【六】

 フィリシアは手にした剣を大きく振り下ろす。血が壁に赤い花を咲かせた。
「行きましょう」
 フィリシアの声に、マーサが青ざめたまま視線を向けた。
「国王の寝所、近くに通用口はなかったわ。――間に合うかもしれない」
「き、危険です!」
 ガタガタ震えながら腕にすがりつくマーサをフィリシアは穏やかに見つめる。平和な国に育った娘。舞姫と呼ばれた自分とは、まったく違う世界を見てきた少女。
 これから向かうのは、死と隣り合わせの戦地だ。
 エディウスに出会う前に生きてきた、過酷で非情な世界。それは、この少女に見せるべきものではない。
「あなたはここにいなさい」
 静かなフィリシアの言葉に、マーサは激しく首をふった。
「イヤです! フィリシア様にもしものことがあったら……!!」
 恐怖で震える少女は、泣き顔のままフィリシアを見つめる。侍女≠ニして主人≠フ身を案じてとめているのではなく、ただ純粋に心配してくれているのだと知れるその表情。
「私は平気よ」
 フィリシアは微苦笑してマーサから離れようと身じろいだ。しかし、彼女は激しく首をふり続けている。
「危険です!!」
「……マーサ、私はずっと一人で旅をしてきたの。身を守る術は、体が覚えてる」
「でも!」
「剣舞が一番得意なの。自慢には、ならないんだけどね?」
 公共の場で披露したことはない。それは身を守るためにのみ使われたものでありながら、気付けばどの舞よりも一番洗練されていた。
 女の一人旅は危険をともなう。とくにフィリシアのような踊り子は体を売る者も多く、集団で行動して客をとっていた。
 踊り子が一人旅をするのは稀だった。男たちはその華やかさにつられて言い寄ってきて、相手にされないと逆上する場合が多かった。
 踊り子の身分は決して高くはない。その存在を軽んじられるのは珍しくはなかった。
 その中で、フィリシアは舞姫≠ニ呼ばれてきたのだ。
 長く危険な旅の中で培われてきたものは、曖昧な記憶しか持ち合わせていない今でさえ、驚くほど確かに彼女の体のすみずみにまで息づいていた。
「お一人で行かせるわけにはいきません! 待つのはイヤです……!」
 しっかりとフィリシアにしがみつきながら、マーサが駄々っ子のように泣きじゃくっている。それが取り残されることへの恐怖ばかりでないのはすぐにわかった。
 過去に彼女に内緒で城を抜け出したことがある。その時も、今のように泣いてくれた。
 優しい少女。この広い城の中で、唯一心を許せる侍女。
「マーサ、わかったわ」
 フィリシアは剣を一まとめに持って、マーサの髪を撫でて苦笑した。
「丸腰でいかせる訳にはいかないから、ちょっと待ってて」
 無理やりマーサを引き剥がして、フィリシアはいったん自室へ入っていき、すぐに短剣を持って侍女の前に戻った。
「使いなさい」
「え!?」
 差し出された銀細工の剣を見て、マーサが息をのんでいる。
「これ、フィリシア様が大切にされている……!」
「そ、エディウスからもらった短剣」
「だ、ダメです! そんな大切なもの!」
「持ってくれないなら、連れて行けない」
 フィリシアの言葉にマーサは一瞬息をのんで、唇を噛みながらゆっくり手を伸ばした。繊細な装飾の鞘にそっと手を触れ、柄を握る。
 コクリと小さく喉が鳴った。
「今は隠してて。危険になったら躊躇わずに抜きなさい。囲まれたら、それを捨てて両手をあげるの――わかった?」
 素早く窓に視線を走らせ、フィリシアはマーサを引き寄せる。
かなわないと思ったら抵抗しては駄目よ。敵はたぶん、夜盗じゃない」
「フィリシア様?」
「あれは捨て駒ね。国が動いてる」
 皮肉な話だ。度重なる雷が、外の状況をフィリシアに知らせている。
 深い森の中をなにかが動いていた。それは雷光に鈍く反射してその数の多さをまざまざと伝えてきた。
 あれだけの量がいまだに移動しているということは、敵の多くはまだ城内には進入していないと判断すべきだろう。城の規模から考えれば闇討ちが不利であることは明らかなのだ。なにかの合図で抵抗するすきを与えず一気に制圧してくる。
「行くわよ」
 体勢を低くして、フィリシアは走り出した。窓の外になにかあると気付き、マーサも背を低くした。
(数で圧す気なら、殺戮が目的でないなら)
 城内の者に現状を伝えるのは、得策ではない。外にどれだけ人数が集まっているかはわからないが、下手に対抗させるより、混乱したまま捕まったほうがこちらの被害も最小限ですむ。城内に仕える人間を悪戯に虐殺するほど敵も無慈悲ではないだろう。
 少なくとも、外にいる人間たちは統率のとれた集団のようだ。
 被害は最小限に、成果を最大限に得るための戦法をとっている。
 狙うのは王の首ただ一つ。
 フィリシアは廊下から窓がなくなると、松明のかかげられた廊下を全力で走り出した。木の燃える音と雨音、雷鳴、それにまじって金属音が微かに響いている。
 寝所に近づくほど大きくなるその音がフィリシアを動揺させた。脇目もふらずに走り廊下の角を曲がって、彼女は一瞬動きをとめた。
 これは、どういうことだろう。
 なんの冗談だろう。
 高く響く音の原因は、松明でくっきりと浮かび上がっている。
「裏切り者がいる?」
 幾度も火花が散る。同じ紋章を刻んだ鎧を身にまとい、同じ型の剣を手にした男たちが対峙する姿が彼女を混乱させた。
「誰かが……糸を引いている……?」
 激しく剣を打ち合うのは、バルトの兵同士だった。倒れた兵士を守るように傷だらけの兵士が打ち下ろされる剣を受けている。
 あまりにも一方的な戦い。
 低く響く笑い声は、攻めることを快感とする男の口から漏れるもの。
 フィリシアは前方を睨み、己の剣を打ち鳴らした。
「あ……?」
 異音に気付き男がフィリシアを振り返る。
「門番のダリスン、だったわね。――外の兵士は、お前の仕業?」
 それほどの器でないことは瞬時に判断できたが、あえてフィリシアはそう質問する。すると、ダリスンはさげすむような笑みを浮かべた。
(首謀者は別、か)
 あれほど統率の取れた軍を一介の兵士が動かせるはずはない。この城の内か外かに、糸を引く人間がいるはずだ。
「誰の命令で動いてるの?」
「言うと思ってるのかよ、舞姫さま」
「……私の剣舞、見たい?」
 凛とした声に反応するように、ダリスンがだらしなく笑ってゆらりと向き直る。
「フィリシア様!?」
 防戦一方だった兵士は崩れるように座り込みながらも、かすれた声を絞り出した。
「オメーはあと。こっちのおいしそうなのが、先」
 濁った目でフィリシアを品定めしてから、ダリスンが剣をかまえる。剣身は百五十センチ以上あるだろう。大振りな剣だ。
 ゆったりと間合いをつめたフィリシアは、ダリスンが踏み込むと同時に踏み込んだ。剣が大きく振り上げられ、瞬時に振り下ろされる。大雑把な動きに見えるが戦い慣れているようだ。
 フィリシアは左手にもたれた小振りの剣で難なくそれを受け流す。まるでそれを予期していたかのように、ダリスンの剣先がわずかに向きを変えた。
 そのまま横に薙ごうとするその腕に。
「鈍いわよ」
 うっすらと微笑みながら、フィリシアは容赦なく蛇剣を滑らせた。そして、流れるような動きで、切っ先の変わった剣を弾き飛ばす。
「ぐ、……ぁっ」
 剣が硬質な床の上で跳ねている。その音に、男の唸るようなうめき声が重なった。
 波うつ刃は、通常の剣で受けた傷よりはるかに損傷が激しくなる。滴り落ちる血がその傷の深さを伝えてくる。
 傷を押さえのた打ち回るダリスンを無視して、フィリシアはバルト兵へと駆け寄った。
 不意打ちだったのだろう。一人は脇腹を押さえたまま低くうめき、もう一人は鮮血が肩と足を染めていた。致命傷ではないが、二人ともかなりの深手だ。
「フィリシア様……」
 茫然と見上げる兵士にフィリシアは笑顔を向ける。
「守ってくれて、ありがとう」
 兵士たちが護る細い通路の奥から足音が響いてくる。
 ひどく懐かしい音のように感じた。
 松明に照らされ、美しい銀の髪が柔らかく輝いている。深く優しい蒼い瞳が、驚いたように深い傷をおった兵士と、あでやかな姿のフィリシアを見つめた。
「エディウス」
 フィリシアの言葉が空気に溶ける瞬間、雨音を縫うように高い笛のが響いた。
 はじめは一つ。
 兵士たちが痛みに顔を歪めながら、辺りを見渡す。
 さらに、別の笛の音が重なる。
 それは瞬く間に城中を包み、雨音を消した。
「フィリシア様……!」
 廊下でのた打ち回る男を避けながら、マーサがフィリシアに駆け寄った。フィリシアは無言で震える少女の肩を抱き、耳をそばだてる。
 鳴り響く音は、このバルト城の出入り口とほぼ同数だろう。
 笛の音が前触れもなくやんだ。
 ゾッと背筋が冷える。
 それが、突撃の合図であると直感した。

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