【十】

 男が裏手に広がる森を見ながら、小さく唸り声をあげる。
 相変わらず快晴の空。最近は晴天続きだ。
「ま、近々荒れるんだけどさ」
 視線の先には、ずいぶん仲の良さそうな男と女がいた。仲がいいといっても、腕を組んでいるとか睦み合っているとか、そういったものではない。ただ会話をしているだけだ。だが、それでもわかる。お互いがお互いに、好意を寄せていることぐらい。
 意外といえば意外だった。
 成婚の儀当日に裏切られた王と、記憶をなくし、身籠って帰ってきた婚約者の舞姫。
 どう考えてもこの婚約は破談だろう。事実、国民たちはそう思っている。公表されないのを不思議がる程度にはそう信じている。
 しかも舞姫の恋人≠ェ現れたとなると、これはもう、疑うべくもないはずなのだが。
「――うまくいかないもんだなぁ」
 小さくぼやきながら、男――セルファは溜め息をついた。
 命懸けで恋人を名乗ったわけではないのだが、それなりの覚悟であったのだ。なにせ相手は大国の王の婚約者。無事ではすまないと考えていた。
 しかし実際には毎日あの野獣のような大男、国王直属親衛隊総長のガイゼに追い掛け回されるだけで、被害もなければ実りもない。
「あのオッサン、ことあるごとに追いかけてくるんだよなぁ仕事しろよぉ」
 不審者を追い掛け回しているのだから立派に仕事をこなしているのだが、自分が不審者であるという自覚のないセルファにとっては、暇をもてあます迷惑な男にすぎなかった。
「まいるよなぁ」
 何度目かの溜め息をつきながら、セルファはなおも窓からエディウスとフィリシアを目で追っている。
 この部屋からはちょうど国王の寝室のバルコニーが見える。二人がいるのは、その斜め下だ。
 ――邪魔しに行くか。
 ニヤリと意地の悪い笑みをうかべて、セルファは少し窓から身を乗り出した。
 幸い国王は気性の荒いほうではないらしい。揺さぶりをかけ、婚約者が他人のものであることを知れば、婚約も晴れて破談になるだろう。
 妊娠している娘なのだ。
 しかも、その子の父親はいまだに不明。
「鍵≠イといただくよ、舞姫様?」
 闇の内側でのみ語り継がれる至宝――その使い方を知るのは持ち主たるあの少女だけ。ならば娘ごと奪い去ればいい。
「記憶がなくてもかまわない。鍵を持っているなら、お前こそがフィリシアだ。使い方はどんな手段をとってでも思い出させてやる」
 そうと決まれば行動あるのみだ。
 セルファは踵を返した。
 そして、ギクリと体をこわばらせる。
 この城は広い。使われていない部屋は、ここをあわせてもかなりの数になるだろう。掃除をこまめにしている部屋もあれば、長い間放置されているような、部屋が埃で白く染まっている部屋もある。
 ここは後者にあたる部屋だ。
 人が長く使った形跡のない部屋。セルファが足を踏み入れた瞬間、白い床にくっきりと彼の足跡が残る、そんな部屋だった。
 めぼしい調度品があるわけでもない、誰もが素通りするはずの場所だとセルファは直感した。
 しかし、部屋には自分以外の人間がいた。
 部屋に人はいなかったはずだった。確かに薄暗い部屋ではあるが、そのぐらいは瞬時に判断できる。
 それなのに、それは静かにそこにいた。
 部屋の片隅だけが妙に暗い――セルファはそこにたたずむ影を凝視した。
「何をしている?」
 影が低く問いかける。
 殺気さえ感じる声音である。
「――別に」
 セルファは短く答える。
 得体の知れない存在だと思った。同じ部屋にいるのに、条件は同じはずなのに、声の主がいるその場所だけが異様なほど暗い。
 弱みを見せるわけにはいかない。弱みを見せれば容赦なく喉元に喰らいついてくるだろう。
「何故ここへ来た?」
 影が再び問いかけてくる。
 話しの矛先が微妙に変わった。
 ここ≠ニはこの部屋をさすものではない。もっと大きな意味を含むものだ。声音からそれを敏感に察し、セルファはニッと笑った。
 では、この声の主が協力者と言うことか。
「報告だ。用意は整った、いつでも動ける。あとはそっちの合図を待つだけだと」
 セルファの言葉に、声の主は一瞬考えるように間をあけた。
「わかった。もうしばらく待機させろ」
 低い声に頷いて、セルファはドアへ向かった。ドアは声の主の右隣にある。少し横を向けば、すれ違いざまにその表情を伺い見ることもできる。
 しかし、セルファは視線をドアからはずす事はなかった。
 見れば最期さいごだ。
 さまざまな国を渡り歩き、そこでつちかわれてきた本能が、セルファにそうささやく。
 コイツは危険すぎる。
 普通じゃない。まともな神経でやり合っていい相手じゃない。
 確信はないが、そう感じざるを得ないなにかがある。
 セルファはドアノブをゆっくりひねり、素早く広い廊下へ出た。その瞬間、全身の力が抜け、どっと汗が噴き出す。
「イリジアの宰相、大嘘つきだ。あれのどこが役に立たない、虫も殺せない人間だって?」
 虫どころか人だって必要とあらば殺すだろう。
 自分の手が汚れていないとは言わない。だが、あれはそんな種類の問題じゃない。
「やだなぁ、もう。僕、ただの伝令役なのにさ」
 ブツブツ言いながら、セルファは廊下を歩き出した。
 嵐は間近に迫っていた。

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