【十七】

 木々をぬける。普段はあまり近づくことのない広大なる森林の内側。
 フィリシアは息を弾ませながら、素早くあたりに視線をはしらせる。視界に入るのは鬱蒼うっそうと生い茂る木ばかりだ。人はおろか、獣すらいない。
 ときどき気まぐれのように野鳥が高く鳴く。しかし、その姿も実際に目にすることはできなかった。
「どこ行ったのよ、あいつ!!」
 フィリシアは苛立って唸る。
 自称フィリシアの恋人の吟遊詩人・セルファは、意外にも足が速かった。いつも追いかけっこをしていた時とは比べ物にならない速度――確かに、あれだけ重装備をしたガイゼに追いかけられ、つかず離れずの喜劇を演じていたのは、よくよく考えればずいぶん不自然な話だ。
 それに、ガイゼから逃げるついでにセルファが追いかけていたのは、妊娠中のフィリシアである。どう考えても、あれだけ身軽そうな男が体を気遣いながら走る少女に追いつけないはずはなかった。
「まさか――」
 フィリシアは愕然とした。
(はじめから鍵を狙ってたの……!?)
 男の姿を見失い、初めてその懸念を抱く。
 大きさのまったく違う二つの鍵。ほどこされた装飾は呪縛のように鍵を覆いつくし、禍禍まがまがしささえ感じさせた。
 あれはよくない物だ。不幸を呼ぶもの、人の手にはあまる秘宝。
 記憶の中に途切れ途切れに少女が現れる。楽しそうに笑う黒髪の少女。
 長い黒髪がさらさら流れる。大きな黒瞳、よく動く表情。どちらかというなら線の細い体。しなやかな指の動き。
 そこにいたのは自分≠セった。鍵を持ち、とめる間もなく細い指をひねる。
「っ……!!」
 止めようとしたのも自分。鍵を持っていたのも、自分。
 フィリシアはエディウスからもらった短剣を握りしめた。記憶が混乱する。
(じゃあ私は誰? あれが私なら、ここにいる私は誰?)
 エディウスが愛した舞姫は、本当に存在した少女だったのか。
 手にしている紺碧の宝石をはめられた短剣をもらうはずだったのは、ここにいる自分ではなく、もう一人の自分だったのかもしれない。
 曖昧な記憶。
 思い出さなければいけないとわかってはいるのに、いまのフィリシアは真実に触れるのがただ無性に怖かった。
「私は誰……?」
「――シア?」
 静かすぎる声が、記憶の奥に忍び込む。
 気遣うような声音、そしてその呼び方が心のどこかに引っかかっている。
「どうしたの、シア?」
 なにかが肩に触れる。はっと、フィリシアは目を見張った。
 心配そうに顔を覗き込んでいたのはアーサーだった。その姿に違和感がある。もうずいぶん見慣れているはずなのに、まるで彼を初めて見たような気分だった。
 アーサーの手がフィリシアの肩から離れていく。離した手をそのままもう一方の手が持っていた分厚い本に添えると、彼は気遣うように口を開いた。
「顔色よくないよ。部屋で休んだほうがいい。いくら安定期だからっていっても、無理は禁物だろ」
 子供のことを心配してくれているらしい。フィリシアはアーサーから視線をはずして、小さく否定するように首をふった。
「――もう動いてるでしょ。母親として自覚持ってもいいころだよ?」
「……」
「大切にしてあげてよ。オレ、その為に勉強中なんだから」
 そう言って、アーサーは手にしていた分厚い本をフィリシアに見せた。
 赤茶色の皮の表紙には金のはくが押されている。流暢りゅうちょうな書体は医学大全集≠ニつづっていた。
「医学書?」
「うん、産婦人科っていいよね。オレ、フィリシアの赤ちゃん取り上げたいな」
 さらりと言われた。
「……それ、イヤ」
「えー。じゃ、小児科の先生になって、主治医になるよ?」
「王子様が?」
「うん、前からなりたかったし」
「医者に?」
「いま勉強中」
 トントンと、人差し指で赤茶色の医学書をたたいた。この場合勉強するなら帝王学や戦術だろう。医学とは無縁の世界だ。
 けれど、何故かアーサーが医者として働く姿は容易に想像できた。きっと楽しそうに子供の相手をするに違いない。勉強好きとは聞いてはいなかったが、そういう選択肢もありなのだろう。
「教育係はいい顔しないけどね。立場上は王の補佐をするべきだろうって」
「……でも、いいお医者さんになりそう」
 フィリシアの言葉に、アーサーが笑った。
「それ、二回目」
「え?」
「いや、なんでもない。それよりその剣どうしたの?」
「あ……」
 しっかり握られた短剣を指差され、フィリシアは慌てた。
「物騒でしょ、そんなの持って歩き回ったら」
 そう言いながらひょいとアーサーがフィリシアの手から短剣を奪う。そしてまじまじと剣を凝視した。
 埋め込まれた紺碧の宝石に引けを取らない細やかな装飾。ずいぶん時間をかけただろうその剣は、芸術品としての価値を持っている。
「すごいな、これ。いい仕事してるねぇ」
 宝石を日にかざして、アーサーは思わずといった様子でつぶやく。彼の指先が銀細工の模様をそっと撫でた。
「それ、エディウスが作ったの」
「へぇ――って、え!? 本当!?」
 驚いたようにフィリシアを見て、アーサーは一瞬言葉を失っていた。確かに、国王がこんなものをチマチマ作っている姿はかなり妙だ。
 派手で自慢できる趣味を持つのが普通の環境だから、銀細工などはもともとが国王の持つ趣味ではない。
「――かわってるな」
 もっともな意見がアーサーの口から出た。
 彼はそのまま短剣をフィリシアに返し、
「で、なんでそれ抱きしめたままこんなトコに立ってるの?」
 と、不思議そうに問いかけてきた。
「なんでって――あ!! セルファ!!」
 フィリシアは慌てて辺りを見渡すが、相変わらず人の気配がしない。我を忘れているうちに、あの吟遊詩人はきっとずいぶん遠くまで逃げてしまったのだろう。
「アーサー、セルファ見なかった!?」
「ああ、あの女タラシ? なんか歌いながら城のほう走っていったけど」
「城!?」
 フィリシアが慌てて上を見た。闇雲に走っていたため、方向感覚が狂っていたのだ。あのうそ臭い吟遊詩人は城から飛び出してフィリシアをまき、その足でさっさと城に戻ったことになる。
 意外に抜け目がない。
 城からそんなに離れてはいないはずだ。斜め上空に城の一部でも見えないかと目を凝らしたが、生い茂る木々が視界の大半を埋めていた。
「アーサー、お城どっち!?」
 ものすごい剣幕で、少女は少年に詰め寄った。
「え……あっち」
 呆気に取られながら彼は素直にフィリシアに道を指し示した。
「ありがと!!」
 取り返さなければならない。心の中にシコリのように残るあの後悔と絶望の瞬間を、もう二度と味わいたくはない。
 使い方を間違えれば――そう、間違えれば、何もかもが狂うのだ。
 自分は多分、使い方を間違えた。
 フィリシアは唇を噛む。きっと間違えたからこそ、あの鍵がもたらす恐怖をこの体が覚えているのだ。
 だから二度と使わせるわけにはいかない。
 あれは秘宝。
 誰の手にも、誰の目にも触れてはいけないグラルディーの秘宝=\―。

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