【九】

 エディウスは微笑む少女をただ見つめることしかできなかった。
 ゆるぎない決意を秘める、凛とした少女。
 闇の中にあってなお強烈な光であった愛しい娘。己すら騙しつづけて生きてきた自分にとって、それは身を焦がすほど鮮烈な存在だった。
 愕然と立ち尽くした彼は、すぐに蝋燭で闇の中を照らした。
 出口があるなら、入り口もあるはずだ。イリジア兵が押し寄せるだろう寝所に婚約者一人を残すなど――大切な者を置き去りにできるほど、非情ではない。
「国王陛下!」
 出口へ続く入り口≠手探りで探し始めたエディウスに、深い傷を負った部下を背負ったままガイゼは低く――だが、厳しく呼びかける。
「逃げるのが先です」
 岩肌を探るエディウスの手をとらえてガイゼはそう続けた。
「フィリシアがいる。あそこにいれば――」
「承知の上で残られたのです」
 エディウスはガイゼを見た。
「通路はフィリシア様が塞ぎました」
「塞いだ……?」
「剣を一本余分に持っていた。おそらく、それで」
 確かに、彼女は剣を持っていた。己が剣舞で使用する剣を二本と、裏切り者のバルト兵が持っていた剣一本。
 あれは対兵士用に頑丈に作られた物で、フィリシアが持つにはいささか不自然だった。しかし、なにか意図するところがあるのだろうと推測し、エディウスはこの緊急事態にあえて問いただす事はしなかった。
「通路に別の入り口はありません。そこを塞げば、敵は入ってこられない」
 憶測の域を出ないことを、ガイゼは淡々と語る。まるでそれが真実であるかのように。
「何故そうする?」
「――あなたをお守りするために」
 エディウスが息をのむ。
 最後の瞬間まで微笑んでいた彼女の顔が、脳裏をよぎる。
「お前は……」
 小刻みに蝋燭の炎が揺れた。
 なんの動揺も見せずに己の考えを述べる親衛隊総長は、次に彼がなにを口にするかを予期したかのように苦く笑った。
「お前は、フィリシアが残ることを――知っていたのだな?」
「はい」
「なぜ止めなかった!?」
 エディウスの伸びた手がガイゼの胸倉を掴みあげる。知っていれば、先に隠し通路にはおりなかった。例えそこでイリジアの兵に捕まったとしても、フィリシアを先に行かせただろう。
「彼女はバルトの未来を守るために残りました。自分は、その意思を尊重します」
「奇麗事などどうでもいい!」
「――バルトにはあなたが必要なのです」
 ガイゼの言いたいことは痛いほどわかる。
 国が傾けば、国民は貧困にあえぐ。国が安定しているということは、民一人一人の生活が潤っているということなのだ。
 巨大国家となったバルトには、彼らの生活を守り、国の指針となる統治者が必要だった。
 それが誰でもいいというわけではない。
 エディウスの中に眠るバルト王の血が、すべての人々を等しく受け入れようとした先駆者たちの血が、強く人々を惹きつけてきたのは事実だった。
 衰えることを忘れた巨大な国。
 その中央に位置するのが自分。最善とは言い難いにしろ、その名に恥じぬように生きてきたのだ。国の名と同様に、エディウス王≠フ名がどれほど人々に影響するかはよく知っている。
 それゆえ、イリジア兵は確実にエディウスの首を狙いにくるだろう。
 その首を人々の目にさらし、バルト崩壊を知らしめる。そしてすべての反発を完全に力で捻じ伏せていく。
 それが予定された筋書きであったに違いない。
「……目の前で大切な者が命をすとき、私には何もできない。これが王の姿だとでもいうのか?」
「陛下……」
「こんな王を、民が望むのか?」
 イリジアが描いただろう終局を回避したのは、まだ十七歳の少女だった。
 記憶を失い、父親のわからない子を孕みながらも懸命に未来を見据えたエディウスの婚約者。
 その彼女は、厚い石に阻まれその生死すら定かではなく、この夜襲で生きのびたとしても、拘束されれば数日の後にバルト王の婚約者として公開処刑になることは確実だった。
「婚約者一人守れない男が、国を守れると本気で考えているのか? 私は二度もその死を目にするのか……?」
 過去に絶望と悲しみに囚われたままその手で摘み取ったはずの命。
 彼女は一度死んでいる。
 エディウスは己の手に視線を落とす。今はない、鮮血で染められた穢れた手を。
 裏切られる苦痛より失う苦痛を選んだから、その手で彼女を殺したのだ。これでようやく楽になれると思うと同時に、すべてが終わったのだと感じた。
 生きる意味も失ったのだと。
 あとはゆっくり死んでいけばいい。
 己の浅ましさと愚かさを呪いながら、絶望の中をゆっくり朽ちていけばいい。
 そう、思った。
 深すぎる森の中で、エディウスは大切な者をその手にかけた。
 肉を裂く感触に怖気立おぞけだちながら、これで失うものは何もないと――そう、悲しみに囚われたまま考えた。
 フィリシアの遺体の向こうに、殺したはずのアーサーを見付けるまでは。
「私はとうに狂っている……」
 エディウスは低く呻いた。
 交錯する記憶。
 うわごとのようにつぶやくエディウスの言葉を耳にしたガイゼの顔はみるみる蒼白に変わっていった。確か、あの時≠フアーサーの顔も蒼白だったように思う。
 大きく見開いた瞳は、凶事となった婚礼の当日と同じ。その瞳には、凶刃を握ったエディウスが映し出されていた。
 弟は一年前の婚礼当日に殺した。
 婚約者は姿を消し、その二ヵ月後にどこか遠くへ行っていたのだろう見知らぬ姿をし、ひどく怯えた様子でエディウスの前に現れた。
 エディウスはその彼女も殺した。
 ――殺したはずだった。
 アーサーも、フィリシアも、名すら刻まれることのない墓標の下に眠っている。
「フィリシアは死んだ――」
 弟と通じていた娘。
 婚礼当日に逃げ出そうとした裏切り者。
 その狂気の過去に囚われたままだった自分を解放してくれたのは、その手にかけたはずのフィリシア自身だった。
 都合のいい話だ。
 裏切り者の娘を殺して、手に入れたのは理想の婚約者など。
 都合のいい――悪い、夢。
 過去に自分を殺したはずの男になんの恐れも抱かずに接するなど、異常を通り越して滑稽でさえあった。
 だが、エディウスは失うのをただ恐れてその事を深く追求することができず、食い違う真実から目を背けつづけて、偽りだらけの穏やかな時間を手に入れた。
 その報いが、いま訪れたのかもしれない。
 失いたくないと願った命が、途切れようとしている。
「あれのいない国を守って、なんになる……?」
「違います!」
 不意に、少女の声が洞窟内に響いた。錯乱したエディウスは、その声に視線を彷徨わせる。
「フィリシア様は死んだりなんかしません!」
 エディウスがガイゼを放し、声のした方向へ蝋燭を向ける。そこには、目を真っ赤にした侍女がキッと睨みつけるように彼を見つめ返していた。
 彼女は胸に抱いた短剣をエディウスに見せる。
 細やかな装飾のほどこされたそれは、とても見慣れた剣だった。
 一年以上も前、フィリシアが唯一欲しがった宝石を彼自身が短剣に組みこんで長い時間をかけて作り上げたものだ。
「フィリシア様から預かりました。私はこれをフィリシア様にお返しします。でも、死人に返す気はありません」
 真っ赤な目から、ぽろぽろ大粒の涙が零れ落ちる。
「死人に返すのは嫌です。だから……!」
 大きくしゃくりあげ、少女は天井を見つめる。
「だから、元気なフィリシア様に必ずお渡しします」
 短剣を胸に抱きしめ、少女が途切れがちにそう続ける。
 エディウスは無言で天井を照らした。
 寝所から隠し通路が開かれる気配はない。そして、ここからそこに戻る術もないようだった。
 殺したはずの彼女は生きている。
 そして、エディウスを逃がすために寝所に残ったのだ。
「……お前は戦っているのか……」
 エディウスは、過去にフィリシアの剣舞を目にしたことがある。彼はただ一人、それを目にしながら無事であった男だった。
 屈することを知らない彼女は、イリジアの兵相手に気丈に戦っているのだろう。
 その命を顧みることもなく、ただ己の望みを叶えんがために。
「――ガイゼ、バルトは不利なのだろうな」
 ポツリとつぶやいたエディウスに、ガイゼは返す言葉を失った。あまりに静かに、あまりに迅速に進められた侵略が、どれほど痛手になるかはまだわからなかった。
「それは……」
 ガイゼは言葉を濁す。
 兵を集めても、それが力になるとは限らない。その兵すら、この状況では集まるかどうかも判然としなかった。
 それでも、光はある。
 今はまだ輝いていると信じたい、大切な光が。一度は失ったそれを手にするために、己の成さねばならないことはすでに決まっていた。
 エディウスは不安げに見つめるガイゼに向き直った。
「ここで引き下がるわけにはいかない。――奪い返すぞ」
「陛下……!」
 ガイゼは大きく目を見開く。蒼白だった顔に生気が戻った。
「フィリシアとバルトを取り戻す。手伝ってくれるな?」
 闇の中を力強く歩き出したバルト王に、親衛隊総長は大きく頷いた。

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