イリジアの兵士の傷を診ながらオルグはそう返す。
 飛び散った血の量から考えればこの被害は最小限といえた。フィリシアの体力が落ち、手元が狂うようになっていればこんなものでは済まされなかっただろう。
「そういう事か」
 少し離れた位置からアーサーたちの会話を聞いていたゼノムは、大きく一つ頷いている。
「踊り子風情が舞姫≠ニ呼ばれ、潔癖の乙女の通り名を受けるのはおかしいとは思っていたが……なるほど、これなら合点がいく」
 ひとしきり納得して、彼はアーサーを見た。
 どんな大金を積まれ、どんなに求められても己を差し出すことのなかった踊り子。
 それが、舞姫と呼ばれた少女。
 その少女が見せた優美で鋭い剣舞は、多くのイリジア兵を退けた。
「後妻だ本妻だのという誘いを蹴散らすだけでは、その名は付かなかったでしょう。踊り子は体を売る者が多い。その立場は娼婦にも等しい。言葉や金でいうことを聞かない娼婦なら、男が力に訴えることも多かったはずだ。にもかかわらず、舞姫と呼ばれ続け――そして、この剣舞の腕前。彼女は真実、潔癖の乙女であったのでしょう」
「返り討ちか」
「おそらくは」
「――シアらしい……」
 ふと、アーサーの顔に悲しみの色が浮かぶ。
 フィリシアは今、地下牢にいる。石と鉄柵で閉ざされた暗い場所に。
 仮面舞踏会のあの会場にいてくれれば、他の者と一緒に監禁されていたはずだった。たった一人で、暗く狭い牢屋の中に押し込められる事もなかったのだ。
「貴方の影は実に優秀だ。彼がいなければ、イリジアの被害は拡大していたでしょう。バルトもほぼ陥落したといっていい。残るは国王の首のみ」
 ゼノムの言葉に、アーサーは険しい表情をとる。
「……逃げる場所はなかったはずだ」
 隠し通路は調べつくしたはずだった。平和ボケしたこの城から兵を削減させ、退路を断ち、いっきに片をつけるはずだったのに。
 しかし、予定したシナリオは大きく書き換えられた。
 残されたのはフィリシア。
 子を宿した体のまま気丈に戦い、そして捕らえられた舞姫。
「婚約者を囮に使う王など、その器のほども知れる」
 ぞっとするほど低い声で、少年はささやく。
 ゼノムは反射的に退きかけた体をその場に辛うじて留めさせ、アーサーを見た。
「舞姫を拷問にかければいい。彼女なら、王の進んだ道を知っているはずだ」
 ゼノムは搾り出すような声でそう伝える。冷や汗が流れた。
 まだ十七歳の、イリジアでは能無し≠ニまで噂されていた目の前の王子からは、深淵がぽっかりと口を開けているような底知れない恐怖を感じる。
 青ざめたままのゼノムのその顔をアーサーがまっすぐ見据えた。
「彼女は拷問で口を開く女じゃない」
「……腹を裂くと言えば、口も軽くなる」
 カラカラに渇いた喉からゼノムがなんとか言葉を吐き出すと、アーサーは口元だけで嘲笑した。
「誰の子とも知れないんだ……そんな無駄な事をするより、もっと効果的な方法がある」
 闇色の声音で、少年はささやく。
「バルト王を引きずり出す。彼女はそのための贄になってもらおう」

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