【十八】

 小さくなるフィリシアの後ろ姿。
「自覚、あるのかなぁ」
 毎日あれだけ走り回っていては胎児によくないだろう。アーサーは溜め息をつきながら分厚い本で肩をたたいた。
 フィリシアの姿が木々に隠れるとアーサーはようやく踵を返す。彼はそのまま、ゆっくりと歩き出した。
 視線の先には密林には不自然なほどの空間があった。
 フィリシアはどうやら気付かなかったらしい。墓標が二つ並んだ静寂の場所に。
「助かったよ」
 墓標の裏から、ひょこりと男が現れた。
 体についた枯れ草や土をはたき落としながら、男はアーサーにむかって歩いてくる。
 彼は小さな広場の中央で立ち止まった。
「まさかあんたが助けてくれるとは思わなかった」
 おどけたように肩をすくめる。男の金髪が揺れた。
「――なにをした?」
 低いアーサーの問いかけに、男――セルファが一瞬表情をこわばらせる。
「別に、たいしたことじゃない」
 平静を装いセルファはそう返したが、フィリシアの動揺や焦りが彼の言葉を裏切っていた。しかし、アーサーはそのことに関して深く追求せず、もう一度口を開く。
「いつまでここにいる気だ? お前の用件は済んだはずだ」
「二つはね」
 ニヤリとセルファが笑った。
「伝言はあんたに伝えたし、イリジアからの使者も来た。欲しいものの一つは手に入れた」
 そう言って、セルファは手を開く。そこには、鎖につながれた鍵が乗っていた。
「あとはあの舞姫様をさらうだけさ。協力してくれ。本当は恋人として穏便にすすめたかったんだけど、思ったよりうまくいかない。このままじゃ国王との挙式に立ち会うハメになる」
「――……」
「別にいらないだろ、あんな小娘。ここにいたってたいして役に立ちはしない」
 ニヤニヤと笑いながら、泣き黒子の男は鍵を空にかざす。小さな鍵に埋め込まれた真紅の宝石が揺れる。
「あれ? こっちの鍵、壊れてる」
 大きめの鍵のほうを指ではじいてセルファは小首を傾げた。
「おかしいな、前見たときは壊れてなんか――」
 セルファの視界の端で、少年が身をかがめて本を草の上に置いた。そのまま、彼は一歩だけ足を踏み出す。
「あ……?」
 鋭い痛みが胸を貫く。セルファは茫然としながら鍵から視線をはずし、少し下を見た。
 少年の髪が揺れている。イリジアの第三王女と同じ、栗色の髪が。
 少年がゆっくりと顔を上げた。
「お前は知りすぎている」
 低くささやく声が闇色に染まり、細めた瞳が憎悪と絶望に揺れる。
 イリジアの宰相からは、虫も殺せない能無しだと聞いていた。アーサー王子の評価はその程度だった。
 実際に第一印象はイリジアの宰相の意見と酷似していた。
 しかし、セルファはそれが間違いだとすぐに気付いた。明朗な少年に隠された、もう一つの顔――それが、いま目の前にあった。
 彼が普通ではないと直感で判断したのは、長く使われることのなかっただろう薄暗い一室だった。あの時は協力者≠ェ一国の王子であることに驚いたが、すぐに納得した。
 それだけの理由はある。正室の王子として生まれたのだ、それだけでイリジアの呼びかけに応じるには充分な理由だった。
 甘い誘いにのる愚かな王子。それが、イリジアの宰相がセルファに伝えたアーサーという少年の人物像。
 ぬくぬくと育った、お人好しの王子。
 だが、そうではなかった。
 虫一匹殺せないと罵られていた王子の手には研ぎ澄まされた剣が握られ、それは深々とセルファの胸に突き刺さっていた。
「その鍵は守り人の鍵=\―グラルディーの秘宝」
「な……」
「お前が持つべきものではない」
 痛みで視界が大きくぶれる。呼吸ができない。セルファは混乱したまま、少年から離れた。
 アーサーの手にしていた剣にはべっとりと血がついている。セルファは浅い呼吸を繰り返しながら、胸の傷を押さえてうずくまった。
「ど……言うこと……だ!?」
「そのまま帰れば見逃してやろうと思った。――お前は死線に触れたんだ、セルファ・シルスター」
 少年が剣を振り上げる。かげった顔は、無表情にセルファを見すえている。
「やめろ……!!」
 痛みをこらえながら、セルファは声を絞り出した。こんなところで死ぬわけにはいかない。セルファは少年の凶刃きょうじんから逃げようと、渾身の力で悲鳴をあげる体を支えた。
 その彼の目の前を凶刃がかすめる。
さいは投げられた。もう後戻りはできない」
 少年の声がそう聞こえた一刹那、呼吸さえ止まるほどの激痛が全身を襲う。それと同時に、すべての力が抜けた。
 セルファの視界で柔らかそうな草が踊っている。
 ゆらゆらゆらゆら。
 震える手が、それを握る。その向こうに、探し続けた至宝があった。やっと手に入れた、闇の内側でのみ語り継がれるもの。
 やっと――。
 男の目の前で、剣がひらめく。
 それはまっすぐ二つの鍵めがけて振り下ろされていた。
 高い金属音。
「シャドー」
 剣を振り下ろした少年は、折れ曲がった二つの鍵に視線を落としたまま悲痛な声で小さくその名を呼んだ。
 砕けた真紅の宝石が、セルファの血と混ざりあって輝いている。
 その悪夢のような光景を目に焼き付けながら、少年はゆっくりと顔を上げた。
「シャドー」
 二度目の呼びかけに、気配が動く。
「ここに」
 どこからともなく聞こえてきた声に、アーサーは動揺して息をのんだ。
 ゆっくりと周りを見る。
 静寂をたたえた空間には、壊れた二つの鍵の他に自分と男の死体、そして二つの墓標しか存在しない。
 空気が血で赤く染まるようだった。
 アーサーは剣を鞘に戻し、墓標を見つめる。
「イリジアに行け。機は熟した――夜会の、準備を」
「……御意に」
 一陣の風が木々を、草を、そして少年の心をゆらす。
 彼はゆっくりと瞳を閉じた。
 忘れない、あの墓標の意味を。ここに自分がいるこの悲劇の意味を――忘れるわけにはいかない。
「さぁエディウス、懺悔の時間だよ――?」
 闇色の声音で少年は囁いた。

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