【十一】

 フィリシアはそろりと衣装部屋のドアを開けた。中を覗きこんで溜め息をつく。
「もうちょっと普通に着られる服、用意してくれてもいいのに」
 ドレスの裾が長すぎてどうしても走りにくい。代わりのものを探したところで、彼女用に用意されたものはほとんどが夜会か演舞用の衣装で普通に着るには目立ちすぎた。
 彼女は困り果てて衣裳部屋で立ち尽くす。何度か簡素な服を注文したが、近々王妃となる女性にそのようなものは着させられません、とマーサは強い口調で反対した。
 最近では異国からの使者も多くなってきたので、周りの目も気にしなければならないらしい。
 それでなくても余計なことで注目を浴びているのだ。これ以上非難されないよう、本当なら婚礼当日まで部屋でじっとしているのが最良なのだというのは彼女の弁である。
 しかし、そういうわけにはいかない。自室にいればセルファが押しかけてきてさらに悪い噂がささやかれかねない状況なのだ。
「仕方ない」
 舌打ちして部屋を出て、こそこそと廊下を歩き出す。むやみやたらと走り回ることの多くなった彼女は、残念ながらいまいち城の構造を理解していない。
 だが、いくつかは迷わずたどり着ける部屋がある。
 フィリシアは人目を気にしながら移動し、目的の部屋に着くとこっそりと忍び込んだ。なかなか広い一室には、さまざまな種類のドレスがある。夜会用の服が詰め込んであるクローゼットは素通りし、フィリシアは質素なドレスが並ぶクローゼットのドアを開けた。
「お借りします」
 会ったことも見たこともない女に頭をさげてフィリシアはドレスを一着引っぱり出した。幸い体型は似ているらしく、その中でもゆったりした服を選べば何とか着ることができる。
「エディウスのお母さんには感謝しなきゃ」
 高価な服、宝石までもが手付かずで残してあるのだ。軽い生地で縫製された服に急いで着替え、貴金属には目もくれずに部屋を出る。とにかくセルファに見付からない場所に隠れて一日を乗り切らねばならない彼女は、人がいないことを確認しながらこそこそと廊下を歩いていた。
 ふと、そこがエディウスの寝所の近くなのに気付き、フィリシアは手を打った。
 彼のところに行けばかくまってくれるかもしれないと考えつき嬉々として歩き出す。そして、廊下の角を折れる途中で動きをとめて、出したはずの足を引っ込めて壁に貼りついた。
「なあいいだろ?」
 親しげな呼びかけにフィリシアは眉をひそめた。
「オレも一度寝所を護ってみたいんだよ。な?」
「……これは親衛隊の仕事だ」
「そんな堅いこと言うなよー」
 おどけたような声に、聞いているフィリシアのほうが不快な気分になってくる。フィリシアはそっと奥の光景を確認して瞳を細めた。
(――確か、ダリスンって名前の門番……)
 門番という事はどう考えても一介の――しかも、ようやく下っ端からわずかに昇進しただけの兵士に違いない。その男が親衛隊にかわって王の寝所を護りたいというのはあまりに図太すぎる。半ば呆れて様子を見ていると、会話はなおも続いた。
「本当は奥の扉を護るんだろ? なんで通路にいるんだ? なあ、なに取り澄ましてるんだよ?」
「黙れ。――ここをどこだと思っている。質問に答えるつもりはないし、いかな理由であれ持ち場を変わる気はない」
 容赦なく対の槍がダリスンにむけられ、彼はさすがにたじろいで身を引いた。
「早々に立ち去れ」
「わかったよ! 畜生」
 吐き捨てたダリスンを見てフィリシアは慌てて踵を返した。寝所の奥は監視のための物見台につづいており、引き返す道は一本しかない。迫ってくる足音に焦りながら近くに見えた廊下を折れ、階段を駆け下りてさらに突き進む。
(な、なんで逃げなきゃいけないの……!?)
 走っている途中で彼女ははたと気付いて足をとめた。セルファから逃げ回っている毎日がすっかり身についていた彼女は、荒い息をつきながらも条件反射で背後を確認してしまう。
 そんな自分に気付き、彼女は肩を落とした。
「……それにしても、意外ね……」
 王の寝所を守っていたのは、フィリシアに言い負かされたあの二人だった。素直に引き下がったのを見て少し頼りない印象を抱いていたが、ただ言われるまま身を引いたというわけではなかったらしい。
(エディウスのこと、心配してくれてたのかもしれない)
 緊急時にすぐ対処できるようドアの前で待機していた可能性がある。そうして、エディウスがクカを断ったことによって危惧がなくなったからこそ、寝所のドアの前ではなく寝所に続く通路で警護にあたっているのではないか。
 それは勝手な思い込みかもしれないが、そう考えると嬉しくなって、自然と笑みがこぼれた。浮かれながら歩く途中、彼女は腹部に違和感を覚えて視線を落とす。
(……動いてる?)
 妊娠五ヶ月といえば胎動を感じてもおかしくない時期である。しかし、まったく自覚のない彼女は狼狽して腹に手をあてた。
「気のせい?」
 思わず首をひねる。あと五ヶ月でこの世に産み落とされるであろう命は、息を殺して眠り続けているかのように静かだった。いまも大した反応はなく、彼女は少しだけ目立ってきた腹部をそっとさすって奇妙な顔をする。
 本来なら、もっと動揺してもいいはずだ。
 妊娠発覚当時は本当に混乱し、周りから責められて泣きたくなったことさえある。さらに見ず知らずの男が恋人だと名乗り出て、事態は確実にこじれていた。
 本当なら、きっと、もっとずっと前に疲れ果てて逃げ出していたに違いない。
 腹部をさすっていた手に硬いものが当たった。ゆったりとした服の下に隠したそれに触れ、フィリシアは小さく吐息をついてから、そっと布をどけて確認する。
 そこには銀細工の短剣があった。
 エディウスがフィリシアのために作った剣。美しいが、同時に身を守るための武器となる品だった。
(これ見ると、落ち着くのよね)
 不思議と作り手の想いが伝わってくるようで、胸の奥からあたたかくなる気がした。クカの一件から二人の関係も微妙に変化し、より彼が身近に感じられるようになった事も彼女にとっては嬉しいできごとの一つになり、気付かぬうちに心的に作用している。
 まとい続けていた陰りを脱ぎ捨てた彼は、城下町で見せた穏やかさをにじませてフィリシアと接する。それが心地よい。
(ああいう時は、好き)
 素直にそれを認めた彼女の視線は知らずに外に向いていた。
「どこにいるのかしら」
 別にこれといって用事はないがフィリシアはエディウスの姿を捜す。多少城の者の視線は痛いが、いまはエディウスといることのほうが大切な気がして、彼女は自分の欲求に素直にしたがって視線を彷徨わせた。
「あ!!」
 場所を移動しようと歩き出すと素っ頓狂な声が聞こえ、フィリシアはそれだけで相手を判断して顔を引きつらせる。
「フィリシ……ああ!? どうして逃げるの!?」
 あえて聞く必要のない質問はすみやかに無視し、フィリシアは声のした方角とは別の通路に逃げ出した。それを見て、ぎょっとしたのは声をかけた本人――セルファである。
 慌てて走り出したのを気配だけで感じで、フィリシアは階段をおりた。
「待ってったらぁ」
 甘ったるく鼻にかかる声に鳥肌をたてたとき、背後から破壊音が聞こえ、フィリシアは思わず首をひねって後ろを確認した。
 硬質な音をたてていびつな玉が転がっている
 一瞬のうちになにがあったかは知らないが、セルファの足が廊下をかざる優美な石像を蹴り倒していた。倒すだけならまだしも、無残にも石像の首と手が折れて四方に落ちていた。
(……どうやったらああなるのよ?)
 唖然としたフィリシア同様に唖然としたセルファは、石像の首を持ち上げて途方に暮れている。そして、別の場所から聞こえてきた怒声に驚き、手を滑らせた。
 重い音を響かせながら床に落ちた頭部――その優しげな顔に、見事な亀裂が走る。
 目を丸くしてセルファがそっと足で突くと、石の頭部が真っ二つに割れた。
「貴様ー!!」
 一段と高くなった怒声にセルファが飛び上がって駆け出した。剣を抜いたガイゼから逃げるようにセルファが近づいてくると、フィリシアも青くなってとっさに走り出した。
「な、なんで私まで……!?」
 足を止めたい。だが、長剣を振り回しながら向かってくるガイゼはあまりに迫力があり、たとえセルファ一人を追いかけているとわかっても足を止めることができなかった。
 こうして彼女は見知らぬ恋人とともに謎の追いかけっこに巻き込まれていった。

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