【八】
甲冑に身をつつんだ男たちが唖然とした表情でフィリシアを見つめていた。
彼らは一様に舞姫の噂を耳にしている。
大陸一の踊り子。どんな偉人にどんな大金を積まれても、決して己を差し出すことのなかった潔癖の乙女。
その少女が、目の前にいる。
情報では妊娠五ヶ月とあった。絶妙な仕立てで腹部が隠されてはいるが、その話は嘘ではないだろう。
独特の白い肌。
噂とはだいぶ違う、丸みを帯びた柔らかな体つき。
男たちが息をのむ。
強い光を秘めたその眼差しがすっと細まり、挑発するようなそのドレス同様に、少女が微笑んでいた。
美姫と呼ぶにふさわしいその艶色に、バルト国王の寝所へ足を踏み入れたイリジア兵は言葉もなく、ただ魅入られるように立ち尽くしていた。
薄闇の中、白い腕が流れるように動く。その動きにあわせ奇妙な形状の剣もゆっくりと弧を描いてゆく。わずかに遅れてもう一本の、少し短めの剣も弧を描いた。
全く形状の異なる剣がフィリシアの前で軽く触れ合う。
その澄んだ音と同時に彼女が体勢を低くした。
「――!!」
来る。
そう判断する間もなく、男の低いうめき声が雨音に混じった。
「怪我したくないなら、近付かないでね?」
ふわりと微笑み、フィリシアが蛇剣を滑らせる。
空を斬るかのような鋭い剣先が不意に緩やかな流れを生む。その一連の動きはただの一瞬も止まることなく、操る少女と一体になって見事な剣舞を披露した。
全身をしなやかに動かし、繰り出される凶刃をことごとく避ける様は、まるであらかじめ定められた見世物のようだった。
洗練された舞が、兵士たちを次々と退けていく。
フィリシアがその動きを速める。
一瞬たじろいだイリジア兵の中に、少女は躊躇いなく舞い込む。
ステップを踏むように軽やかに厳つい甲冑の間を縫って歩くたび、男たちから悲鳴とも呻きともつかない声が漏れた。
フィリシアはひらめく剣を軽々とかわした。
かわし切れなかった物を剣で受け、甲冑と甲冑のつなぎ目を確実に攻めた。痛みに慣れていないイリジアの兵士たちは、腕一本傷つければあっさり後退していく。
だが、それと入れ替わるように新しい兵士が次々と王の寝所へ進入してきた。
フィリシアは出口を探す。
一つは、先刻この部屋に入るために使ったドア。
そこは狭く長い通路になっていて、際限なくイリジアの兵士たちを吐き出している。
一つは、深い森を望む広いバルコニー。
フィリシアは唇を噛む。闇の中で、バルコニーにかけられたはしごを登る兵士の影がいくつも蠢いていた。雨音に混じって木が激しく軋みをあげている。
広い部屋に等間隔にある窓の近くには、イリジアの兵士たちが剣を構えたまま、いつ乱戦の渦に飛び込もうかと機をうかがっていた。
(エディ――)
逃げられない。
彼の元へ繋がる唯一の退路は、その手で塞いだ。
それが最善の策であると、そう判断したから。怪我人と女を連れて逃げ切れるほど、敵が甘くはないとわかっていた。
ここが敵の目的地なのだ。
城外にいたイリジアの兵は、間違いなく最終的にここへ向かってくる。
バルト王の寝所へ、ようやく穏やかな表情を見せてくれるようになった、彼の首を狙って。
それが、国を落とすという事だ。
「だったら、戦ってみせる」
ふっとフィリシアは口元に笑みを刻む。
それを見たイリジアの兵士がぎょっとしたように動きを止めた。
返り血を浴びたまま微笑むその姿が、常軌を
その動揺の意味が手に取るようにわかって、フィリシアはさらに笑みを深くする。
彼女は、己の命を代償にして救えるものがなんであるかを知っている。
(だからエディウス、生きのびてね)
それは彼の命であり、この国の未来。
栄華を極め、今なお人々を優しく受け入れ続ける、フロリアム大陸有数の巨大国家となった理想卿。
そのためにこの命を賭けるなら、悪くないと思った。
フィリシアは血ですべる柄を何度も握りなおす。蛇剣の斬れが悪くなっている。一回り小さいもう一方の剣も刃こぼれをおこしているらしく、ずいぶん刺さりが悪い。
フィリシアは小さく舌打ちしながら、素早く視線を走らせる。
代わりになる剣が必要だ。
イリジアの兵士たちが持っているのは剣身が百八十センチを超え、なおかつかなり厚みのある対兵士用に鍛え上げられた持ち重みのするものばかりだ。
それを長時間扱えるほど、フィリシアに腕力はない。しかし、刃こぼれをおこしかけた剣を使い続けることがどれほど危険であるかは重々承知している。
小振りな剣のほうが扱いやすいが、今はえり好みしている場合ではない。
フィリシアは剣を大きく振り上げる。完全に四方を囲まれている少女は、目の前の兵士に目をつけた。
「――なるほど、潔癖の乙女。その名前、こけおどしではなかったようだ」
振り下ろしたはずの剣が頭上で止まっていた。
「え……?」
腕に走る鋭い痛みにフィリシアは言葉を失う。
得体の知れない気配が瞬時に全身を包んだ。
まるで死を予見するような、奇妙な静寂。
剣をかまえた兵士たちは、フィリシアを見つめたまま、ネジが切れたかのようにその一切の動きを止めた。
「どうやら、貴女の勝ちのようだ」
低く笑う声は、闇色に染まっている。
聞き馴染んだ声ではないが、それでも憶えている。この独特の低音、鋭さの中に秘められた自戒の響き。
喉にひやりとした物が当てられている。プツリと音をたて、それがわずかに皮膚を裂いた。
「どうして……?」
その鋭利な先端が柔らかい肉へ食い込むことへの恐怖も忘れ、フィリシアは首をひねった。
「どうしてあなたがここにいるの?」
並み居るイリジア兵を物ともせず舞姫を拘束した男は、彼女の問いに色素の薄い瞳を細めた。
人の目に触れることを避け、つねに光を守るように存在し続けた男。
この男の存在を知ったのはいつだろう。この男を見たのは――。
初めて見たのは、あれはそう、エディウスが主催した夜会に出て、人々の前で醜態をさらしたあとだ。彼は主人であるアーサーを守るため、あるいはフィリシアから遠ざけるために姿を現した。
戦慄するほどの敵意はあの時とまったく変わらず、まっすぐフィリシアに向けられていた。
「シャドー」
彼はアーサーの守護者。影となり、その命を守る者。
それがいま、フィリシアを拘束し、その命を脅かす凶器を手にして立っている。
「どう……して……?」
現状を把握できず彼女はただ茫然とシャドーに問いかけていた。
その悲劇の意味も知らずに。