【十三】

 フィリシアは丸椅子をすすめられ、それにちょこんと腰かけた。
 非常に居心地が悪い。薄暗い水路を壁伝いに歩いてきた彼女は、全身泥まみれになっていた。
 湯をひたした布を手渡され、顔を拭いてから想像以上に汚れたそれを見て小さく奇声をはっした。相当、どころではない汚れ方だ。別の場所でもう一度顔を拭いてさらに呻く。
(き、汚い……っ)
 髪や服は泥だらけな上に蜘蛛の巣までかかっていた。エディウスが困惑して呆れるのも納得できる有り様に、フィリシアはひたすら恐縮して小さくなった。
「あ、あのー……」
「痛いところは?」
「……別にないけど」
「子供は?」
 さらりと問われ、緊張しながらただ「大丈夫」とだけ返した。本当に純粋に心配してくれていたようで、彼は安心したように頷いてフィリシアの体に怪我がないことを確認してから神妙な顔で彼女に向き直った。
「水路はもうずいぶん長い間使われてない。散歩に使うには不適切だと思うが」
「そう思う」
「……通路の途中には柵があって入れなかったはずで」
「そうなんだ」
「……」
「……」
「なにか飲むか?」
「うん」
 なにか言いたげに口をつぐんだ彼は、頷いた彼女に一瞬だけ視線をやってさっさと奥につづく部屋へとひっこんでしまった。
 フィリシアは項垂れて溜め息をつく。水路に閉じ込められた理由を強く訊かれないのはありがたいが、この無残な格好をそのまま放置されるのも恥ずかしい。どうやって部屋まで帰ろうかと考え込み、ふいに視線を上げて目を細めた。
 そして、辺りを見渡す。
 一方の窓からは巨石を組んでつくられた王城の壁が見え、もう一方の窓からは深い森をうかがうことができる。そこは、きっと森の木を伐採してつくられたのだろう簡素な小屋――フィリシアはその小屋の隣にある水路の出口からエディウスに見つけられて外に出た。
 部屋の床には板がなく、そのまま土になっていた。家というよりは作業場のような様相だと思って眺めていると、木製の机の上に、フィリシアがはじめて見る、用途のさっぱりわからない器具が無造作においてあった。
 そして、その机の上には小さな土の塊がある。
 小首を傾げてさらに眺めていると、遠くの棚に耳飾や手鏡、指輪などの装身具が並べてあるのが見えた。
「あ、工房なんだ」
 小さな釜を見て納得する。エディウスの服装がずいぶんと楽そうなものだったことを思い出し、彼女はさらに室内を見渡した。
 積まれた薪、いくつか並ぶ小袋、放置された器具、薄汚れた布の山――なるほど、確かに一国の王が持つ趣味としてはあまりに型破りだ。華やかさの欠片もない地味な部屋に臣下たちはさぞ嘆いているに違いない。
 しかし、フィリシアは親近感を覚えて肩の力をぬく。吐息をついて立ち上がった瞬間、彼女は危険を察知して身をこわばらせた。
 遠くからセルファの声が聞こえてきた。
(しつこい!)
 隠れなければと思ったとき、小屋のドアが大きな音をたてて揺れた。
「すみませんー? フィリシアいませんかー?」
 心臓が口から飛び出すかと思うほど驚倒した彼女は、開いていくドアを茫然と見つめた。工房は狭く、隠れるなら奥につづくドアをくぐるほかない。しかし、すでにどう移動してもセルファの視界に入ってしまう。
 血の気が引いた。フィリシアの目が開いていくドアに釘付けになる。
「フィリシア?」
「なんの用だ?」
 低い音を響かせてさらに開くドアに、足早に近づいてきたエディウスの大きな手がかかった。
「私の工房と知って無断で立ち入る気か?」
 静かな問いの言葉尻は彼らしくもなくきつい。フィリシアが彼の横顔を驚いて見つめると、どうやら同じように驚いたセルファは一瞬言葉につまったようだった。
「いえ……国王陛下の工房だとは、その、気付かなくて」
「ここは神聖な場所だ。誰の入室も許可できん」
「ああ、そうなんですか? 失礼しました。他を捜します」
 ドアから離れたセルファがどちらに進むかを確認し、フィリシアは慌てて窓から死角となる場所に隠れた。思わず息をとめ、どんなに耳をすましても足音が聞こえなくなるのを確認してからのろのろと立ち上がる。
「本当にもう……」
 勘弁して欲しい。心の中で毒づくと、どうやら顔に出ていたらしくエディウスに苦笑された。
「落ち着くからこれを」
 言葉少なに湯気をたてるカップが机の上におかれた。息を吐き出して近づくと、エディウスは、そういえば、と口を開いた。
「鍵を持ってるか?」
「鍵?」
「鎖に繋いでいた」
「ええ、……持ってる」
 城下町で奪われかけた首飾りのことを言っているのだろう。何気ない問いなのに心臓がはねた。
 彼女は一瞬だけ躊躇って胸元に指をやって、谷間から形状の違う二つの鍵を取り出してエディウスにさしだした。すると、彼はあからさまに狼狽えて鍵を受け取る。
「エディウス?」
「……そんなところに隠してるのか?」
「胸の谷間? 最近大きくなったからちょうどいいの。ここなら無くさないし」
 不快な鍵は、存在感はあるくせにうっかりしているとどこかに置き忘れてしまいそうになる。それは心のどこかで彼女自身がそれを手放したいと思っているからに違いない。だが、同時にそうする事がたとえようもない不安を呼び、結局肌身離さず持ち歩く結果へと繋がっている。
 難しく眉を寄せながら、
「でもあんまり大きくなると、着る服がなくなるから困るわ」
 と、形のいい胸を左右から持ち上げるようにして溜め息をつく。いまはぴったりだが、育ちすぎると借りる服がなくなってしまう。
 困ったと本気でつぶやいていると、顔をそらすエディウスの姿が目に入ってきた。
「どうしたの?」
「最近……あまり、見慣れてなくて……いや、なんでもない」
 咳き込んで狼狽しながら、彼はそんな言葉を並べた。
(……意外にかわいいのね)
 年上の男をつかまえて思うことではないが、初めて目にする反応に少しだけ動悸をおぼえて彼を見つめた。動揺を鎮めるためなのか、深呼吸している姿が微笑ましい。
 彼は移動しながら二つの鍵を持っていた鎖にとおし、金具と木槌きづちで器用に繋いでからフィリシアの元に戻ってきた。
「いつ渡そうかと思っていた」
 ささやきが耳元で聞こえ、ふと首に重みが加わる。戻ってきた鍵は相変わらず不快な気配をまとっていたが、エディウスから受け取ったと思うと不思議と以前ほど嫌な感じはしなかった。
 短く礼を口にするとエディウスから笑みが返ってきた。
 聞こえてしまうのではないかと思うほど鳴り響く心臓をなだめながらフィリシアはきゅっと鍵を握った。そして、誤魔化すように口を開いた。
「ここ、神聖な場所なんでしょ? いいの?」
「ん?」
「私がいても」
「……困る」
(あら)
 意外に素直な反応だ。笑ってかわすと思っていたが、予想に反して彼の視線は完全にフィリシアからそれてしまった。彼はひとつ溜め息をついて、
「お前がいると落ち着かない」
 とつぶやく。
「服を用意しないと」
「へ? 服?」
 目を丸くして反芻したフィリシアに、エディウスが大きく頷いた。そして彼女の体を指差す。
「破れてる」
「――!?」
 どこがと問う前に、彼女は体をひねりながら服の状態を見て、ついでに長いドレスの裾をつまんで悲鳴をあげた。
 上等なドレスは腰の辺りから見事な切り込みが入っている。それは一箇所や二箇所ではなく、さらに薄くて軽い生地のため下着がちらちら見えている有様だ。
 付け加えるなら、胸も着衣した直後より開き気味になっていた。
「着替えを持ってきたほうがいいか?」
「あ、当たり前でしょ!?」
 胸元を押さえて壁に張りついた彼女は怒鳴るように婚約者に返した。多少小汚いくらいならまだしも、こんなあられもない姿で城の中を歩き回るわけにはいかない。悪い噂に拍車がかかりそうな格好を自覚して、フィリシアはエディウスをきつく睨んだ。
「持ってきて、いますぐ!」
 命令すると彼はすごすごと小屋を出ていって、しばらくしてからめまいを起こしそうなほど豪奢なドレスと髪飾りを手に戻ってきた。
 彼がいないあいだに湯を借りて簡単に体の汚れを落としたフィリシアは、目の前にあるいつも以上にきらびやかなドレスに唖然とする。
 言葉を失う婚約者に彼は至極真面目な顔で口を開いた。
「着替え、手伝うか?」
 ああ、意外とこの人したたかなんだなと、フィリシアは顔を引きつらせながら考えて残念がるエディウスを小屋の奥へ押し込み――そして、用意されたドレスに着替えをこころみるも悪戦苦闘のすえ挫折し、渋面で彼を奥の部屋から引っ張り出した。

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