【五】

 ドアの向こうで鈍い音がする。
 何かが倒れるような、背筋をゾッとさせるような音だ。そして、物を引きずるような音がつづいた。
「あ、あぁ……」
 マーサは逃げることも忘れ、震えながらドアを凝視していた。
「隠れなさい!」
 ドアから視線をはずし、フィリシアは侍女を力ずくでドレスのつまったクローゼットの中に押し込んだ。
「フィリシア様……!」
 歯の根が合わないマーサの声は、その体と一緒で震えていた。彼女は目の前で閉じていこうとするクローゼットのドアに慌てて手を伸ばす。
 フィリシアはその手をそっと包んだ。
「いい? なにがあっても動かないで。声も出しては駄目よ」
「でも……!」
「――大丈夫。私、たぶん戦えるわ」
 ふわりと微笑んで、フィリシアはクローゼットのドアを閉めた。
 雷光が幾度となくあたりを照らす。
 フィリシアは、マーサが倒して派手な音を作った元凶である二振りの剣を手にした。
 鞘から抜いたその剣は、美しい形状ではあるが演舞用の装飾をほどこされた剣とは違い、ひどく危険な光を宿していた。雷光を不気味に反射させる剣の柄が手にしっくり馴染むのを感じてフィリシアは目を細める。
 それは、彼女専用に作られた武器である証だ。
 右手に持った剣身の長さは八十センチ。蛇剣と呼ばれ刃が波状になっており、相手により深い傷を負わせるために作られたもの。左手には、それよりわずかに短い剣。
 どちらもよく手入れされていた。
 フィリシアは深く息を吸い、立ち上がる。
 それとほぼ同時に、目の前のドアが開く。床にある血だまりを泥だらけの靴が踏んだ。
 記憶が去来する。
 曖昧な記憶。いつも肝心な場所が抜け落ちている、あてにならない過去の残像。
 脳裏に男の影がよぎった。顔はよく思い出せない。逆光のせいかもしれない。それでも、その声はよく覚えていた。
 いいか。
 男は真剣な声で続けた。
 お前は女だ。それは戦いの中じゃ不利になる。けどな――。
「それは、最大の武器」
 抜き身の剣をまっすぐ垂直におろし、足の付け根まで大胆に切り込みの入ったドレスの裾をはらうように左足を心持ち前へ。少し顎を上向きにして、瞳を細める。
 ドアを開けた男たちが、呆然とこちらを見ている。
 男の手にしている赤く染まった剣から真紅の雫が生まれ、床で弾けた。
「――舞姫」
 ほうけるように男が言った。
「ええ、そうね。私≠ェフィリシア」
 艶然と微笑みながら、少女はつづけた。
「私、剣舞が一番得意だったの」
 言葉は優美な舞とほぼ同時に男たちの耳に届いた。
 なにが起こったのかもわからない。彼らはただお互いを見やり、そして自分の体を見た。
 体は特注の甲冑で完全武装されている。大枚をはたいただけあり、軽量であるにもかかわらず頑丈で、なおかつ俊足をほこりそれを重視する彼らにとっては理想的なほど動きやすいつくりをしていた。
 その利点となっていたはずの弱点≠、少女は的確に攻めた。
 剣が刺さっている。
 脇をえぐった剣は筋肉を裂き、皮膚を破っていた。剣先は喉元で固定されている。
 もう一人の男は、剣を持つ腕がだらりとさがった。持っていたはずの剣が床に落ちて何度か跳ねる。
「ごめんなさい、手加減できないの。――やり方知らないから」
 優しくささやいた声は死を予告している。
「ちくしょ……なんてアマだ……」
 うめくように言って、男は顔を歪めた。フィリシアが容赦なく剣を抜いたのだ。
「まだ戦える?」
 崩れ落ちる二人に問いかけてから、フィリシアは衣裳部屋の中を覗き込む。
「マーサ!」
 大声で呼ぶと、クローゼットから侍女がへにゃへにゃと出てきた。
 泣きそうな顔で四つん這いにドアまで近づき、うめき声をあげる男二人に引きつったような悲鳴をあげる。
「剣は持てないわ。おいでなさい」
 何度も頷きながら、マーサが近くにあったクローゼットに掴まってようやく立ち上がる。大きな目が涙で潤んでいた。
「フィ、フィ、フィ……!」
「落ち着いて! ちょっとあんたたち、なんのつもりで――」
 そこまで言って、フィリシアは視線を廊下に移す。女が一人うつぶせに倒れ、その周りには血だまりができている。彼女の小さな背には、縦に細い傷があった。
「なんでこんな事したのよ!?」
「……けっ」
 血を流し続ける肩を押さえ、男は痛みのために歪む顔で不敵に笑ってみせる。
「バルトを落としたがってる人間がいるってことさ」
 フィリシアは男を睨みつけ、それからもう一度衣裳部屋の中に入って何本か紐を取って戻ってきた。
「出血多量で死なないことを祈ってなさい」
 男たちを紐できつく縛り上げ、フィリシアは二人を衣裳部屋へと押し込んだ。
 そして、廊下で動かなくなった仲間を呆然と見つめているマーサに向き直る。
「なにが――なにがあったんですか!? 夢ですよね!? こんなの嘘ですよね、フィリシア様!! こんな、こんなのって――!!」
「マーサ!!」
 ガタガタ震えながら動かなくなった仲間を見るマーサの肩を、フィリシアは両手で強く掴んで揺さぶった。
「マーサ!!」
「だって、リズもうすぐ結婚するって……私に――私に……!!」
 フィリシアは一瞬息をのんだ。平穏すぎた王城に暗い影が落ちる。犠牲者はここにいる少女一人――。
 いや、バルトを落とすということは、すなわち。
「エディウス」
 国を落とすのなら、国王を狙うはずだ。婚約者である自分を狙うのは保険の意味もあるに違いない。それなら、別の人間が彼の命を狙っている可能性は限りなく高い。
「マーサ、教えて!」
 フィリシアは侍女の腕を取った。
「夜間開く扉はないのよね!? 全部内側から施錠されているのよね!?」
 それなら、いま開いている確率のある扉は、警備兵が守るバルト城の正面にある大扉一つ。あの男たちの仕業なら、おそらく門番は命を落としているだろう。
 バルト城は巨大な城だ。慣れない者が歩けば確実に迷う。少数で攻めるより、いっきに押し寄せて制圧したほうが効率がいい。それに、バルトはもともと警備の薄い平穏な国だから、数で責めれば歯向かおうとする意志は根こそぎ奪われ、最小限の犠牲でカタがつく。
 現時点で城内に敵がいるということは、城内からかけられた鍵は意味を成さない。すでにすべてが開いていることも考慮して動く必要がある。
「バルトの扉はいくつ!? 通用口もあわせて、人の出入りできる扉は全部でいくつ!?」
 必死の形相のフィリシアに、マーサは大きくしゃくりあげた。
「と、扉は……正面の大扉と、裏にある業者用の通用口、西側と東側に大きな扉があって、小さな通用口はいくつも――」
「!!」
 止むことを忘れたかのように激しく降り続く雨は、いつもなら決して聞き逃すはずのない不審な物音をのみこんで世界を覆いつくした。そして、雷鳴は激しく大地を揺らしてさまざまな音を掻き消していった。
 フィリシアは愕然と立ち尽くす。
 この状況は――あまりに、不利だった。

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