【七】

 雨音に混じって獣の咆哮のような物が聞こえる。
 遠い。
 まだ、そんなに近くではない。
(いまならまだ間に合う)
 フィリシアはマーサを放すと廊下でうめき声をあげるダリスンに走りより、彼のズボンの腰紐に手をかけた。
「な、何しやがる!?」
 目をむいたダリスンに、フィリシアは唇を尖らせたままそれをほどいた。
「――私、そんなに趣味悪くないわよ」
 言うや否や男の手を後ろで縛り、にっこり微笑む。
「暴れたら、かなり恥ずかしい格好になるから気をつけなさい?」
「こ、このクソアマ!」
 ゆるくなったズボンがずり落ち始めている。それを見て、マーサが真っ赤になって顔をそむけた。
「マーサ、エプロン貸して」
「え?」
「いいから、ほら」
 せかされるまま、マーサは白いエプロンをはずしてフィリシアに手渡した。彼女はその一部を手早く丸め、ダリスンの口に突っ込んだ。
 唖然と見つめる一同の前で、残りの布を顔に巻きつけ彼の視界を奪ったのち、それもしっかりと固定する。
「無様な姿をさらしたくなかったら、おとなしくしてるのよ」
 いまでさえ充分無様な格好である。白いエプロンのフリルをわざと強調させ顔面を覆い、ズボンはだらしなくずれ落ちている。その姿は滑稽としか言いようがない。
 ダリスンがなにかを叫んでいるが、くぐもってよく聞こえなかった。どうせ、あらん限り罵倒しているのだろう。
 フィリシアは鼻で笑って立ち上がった。
「……見事だな……」
 この状況の異様さも忘れて、エディウスがほうけた声を出す。
「ありがと」
 短く言って、彼女は反対側の廊下に目をやった。ガチャガチャとせわしない音が響いてくる。フィリシアはとっさに剣をかまえた。
(この奥は――)
 自分たちが走ってきた通路の奥は、監視塔へつづくドアと親衛隊の仮眠室しかなかったはずだ。そこから敵が来るとは考えにくい。
 フィリシアは瞬時にそう判断すると、剣をおろした。
「フィリシア様!?」
 廊下の角を曲がってきた大男が驚いた声をあげる。彼はそのまま一直線にフィリシアめがけて走り、そして異常事態に目を見開いた。
「お前たち……!!」
 傷だらけの部下に視線をやり、拘束されたバルト兵に視線を移す。
 彼は最後に主人の顔を凝視した。
「ガイゼ……いったい、何が起こっている?」
 エディウスの言葉に、親衛隊総長はひざまずいて手にしていた弓矢を差し出した。
 エディウスはそれを受け取り、眉を寄せる。
 白い羽の先は青く染められ、その一部に血が染み込んでいた。鋭く磨きこまれた矢尻には小さいが六本の剣が描かれている。
 その紋章はとても馴染み深いものだった。
「……これは……」
「――イリジアのものです。監視塔の者が討たれておりました。敵兵の数は不明。現在、バルト城は完全に包囲され――」
「笛の音で突入したわ。一刻の猶予もない」
 裏切り者が振り回していた剣を拾いながら、ガイゼが言いよどんだ言葉をフィリシアは冷静についだ。誰かが裏で指示を出していた可能性は高い。見るからに賞金稼ぎと知れる男たちが部屋に訪れたこと、そしてバルト兵が国王の命を狙った事実、さらに城外を取り囲むイリジア兵――。
 すべてを偶然と片付けるにはあまりに無理がある。これはあらかじめ計画されていた侵略。
「ガイゼ、王の寝所の隠し通路、使えるの?」
 ダリスンを警戒して声をひそめたフィリシアに、ガイゼはハッとしたように頷いた。
「はい、あれはそのまま一階に通じておりますが、その部屋にドアはなく、すぐに地下通路へむかう仕組みで」
 フィリシアは頷いて、エディウスを見た。クカ探しで散々荒らして彼に迷惑をかけたが、どうやら無駄にはならなかったらしい。
「とにかく移動だ。それで、あの通路を知る者は?」
「……って、あれ、皆知ってたんじゃないの?」
 怪我人を背負って歩き出したガイゼを目でおいながら、フィリシアはエディウスに思わず声をかける。
「私も知らなかった」
「あ……そう」
 城の主人も知らないとなると、それはかなりの大発見だ。親衛隊があの惨状と隠し通路を目にして叫んだ理由もわかる。
「隠し通路を知るのはここにいる親衛隊二人と、侍女四人です」
「それじゃ、その出口がどこに繋がってるか知る人間は?」
 フィリシアの問いに、ガイゼは口元を豪快にゆがめて笑った。
「自分一人です」
「優秀ね」
「恐れ入ります」
 歩きながら、ガイゼは小さく会釈をした。
「マーサ、歩ける?」
「は、はいっ」
 しっかりフィリシアの手を握りながら侍女が涙目で頷いている。苦笑して、フィリシアはさらに後ろへ視線をやった。
「あなたも、ちゃんと歩ける?」
「心配無用です」
 歩きながら手早く応急処置をし、バルト兵は脂汗のういた顔で気丈に笑ってみせる。
「名前は?」
「ヒリック・キンバルです」
「そう……ヒリック、マーサをよろしくね?」
「は……? はい、もちろんです」
 慌てて頷く彼にフィリシアは微笑んだ。手の中のぬくもりを強く握りしめて、前を見る。
 バルト兵を運ぶガイゼの向こうには、エディウスの後ろ姿が見え隠れする。
 フィリシアは大きく息を吸った。
「ガイゼ、通路の閉めかたは?」
「取っ手を逆に二回まわせば元通りに――フィリシア様?」
 フィリシアの声音に何かを感じ取ったかのように、ガイゼは慌てて振り返った。いつもは自信にあふれているその顔には戸惑いの色が見える。
 フィリシアは小さく頷いて、
「ガイゼ、国王をお守りして。必ず、無事に城からお連れして」
 彼にだけ聞こえるような声でそう告げた。
「誰を守るべきか、ちゃんとわかってるよね? 約束して」
 ガイゼは唇を噛んで一瞬うつむき、すぐにフィリシアに視線を戻した。
「――この名にかけても」
「ありがとう」
 微笑んで、フィリシアはエディウスの背を見つめる。自分の命が危険にさらされているこんな状況でも、怪我人を気遣って歩く速度を調整しているその姿が愛しかった。
 まだいろいろ話したいことがある。
 話さなければならないことも、たくさん残っている。
 けれど今、自分がなにを成さなければならないかを、フィリシアは冷静に判断していた。
 エディウスが寝所のドアを開ける。
 彼はそのままベッドへ行き、フィリシアが以前したように細いノブを取り出してそれをひねった。
 重々しく響く音とともに、ベッドがゆっくり持ち上がっていく。
 フィリシアはふと微笑んだ。
 はじめて目にした時あれほど動揺したこの光景が、いまはとても頼もしく思える。
 蝋燭をひとつ持ち、エディウスは中を照らした。
「女を先に」
 エディウスがマーサを見ると、珍しそうに隠し通路を覗き込んでいた少女は、ぱっと緊張したように背筋を伸ばした。
「え、えぇ!?」
「ほら、行きなさい」
「フィリシア様も!!」
 慌てて駆け寄ってくるマーサに苦笑して、フィリシアはやんわり伸ばされた手を押し戻した。
「私は戦えるからあとでいいわ。ほら、マーサ」
 フィリシアの言葉にしょんぼりしたマーサの肩に、満身創痍のヒリックが手を置いた。
 なにかを言おうとしてマーサがフィリシアを見つめる。ゆっくり頷くと、少女は目を潤ませたまま頷き返した。
「行こう、時間がない」
 うながされるまま、マーサはヒリックとともに緩やかな斜面を降りていった。
「ガイゼも行きなさい」
 フィリシアの言葉にガイゼが深々と頭をさげる。彼も二人に続いて薄暗くカビ臭い闇の中へと吸い込まれていく。
「エディ、国王が最後でごめんなさい」
 クスクスとフィリシアが笑う。
「かまわん。私が一番身軽だ」
 苦笑しながら、エディウスも階下へ降りていく。
 フィリシアはこの状況で、どうして自分が笑えるのかが不思議だった。
 たぶん――。
 たぶん、彼には笑顔の自分を覚えていてもらいたいからなのだろう。ふとそう考えると、少し楽になれた気がした。
 フィリシアは横倒しになったベッドのノブに手を伸ばし、それを逆に二回ひねってはめ込んだ。
 斜面を降りきったエディウスが振り返る。
 その顔が、驚愕に歪んでいる。
「必ず追いつくわ。だから私の居場所、用意しておいてね?」
「フィリシア!?」
 持ち上がっていく床に邪魔されて、彼の顔がよく見えなかった。それだけが心残りだった。
 その悲痛な声しか聞くことができなくて――それが少しだけ、悲しかった。
 冷たく閉ざされた通路に手を触れて、フィリシアは双眸を閉じる。
「生きのびなさい、エディウス。あなたがバルトの未来よ」
 ささやいて、フィリシアは裏切り者のバルト兵が使っていた剣をかまえる。
 それを、装飾で埋もれるノブめがけて何度も叩きつけるように振り下ろした。その扉が二度と開かないように。
 彼の未来を、守るために。
 それがいま自分にできることだと、そう思ったから。
「必ず追いつくから……」
 フィリシアは自らの剣を手に、ゆっくりと立ち上がる。耳障りな金属音が廊下から響いてくる。それと同時に、バルコニーの窓が激しい音とともに割れた。
 ドアが乱暴に開けられる。そこには、見たこともない甲冑の兵士がいた。胸に六本の剣が描かれている。それは、外でひしめき合っていたものと同じものだった。
 フィリシアはちらりとバルコニーの窓を見る。そこにも黒い人影が見えた。
「バルト王はどこだ!?」
 流れ込んでくる兵士たちがいっせいに剣をフィリシアに向ける。
 それに臆する様子もなく、少女は艶然と微笑んだ。
 大陸一の舞姫≠ニ呼ばれた顔で。
「ねぇ、ダンスは得意?」
 彼女の唇がそう問いかけた刹那、雷鳴が世界を覆いつくした。

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