【十二】

「冗談じゃない」
 ぴたりと壁にはりついてフィリシアは息を殺す。ガイゼの怒声が遠いことを確認し、セルファごとうまくけたことを知って胸を撫で下ろした。どうやらガイゼはエディウスとフィリシアに敬意の欠片も示さないセルファの態度が気に入らないらしい。
 そして、さらに何かしら問題を起こし、それがガイゼの逆鱗に触れているようだ。頭は固いが忠義心が厚く、沈着冷静なガイゼは人徳と剣の腕前、さらに医療にも明るく、類稀な指揮能力を高く評価されて若くして騎士の中でも最高の誉れである地位にいる。普段は部下たちの面倒をよくみて細やかな配慮を怠らないような男が、形相を変えて胡散臭い吟遊詩人を追いかけまわしているのだ。よほどの理由があるのだろうと考えられる。
「……追いかけまわして被害増大、さらに怒り倍増って感じも……するんだけどね」
 ふっとぬるく笑う。
 なんとなくセルファがからかっているようにも見え、それを感じ取ったガイゼがさらに激昂しているかんもある。この二人に当分かかわりたくないフィリシアは、城の外に逃げ出して様子をうかがいながら壁伝いに歩き始めた。
(部屋に行って隠れてようかしら。衣裳部屋なら見つからないかも。でも、もし見つかってセルファと二人っきりになったら……)
 それは嫌だと、素直に思う。他に隠れる場所を探したほうがいい。これほど広い城なのだからいくらでも逃げ場はあるのだが、逆に広すぎて迷ってしまうフィリシアは、慎重に身を隠す場所を思案する。
 森の中に入ってみようかと思いついたとき、思いのほか近い場所からセルファの声が聞こえ、とっさに駆け出し――。
 そして。
「え?」
 みしり、とおかしな音をたてる足元から妙な弾力を感じ、フィリシアの視線が一瞬泳いで下へと流れた。――刹那、鋭い音とともに視界が大きく揺れた。
 唇から漏れかけた悲鳴にセルファの呼び声が重なり、とっさに彼女は自らの口を押さえた。明るかった視界が瞬く間に暗転し、体に強い衝撃を受ける。口を押さえていた手は、いつのまにか胎児を守るように腹部に回されていた。
「あれ? 声が聞こえた気がしたんだけどな」
 遠くでセルファの声が聞こえる。ぱらぱらと落ちてくる小石に半ば茫然としながら、フィリシアは暗闇を凝視していた視線を頭上へとむけた。
 なにが起こったのか理解できなかった彼女は、遅れて全身を襲った痛みに奥歯を噛みしめた。どうやらいろいろな所を強打したらしい。ゆっくり広がる鈍痛に低くうめいて腰をさすり、彼女は慌てて口を閉じた。
(なに!? どうなったの!?)
 混乱しながらあたりを見渡し、水音に耳を疑った。もう一度頭上を見て、彼女はようやく自分が落ちた≠アとを知った。
 湿った泥の臭いが鼻腔に広がったのに首を傾げ、わずかな光を頼りに目をこらして水音のする方角を注視して広い水路を確認した。水路の両脇には通路があり、人の手が加えられているのがわかる。すぐ近くに板切れを見つけて彼女は眉をしかめた。
 どうやら板の一部が腐っていたらしい。かなりの高さから落ちたことに狼狽えて、彼女は再び腹部に手をやった。
 じっと動きをとめて、息さえ殺して胎動を確認する。相変わらず動きらしい動きを見せない赤ん坊にフィリシアは溜め息をついていた。
「大物になるわよ、あなた」
 痛みも違和感もないことに苦笑して、もう一度腹ごと我が子を撫で、彼女は左右に伸びる通路を見た。一瞬上に助けを求めようかと考えたが、セルファに借りを作るのが癪なために壁伝いに川上へと歩き始める。
 舗装された水路なら、きっと過去に使われていたのだろう。灯りがない理由を瞬時に思いついた彼女は、同時に出口も近いのではないかと推察する。王城と運河を結ぶために作られたものなら川上に行けば出口に通じる可能性がある。
 最悪、元の場所に戻って大声を張り上げれば救助が来るはずだ。垂直なもろい壁面を前に、早々に登ることをあきらめたフィリシアは、最後の手段だけは使うまいと心に決めながらも慎重に闇の中へ進んでいく。
 自分の呼吸音と水音だけがやけに耳についた。
 どんなに闇に慣れた目でも、光がないのではまったく視界がきかない。川に落ちないように歩くのが精一杯な中、少しずつではあるが確実に前進していた彼女は、不意に触れていた壁が途切れたのに気付いて立ち止まった。
 細い光の帯が見えた。思ったよりも出口は近かったらしい――そう思って振り返ったフィリシアは、自分が落ちた場所を目視することができずに目を瞬く。
「結構歩いたんだ……」
 思わず口に出してから彼女は身を低くして足元を確かめる。光にあたって浮かび上がったように、そこには幅の狭い急な階段が地上までつづいていた。姿勢を正し、壁に手をそえてゆっくりと石の階段をのぼると、すぐに行きづまって足をとめた。
 壁にそえていた手を頭上に持って行き、蓋をするように並んでいる木の板を軽く押す。
 すぐに彼女は眉をひそめた。
(重い?)
 がたがたと揺れる板はほんの少しだけしか動かずはずれる兆しがない。しばらく押したり叩いたりしてみたが、行く手を阻む木の板にはいっこうに変化がなかった。
(嘘!? 冗談でしょ!?)
 血の気がひいた。地上に出られるのだと信じて疑っていなかった彼女は、零れる光に焦燥をつのらせて無意味な行為を繰り返している。
 やがて大人しく木の板を押していた彼女の手は拳となり、さほど硬くない種類の木をあらん限りの力で殴っていた。大声を出して助けを呼ぶことさえ失念し、無我夢中で木戸をたたいていると、どこからか奇妙な音が聞こえて唐突に拳が目標を失って空振りした。
 視界いっぱいに広がった光にフィリシアは思わす目を閉じる。土を踏みしめる音に続いて、息をのむような音がフィリシアの耳に届く。
 人の気配だ、と彼女が安堵した瞬間、金属音が聞こえて彼女は光に慣れ始めた目をそろそろと開けた。
「何をしている?」
 呆れた声とともに、エディウスが剣の柄から手を離すのが見えた。

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