【一】

 フィリシアは長い渡り廊下の大きな窓から空をあおぐ。
 晴天続きだったが、ようやく雨が降りそうだ。重苦しく空をおおいつくす雲は幾重にも層を成し、その奥で雷鳴がとどろいている。
「降るわね」
 湿った風が鼻孔をくすぐる。
「嵐になるかも」
 不意にかけられた声に隣を見ると、アーサーが空をあおいでいた。
「嵐かぁ」
「嵐って言えば、町での噂すごいよ?」
「なに?」
「挙式三日後じゃん。なんでまだ舞姫は国王の婚約者のままなんだ――って。婚約解消の御触れ、出してないもんね」
「……」
 それは、出ないだろう。
 過去を失い妊娠して帰ってきた娘を、エディウスは受け入れようとしているのだ。連日のように臣下たちが懇願しても、彼はその意志を変えようとはしない。
 それが、今のフィリシアにとっては嬉しかった。
(やっぱ好き……なのかなぁ)
 以前のような影を見せることのなくなった彼と一緒にいる時間が増えている。それは穏やかで心地いい安息の時間。
(でもいきなり結婚っていうのは……)
 人生の大きな転機となる成婚の儀は三日後にひかえている。国民はあまりいい顔をしないだろう。いまのままではエディウスにとっても、この婚姻は歓迎すべきものとはなりえない。
(なんとか話し合って、もうしばらく引き伸ばしてもらわなきゃ。……うーん。ここで婚約解消って思考に行かないところが、なんだかもう)
 明らかに意識している証拠だ。いまさら否定もできない心の変化に、フィリシアは複雑そうに眉を寄せる。
「でさ――シア、聞いてる?」
「は?」
 慌ててアーサーの顔を見ると、呆れたように苦笑している。
「ごめん、なに?」
「だから、夜会を開こうかと」
 唐突な発言に、フィリシアはアーサーの顔を凝視した。
「や、夜会って――」
「仮面つけてさ、仮面舞踏会みたいなヤツ。皆に声かけてるんだけど結構反応いいよ? 今晩、大広間でやるの」
「仮面舞踏会?」
「うん。フィリシアもどう? 最後の記念に」
「踊るの!?」
 フィリシアが一歩後退した。夜会自体にいい思い出がない。
「今回はオレ主催だよ。フィリシアだけに踊らせるようなことはしない」
 エディウスが主催した夜会は――最悪だった。あのころの彼は、フィリシアにとって本当にいろんな意味で見知らぬ男だった。その夜会での醜態は、あまり思い出したくもない。
「侍女のマーサも連れて、どう? 仮面舞踏会っていっても、参加するのはちゃんと身分の知れた人間ばっかだよ。国の中枢をになう重要人物。出て損はないよ」
 こういった場で要人たちと親善を深める野心家は多い。それに、主催しているは国王の弟だ。その彼に声をかけられたというだけでも栄誉に値する。
 無下むげに断る人間などいないだろう。
 しかし、フィリシアは小さな溜め息とともに首をふっていた。
「ごめん、やめとく」
「……どうしても?」
「うん。誘ってくれてありがと」
「わかった。残念だけど無理強いはできないし」
 微苦笑でそう言って、アーサーは歩き出した。
「じゃ、オレ謁見だから」
「アーサー!」
 三歩歩いて、少年が足をとめる。
「ね、セルファ知らない?」
「女ったらしの吟遊詩人?」
「最近見ないの」
 森で見失ってから、彼の消息を知る者はいない。そのうちこっそり部屋に帰ってくるかと思ってしばらく見張っていたが、結局その日以来、泣き黒子の吟遊詩人は一度として城に訪れなかった。
 彼が使っていた部屋には、彼の私物が置きっぱなしにされていた。慌てて城を出て行ったという可能性は否定できないが、路銀や護身用の短剣を忘れていくほど間抜けではないだろう。
「――知らないけど」
 少し間をあけ、アーサーが答える。
「そう……」
「よかったじゃない、うるさいのが消えて?」
「鍵、持ってかれたままなんだけど」
 ぼそりとフィリシアが毒づく。壊れているとはいえ、あれは他人の手に渡っていいものではない。
「鍵はね、開ける対象があってはじめて役に立つんだよ」
 アーサーが自嘲気味に笑う。
「あんなものが開くとは思わないでしょ、普通」
「あんな――もの?」
 なんだろう。なにかが引っかかっている。
 アーサーの言葉。まるでなにかを知っているかのような微妙な言い回し。
り人は介立者。すべての仲立ちをする永遠の異邦人――キミが出会った人間は、あれはもう人を超越した存在だったんだ」
 そう言ったアーサーの顔には、ひどく見慣れない笑みがあった。
「アーサー……」
「思い出さないほうがいい。でも、もし本当に真実が知りたいのなら――覚悟を決めろ。過去に繋がる鍵を捜してるってことは、まだあきらめてないんだろ?」
 こくりと少女が頷くと、少年は溜め息をついた。
「鍵はもう使えない。あれは壊れた」
 遠くを見るような目で、アーサーは続けた。
「オレからはなにも助言できないよ。キミの記憶が戻らなければいいと思ってる。本当に望むのなら自分で探してごらん。喜劇はすぐそばにある」
「喜劇?」
「滑稽なほど残酷な現実さ」
 すべての感情を消し去って、少年は瞳を細める。
「答えてはくれないの?」
「ああ」
「ひとつだけ教えて」
 アーサーがフィリシアを見つめる。
「本当は記憶、無くしてないよね?」
 瞬間、アーサーの瞳の奥が悲しみに揺れる。なにかを言おうと口を開き、しかし、なにも語ることなく彼はゆっくりと長い廊下を歩き始めた。
(私の知らないことを知っている。あの鍵のことも――私の過去も)
 彼の背を見つめながら、フィリシアはそう確信した。
「私の記憶が戻らなければいいと思ってる? 本当に?」
 共有された秘密、失われた過去。
 そのすべてを彼はずっと一人で抱え込んでいる。
「アーサー、矛盾が多すぎるわ。本当に思い出して欲しくないなら、なにも言わなければいいじゃない。でも、アーサーは言葉をくれる。それは、つまり……」
 思い出して欲しい。そう、言われている気がした。
 隠された記憶の向こうにある真実を。
 すべての過去を。
 彼は多くを語ろうとしない。その理由も、必ずあるはずだ。
 そして、多分。
「私≠ヘその理由を知ってるのね?」
 遠ざかる背にそっと問いかけて、少女は踵を返した。
 挙式は三日後に迫っていた。
 そして、暗雲はすぐ目の前に。

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