【二】

 雨音に雷鳴が混じり始めている。
 窓の外が明るくなった瞬間、激しい音とともに地面が揺れた。
「うわ、どこ落ちたの!?」
 慌てて外を見る。が、すでに闇と同化した景色は、ひどくよどんですべての物を呑みこんでいた。すぐ近くにある木でさえ、その輪郭を失っている。
 その木々の間を、何かがすり抜ける。
 フィリシアは息をのんで闇に目を凝らした。
 バルト城に城壁はない。その理由は、敵となる者がいないためもあるのだが、本来は「すべての人々を等しく受け入れる」という、先代の意志の現れである。それをエディウスの口から聞いたのはほんの最近の出来事だった。
「……気のせい? にしたって、城壁ないのはやっぱり無用心よ。丸腰と一緒じゃない。いくら等しく公平を謳ったって、世の中には善人もいれば悪人もいるんだから」
 この巨大な国家の理想は、万人に開かれた門を通り越し、万人を受け入れる体制そのものらしい。この呆れるばかりの夢物語をバルト国王たちは脈々と語り継ぎ、そして実現してしまった。
「……アホばっかね」
 非情な一言で締めくくり、フィリシアは窓から離れる。人影かと思ったが、どうやら見間違いのようだ。
 耳につくばかりの雨音。
 この土砂降りの中、明かりもなくうろつくのは動物ぐらいだろう。優雅にさえずる野鳥の姿さえ見たことはなかったが、この久しぶりの雨に誘われ、動物が森を彷徨っていてもなんの不思議もなかった。
 フィリシアは部屋着のままそっとドアを開けた。
 雨音だけが響く廊下には、人の姿はない。少女はそのまま部屋を出て、向かいの部屋へ入った。
 廊下の壁には等間隔に蝋燭がありまだ明るかったが、フィリシアの入ったその部屋は城の外と同じ匂いのする闇を孕んでいた。
「……明かり……」
 暗闇の中でフィリシアがうろうろと歩き出す。あまりにも利用用途が限られた衣装が並ぶ部屋には用事はなく、過去に数度しか入ったことがない。そこは、彼女にとってすでに未知の世界と成り果てていた。
 足になにかが引っかかった。
「――!!」
 盛大につんのめりかけ、フィリシアはとっさに手に触れた物を掴む。すかさず踏ん張って体勢を立て直し、ホッと息をついた。
「あ……?」
 稲光に明るく映し出された己の影の横には、傾きかけた別の影があった。
 フィリシアはとっさに頭をかばうようにして丸くなる。
 激しい落雷の音と、頭上からなにかが崩れてきた音が重なる。床が揺れた。
「ったぁ」
 鼓膜を震わせるような雷鳴の音が消えると、闇の中でフィリシアは肩をさする。幸い落ちてきた物は軽い箱のようだった。
 彼女はそのまま四つんばいになり、手探りでまわりの物を確認する。
「……帽子?」
 べたべた触りながら首を傾げると、ぼうっと手元が明るくなった。
「……何なさってるんですか、こんな時間に」
 呆れたような声が蝋燭の炎の向こう側からかけられる。
 そこには、夜分だというのにきっちり紺色の仕事着を着込んだマーサの姿があった。
「こ、今晩は! マーサ!」
「こんばんはじゃないですよ、フィリシア様。お部屋に行ったら姿も見えず心配したんですよ?」
「あー……」
「衣裳部屋でなになさってるんです?」
 フィリシアは宙を見上げ、肩を落とした。
「……ちょっと、夜会に行こうかと思って」
「夜会――? ああ、アーサー王子が主催されている、仮面舞踏会ですか?」
 はじめは行く気などなかった。
 失われた記憶に深くかかわるだろう彼。真実を語ろうとしない少年――。
 きっと彼からの情報は当てにならないに違いない。
 だが、そうとわかっていても話がしたかった。
 残された時間は短い。その時間を有効に使おうとするなら、この舞踏会は参加するべきだろう。一度断った手前顔を出しにくいが、いつもと違ったその空間でなら彼も気を許してもっと情報が引き出せるかもしれない。確率は低いが、試してみる価値はある。
「……で、ドレスを探してらっしゃると?」
「う、うん」
 箱が散乱している室内を蝋燭で照らし、マーサは小さく溜め息をついた。
「仕方ありませんね」
 マーサが苦笑する。
「婚儀直前ですのであまり感心はしませんけど、お手伝いします」
「マーサ!」
 パッと表情を明るくしたフィリシアに、マーサは人差し指を立てた。
「ただし! 私もついていきます!!」
 マーサの声に、力がこもる。
「はい?」
「仮面舞踏会ですよ!」
「え、ええ」
「そんないかがわしい物、行ってみたいじゃないですか!!」
「……」
 ぐっと握りこまれた拳にも力がこもっている。
 セルファの件といい、この件といい、どうも根本的な趣味が噛み合っていないらしい。フィリシアは苦笑いをした。
「ドレス選びましょう!! 何色がいいですか!? 大人っぽく黒? 可憐に白? ああでも、フィリシア様赤なんかもいいですね!」
 蝋燭片手に衣裳部屋の片隅に移動する。下着と大差ないほど露出度の高い衣装は、何度見ても極彩色の悪夢である。
 最小限の布で作られた衣装を掻き分け、マーサは意外とまともなドレスを何着もフィリシアの前に披露する。
「……普通の服、あったんだ……」
「これは国王陛下からの贈り物ですよ」
 ホクホク微笑みながら、マーサがドレスを一着一着フィリシアに見せる。
「生地も仕立ても一級です。あぁこれなんか、全体的に少し緩めですからちょうどいいんじゃありませんか?」
 マーサはそう言って紫色のドレスを広げて見せた。少し胸元と背中が開きすぎな感じもあるが、少なめの装飾は上品にまとめられている。
「うーん。妥当かしら」
「夜の女って感じですね、この切り込み!! 素敵です――!!」
「あなたが興奮してどうするの?」
「違いますよ! 夜会のあとは、行かなきゃダメですってば!!」
 きゃっと声をあげ、マーサがドレスを抱きしめながら身もだえしている。
「行く?」
「決まってるじゃないですか! 国王陛下の寝所に夜這いです!!」
 ドレス片手に侍女が言い切った。フィリシアは再びつんのめる。どういった発想でそんな突拍子もない結論になるんだか理解できない。
「なんでエディウスのトコに夜這いしなきゃいけないのよ!」
「え!? まさかアーサー王子に!?」
「違……!」
 真っ赤になりながら、フィリシアは慌てて訂正を入れる。確かに二人には好意を抱いているが、そんな直接的なものではない。だいたい、アーサーに抱く好意は恋愛感情には程遠い物だ。
「フィリシア様、女は度胸です! 悩殺ドレス!」
 ビッと紫色のドレスを指差し、
「お色気!」
 と、今度はフィリシアを指差す。肉付きがよくなった体なので否定はしないが、なんとなく頷けない指摘にフィリシアは口をつぐんだ。
「あとはエロい化粧に仮面をつければ完璧ですぅ!」
 徹底的にやる気らしい。
 化粧箱を開けて微笑むマーサを見て、フィリシアの顔が引きつった。

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