【十五】

 ぴたりとドアに耳を押し付けて、フィリシアは息を殺している。
「……」
 すっかり巻き込まれる形になったエディウスは、フィリシアのそんな姿をただ傍観していた。
「よし、来てない」
 場所は国王の寝所。親衛隊には誰も通すなと伝えたから大丈夫だとは思っているが、用心にこしたことはない。
「……私は通行証か」
 ようやく拉致された意味を理解して、エディウスはそうつぶやいた。
 主人不在の寝所にはよほどのことがなければ立ち入ることができない。そこは進入するには困難ではあるが、同時に、あの見知らぬ恋人から逃げるには非常に安全な場所とも言えた。
 主人がいなければ主人を同行させればいい。廊下を歩いていたエディウスは、そんな理由で滑稽な追いかけっこの犠牲となったのである。
「――こ、婚約者が困ってたのよ!? 助けるもんでしょ!!」
「困ってたのか?」
「あれが喜んでるように見えたの!?」
 毎日のようにセルファに追いかけられている。しかも、憤慨したガイゼというオマケつきだ。逃げるほうも日に日に命懸けとなっている。
 エディウスはちょっと考えて、
「あれはお前の恋人ではないのか?」
 と、至極まじめな顔で質問をした。
「その首本気で絞めるわよ?」
「――違うのか」
「あれのどこが私の趣味だって言うのよ!? 知ってるの!? 城中の女、手当たり次第に口説きまわってるのよ!!」
 それがガイゼの逆鱗に触れた理由の一つでもある。セルファは顔を見るたびに歯の浮くような甘い言葉を叫んでおきながら、同じ口で目にとまった女に声をかけていた。現場を目撃したフィリシアは、ガイゼの怒りをようやく理解した。
 あの吟遊詩人は、一国の王の婚約者のであるフィリシアの恋人を名乗り出ながら、城内いたるところで、さまざまな女と関係していた。
 それを知った瞬間、ぶつりと音をたてて理性の糸が切れた。
「絶対違う!! 恋人なんかじゃない!! しかもあのバカ、ことあるごとにガイゼに目ぇつけられて、そのたびに私に泣きついてくるのよ!? あんな男絶対に恋人じゃない――!!」
 一気にまくし立て、フィリシアはキッとエディウスを睨みつけた。ガイゼが怒るのも道理なのだ。
 怒り心頭でエディウスに訴えたフィリシアは奇妙な沈黙に苛立った。
「――……」
「……」
「で、なんであんたはそんなにニコニコしてるわけ?」
 顔を引きつらせながら、フィリシアはエディウスに両手を伸ばす。そのまま、母譲りといわれる美しき国王の両頬を思い切りつかんで――引っぱった。
「人がこんなに怒ってるのに、なんでそんなに機嫌がいいわけ?」
 重ねて問いかけるフィリシアの顔には、恐ろしく不自然な笑顔が張り付いている。
 エディウスは少し困ったように首を傾げて、フィリシアの両手に自らのそれを重ねた。
「私が疑うまでもないと思って」
「? 疑う? なにを」
「あの男がお前の恋人なのかどうか」
「違うに決まってるでしょ。私の趣味じゃないって何度言わせれば……」
 言葉の途中で、見つめてくるエディウスの瞳が心底嬉しそうなのに気付き、頬が瞬時に熱を帯びた。
 趣味じゃない。恋人なわけがない。
 はっきりと言い切ったその言葉と、エディウスを婚約者として無意識に頼ったその行動が、彼の笑みの理由らしい。
「笑ってる場合じゃないでしょ! 笑ってる場合じゃ!?」
 羞恥に腹を立てギリギリと指に力を込める。せっかくの美貌が台無しだが、そんなことはどうでもいい。
「フィリシア」
 エディウスはフィリシアの手を包み込んだまま、じっと見つめ返してくる。彼の顔はずいぶん間抜けだった。しかし、その瞳はフィリシアが惹かれるあの優しい銀細工師のものである。
 これで泣き言の一つでも言えば遠慮なく指をねじるところだが、エディウスはなかなか痛みを訴えてこなかった。
 数分の睨めっこののち、フィリシアは根負けしてエディウスの両頬を解放した。
 そして、ようやく彼が重鎮を連れてどこかへむかっていたことを思い出す。
「午後の予定は?」
 フィリシアの問いかけにすっかり赤くなってしまった頬をさすりながら、エディウスは視線をめぐらせた。
「イリジアから使者が来ると……」
「イリジア?」
「ヴェスタリア様の祖国だ」
 ドアにむかいながらそう返したエディウスに、フィリシアが視線を投げた。
「誰それ?」
 微妙に聞き覚えのある名前にフィリシアは小首を傾げる。
「――アーサーの母上だ」
 前王の正室にして、イリジアの第三王女。心を壊したまま国へと帰っていった悲劇の王妃。
 その国からの使者がバルトに訪れる。
「……って、なにのんびりしてるのよ!! さっさと接客してらっしゃい!!」
 巻き込んだ本人が指をさして部屋を追い出そうと声を荒げる。接客ではなく謁見なのだが、エディウスは訂正することなくドアノブをひねった。
「お前は?」
 振り向くと、フィリシアはニコニコしながら手をふっている。最近この笑顔があまりいいことの予兆ではないことに気付きはじめたエディウスは、微かに眉を寄せた。
「私、まだクカがないかどうか確認する。気がすんだら出てくから」
「……。」
「って、なに黙ってるのよ? まさかまだ隠してるんじゃないでしょうね?」
「いや、ない。――たぶん」
「多分じゃないでしょ!?」
 人を狂わせる麻薬はいろいろな場所に隠されていた。本当に呆れるほどいろいろな場所に小分けされていて――その一部は、もしかしたらまだこの部屋のどこかに残っているかもしれない。
 ゆえにたぶん=B
 エディウスの微妙な言い回しに気付いたフィリシアは、意欲的に絨毯の端を持ち上げた。
 本腰を入れるらしい彼女にエディウスの顔がかすかに引きつる。
 これでクカの入った小袋が見つかったら、エディウスは謁見後に婚約者の顔をまともに見ることができないだろう。熱を持った両頬を押さえながら、彼は床の模様に合わせて巧妙に作られた収納庫を次々と発見していくフィリシアを見つめた。
「ほどほどにな」
 いろんな意味を込めた男の一言に、
「徹底的にやるわよ」
 さわやかに少女は答えた。

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