【十】

 肌にまとわりつくような湿度と、むせ返るようなコケとカビの臭い。
 人の手が加えられた形跡のまったくない洞窟は、闇を孕んで幾度となく逃亡者たちの足を止めさせた。
「きゃっ」
 小さな悲鳴とともに目の前の少女の体が大きくかしぐ。
 エディウスはとっさに手を伸ばし、しかし、すぐに引っ込めた。
「大丈夫か!?」
 洞窟の中で凛々しい声が小さく木霊して消える。少女を支えたのは、なんとか応急処置だけを済ませ、立って歩くのがやっとというバルトの兵士だった。
 あの怪我の状態では、長く放置しておけば命にかかわる。ガイゼが背負うバルト兵も応急処置はされてはいるものの、死線を彷徨いかねないほど深い傷を負っている。
「ガイゼ、出口は?」
 小さく揺らめく蝋燭を前方に向けたまま、エディウスは親衛隊総長に視線をよこす。
 ガイゼは闇をぐるりと見渡し、それからエディウスを見た。
「前回と状態が違いますのではっきりとは申し上げられませんが、四分の三は来ているかと」
 どうやら歩幅で測っているらしく、ガイゼは慎重に視線を足元へ移動させた。
「……何度か曲がっているな……どこに出る?」
「セタの谷です」
 ガイゼの言葉に、エディウスは驚いたよう息をのんだ。
 セタの谷と言えばバルト国民はおろか、旅人でさえ足を踏み入れることを躊躇うほどの断崖絶壁の名ばかりの谷≠ナ、大昔は豊かな水をたたえていたその谷には今現在水がなく、植物さえ生えない場所だった。
 唯一あるのは巨木。
 それも石でできた精巧な物で、成木がそのまま石化したのではないかと言われている。バルトの民は、セタの谷を石の森、あるいは死の谷と呼び忌み嫌っていた。
「あそこに足を踏み入れた者は石になるそうだぞ」
「あの一件でそれが迷信であると判明しました。自分もあそこに出た瞬間、いつ命を落とすかと気が気ではなかったのですが――今でも生きております」
「……隠し通路の出口か……」
「そこに近付く者はおりません。イリジアの兵も、あの場に待機しているとは考えにくい。追ってくるなら後方しかありません」
「……天は、まだ誰も見放していないか」
「そう願います」
 小さく一つ頷くと、エディウスは前方を見つめ黙々と歩き出した。
 隠し通路の先がセタの谷に通じると予想する者は皆無と言ってもいい。
 それほどまでに、その場所は避けられている。
 フィリシアが残してくれた道は、確かに未来へと続いているのだ。
 ヨロヨロとおぼつかない前方の二人の足元を照らすように、エディウスは小さな光りを前に差し出し、そして凝った空気に雨独特の香りを嗅ぎわけて顔をあげる。
 深い闇の向こうに、ぼやけた影が揺れている。
「出口……!」
 フィリシア付きの侍女、マーサの声が弾んだ。少女が大きく足を踏み出すと、その体が奇妙な方向へ一瞬にして傾く。
「おい!」
 ぎょっとして隣にいたヒリックが手を伸ばした。
「落ち着け、怪我するぞ!!」
 剣の傷により大量に出血しているだろうバルト兵は、わずかに声を荒げて少女をたしなめる。
「ごめんなさい!」
 闇の中でもわかるほどマーサは真っ赤になっていた。歳はフィリシアとそう違わないだろうに、ずいぶんと幼い印象を受ける。
 いや、たぶんフィリシアがあまりに堂々としすぎているのだ。
 舞姫と呼ばれ、大国の王と婚姻を結んだ少女。
 揺るぎのない瞳をまっすぐに向けてくる彼女は、いつも驚くほど精力的で前向きだった。己の内に宿る闇すら忘れてしまうほどに。
 エディウスはふと今まで歩いてきた闇を見据える。
 よどみ、すべての色をのみこみ続ける暗黒。
 その反対側には――エディウスが進もうとする先には、おぼろげに輪郭を崩し続けるわずかな光りが存在する。
「うわぁ……これが古代樹ですか!?」
 いち早く輪郭を崩した世界に飛び出した少女は、緊張した声でそう言って空をあおいだ。
 石の木は、一部で古代樹≠ニ呼ばれている。大層な名前だとは思うが、実際目にすると、その名が一番しっくりくるように思った。
 精巧な木の模造品。
 しかも――。
「おっきいですねぇ」
 マーサが、この状況を忘れて皆の心の声を代弁している。
 彼女はそのまま、大粒の雨が降りしきるなか古代樹の幹を辿るように走り出し、しばらくして反対側から息を切らせながら戻ってきた。
「大きいです、国王様! それにたくみの技が生きてます!!」
 見ればわかることを真剣に諭してくる侍女の姿に、エディウスの顔が知らずにほころんだ。緊迫した空気が一瞬で崩れていく。
 彼女は平手でパンパン木の幹を叩いている。
「誰が作ったんでしょうね、この木。枝の幅、バルト城より大きいです」
 はるか上空に根を張るように伸ばされた枝は、縦横無尽に空を侵食している。異様な光景ではあるが、意見を述べる少女の底抜けの明るさが、その不気味なはずの空気さえ和らげているようだ。
「まあとにかく」
 ゴホンと一つ大きく咳払いをし、ガイゼがごそごそとポケットを探った。
「まさか使うハメになるとは思いませんでしたが、背に腹は変えられませんので」
 そう言って彼が手にしたのは、小さな笛だった。
「それは?」
「イリジアの兵が使った物とは違います。これは、犬笛です」
 エディウスの問いにガイゼはそう答え、大きく息を吸うと、思い切り音のない笛を吹いた。
 犬笛は本来、人間の聴覚では捉えられない波長で鳴る。手にした蝋燭を雨の当たらない場所に固定して、エディウスは不思議そうにガイゼを見た。
 いったいなにを呼ぶのだ。
 まさかこの場に野犬を呼ぶ気ではないだろう。
 そう思った刹那、ベチャリと湿った音をたて、なにかが彼の隣に落ちてきた。野犬にしては大きすぎる。なによりそれは、低く呻いていた。
 黒づくめで泥まみれだが、もぞもぞ動くその姿は人間の形をしている。
「い、いてて……なんだよ、気持ちよく寝てたのに……げぇ……泥入った!!」
 唾を吐き捨てながら、泥まみれの黒い塊はバルト王の隣でおおいに悪態をついている。
「信じらんない! いきなり使うか、犬笛!! しかも大音量! オレの鼓膜破る気か、親衛隊長!!」
 まだ若いと知れる張りのある声が一気にまくし立て、そして顔をあげた。
 彼はまっすぐにガイゼに顔を向けたのだが、その目は黒い布で覆われていた。それは薄布とは言いがたい、随分としっかりした生地のようである。
 そこからは何も見えないと判断できるほどの。
「おま……」
 ガイゼは犬笛を口にくわえたまま唖然と黒い塊を見た。どうやら、予想外の出来事だったらしい。
「ったくよ、もうちょっと考えて使ってくれよ。あー耳がぐぁんぐぁんするぅ」
 小指で耳をほじりながら、男はまるで見えているかのように隣にいるエディウスの服を掴んで立ち上がった。
 そして、ぐしょぐしょの黒衣に付いた泥を大雑把に払い落としている。
「お前、なんでこんな所にいる!?」
「あぁ?」
「ここはセタの谷だぞ!?」
「何それ、何処そこ」
「………」
 面倒臭そうに大あくびをして、男は首に手をあててゆっくり回した。
「お前……そうか、別に関係……ないか……」
 項垂れるガイゼににんまり笑って見せて、男は自らのこめかみをトントン指先で叩いた。
「そーゆーコト。オレ、なんにも見えないから、残りの感覚がすべてなんだよ。そんで、そんなオレに何の用件?」
 エディウスは男を見つめ、そしてガイゼに視線を移す。
「陛下、この者が兵を集めます」
 意外なその一言に、エディウスが目を見張る。
 男は小さく口笛を吹き、エディウスに顔を向けた。
「へぇ……あんたが国王様? フンフン。兵集めるってコトは――なんか、ヤバい事でも起きた?」
 そこまで言って、彼はエディウスに顔を近づける。
「カビとコケの臭い。洞窟か――あれ、お城に続いてる?」
「……イリジアが夜襲をかけた。お前には何ができる?」
 静かなエディウスの問いかけに、男は口元を歪める。
「戦はオレの得意分野でね。明け方までに、集められるだけ集めてやるよ、あんたの兵と戦うための武器――イリジアは手強いぜ?」
「引くわけにはいかない。負けるわけにも」
 エディウスの言葉に男は満足そうに頷いた。
「んじゃ、忠義果たしに行くとすっかな。ああ、親衛隊長! ここまっすぐ行くとオレのねぐらがあるから、そいつら手当てしてやれよ。スゲー血の臭い。死んじゃうよ?」
 男はそう言い残すなり、岩肌に手をかける。小さな掛け声をかけて地面を蹴った反動で体を浮かせ、もう片手を素早く上方へ移動させた。
 目を分厚い黒布で覆い隠した黒装束の男は、そのままするすると断崖絶壁を登り始めた。
 その姿は、
「国王陛下、大きな蜘蛛がいます!」
 マーサの言葉どおりの奇妙な光景だった。

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