【九】
煙が木々の間をすり抜けていく。
クカは本来、少量を
「まぁいい燃えっぷり」
細く立ちのぼる煙を見上げ、フィリシアは満足げに微笑む。
火の勢いが強いため、有害な煙は少量ですんでいた。エディウスが見たらさぞ嘆くことだろう。
フィリシアは次々と小袋を炎の中に放り込む。国王がわざわざ取り寄せてまで買うクカの葉は、たぶん店に陳列してあったどの種類よりも希少で高価なものに違いない。しかし、相変わらずそんなことはおかまいなしといった様子で、フィリシアは最後の一個まで遠慮なく火の中へ投げ込んだ。
パンパンと手をはたくと、大きく息をつく。
「――
後方で音がしたと思ったら、そんなおかしな問いかけがあった。
「のろし？」
フィリシアは首を傾げ、逆に問いかけながら振り返った。
「そう、狼煙。ほら、戦争とかなんかがあったときに、合図として火をたいて煙おこすっていうヤツ」
よいしょっという掛け声とともに枝をかきわけ、
「違う違う。ちょっとゴミを……」
微かに漂う甘い香りに狼狽えて、フィリシアはアーサーに駆け寄り、その体をもう一度森の奥へと押し返した。
「なに焼いてるの？」
「――こ、高価なゴミっ」
「ふぅん？」
フィリシアにぐいぐい押されつつも、アーサーは物珍しそうに燃えているその場所を見ている。
あそこにあるのは大量のクカの葉。たとえ相手が誰であろうとも、気付かれるわけにはいかない。
（国王がクカ常用者だなんて知られたら大問題じゃない！！）
貴族の間では人気のある麻薬だとマーサが言っていた。おそらく使ったことのある人間もそれなりに多いのだろう。しかし、貴族が愛用しているのと国王が常用しているのとではわけが違う。
一国の王なのだ。
彼の後ろには、多くの国民の未来がある。彼の両肩には国民の命が乗っているのだ。
王が堕落すれば、国が乱れる。
国が乱れることがどれほどの悲劇を生むのか、そのぐらいのことは知っている。そして国が乱れれば、国王であるエディウスも決して無事ではすまされないということも、簡単に予想できた。
知られるわけにはいかない。
フィリシアは強引にアーサーを燃えるクカから遠ざけようと、なおもその背を押した。
「そんなに押さないでよ、危ないだろ」
アーサーが諦めたように歩き出す。
そして二、三歩進んでフィリシアを見た。
「そうだ、ちょっといい？」
アーサーはフィリシアの手をとった。珍しい行動に驚くと、彼は瞳を細める。
「アーサー？」
「すぐだよ」
くすくすと笑ってアーサーが森の奥へと歩き出す。深い緑。永遠に続くのではないかと錯覚してしまう、大森林。
さまざまな香りが微妙に交じり合い、鳥の鳴き声が木霊する。フィリシアの目の前には手付かずの自然がありのままの姿を見せている。
どこを歩いても同じ風景に見えがちだが、実際には一つとして同じ場所は存在しない。美しいと感じるよりは、どこか恐ろしく思えてしまうほど圧倒的な森。
フィリシアが森に入ると言っても、せいぜい城が見える範囲までだ。空を見上げれば木々の間に城が見え、彼女はそれを目印に深入りすることを控えていた。
ゆえに、これほど深い場所まできたことはない。
「アーサーはよく森に来るの？」
「まあね。城のすぐ裏が、もう森じゃないか。時間があれば来てるよ」
（この深すぎる森にたった一人で？）
なぜかゾクリとした。
「いつも会いに来てるんだ」
くすくすと笑っている。誰に、と訊こうとしたが、言葉が出なかった。
問うよりも先に、アーサーがフィリシアを少し
その空間だけ、異様に明るかった。
木々がまるで何かを避けるかのように生えている。奇妙な――不気味な静寂。
拓けたと言ってもそんなに広い場所ではない。しかし、木々が多いこの森の中では異様とも思える広さだった。
「ほら、あそこ」
アーサーが指差したその先には、墓標が二つ。
なにも記されていない、誰のものとも知れない墓があった。目印程度の石が置いてあるだけと言ってもいい――それなのに、フィリシアはそれが墓標であるととっさに思った。
「あれ、オレとキミのお墓」
にっこりと。
不自然なほどにっこりとアーサーが笑った。口元は笑っているのに瞳は笑っていない、何かがズレてしまった様な、そんな笑い方だった。
「なに……言ってるの……？」
自分がひどく狼狽えているのがわかる。先刻クカを燃やしている現場を見られたとき以上に動揺していた。
自分の墓があるはずがない。当たり前のことだ。まだ生きているのだから、そんなものは必要ない。
必要ないはずだ。
「掘れば遺体が出てくるよ――？」
アーサーはささやいた。見慣れない顔で。ひどく陰惨な微笑で。
「じょ、冗談はやめて」
絞り出すようなフィリシアの声に、アーサーが目を見開く。フィリシアの体が小刻みに震えている。
アーサーは彼女が真っ青になっていることに気付き、肩をすくめた。
「ん、冗談。バレた？」
ふっと口元だけで微笑んで、少しおどけたように小首を傾げる。瞳から陰惨な光が消えたのを見て、フィリシアは二歩後退し、ぶつかった大木に背をあずけて大きく深呼吸した。
「や、やめてよ。そういうの、シャレにならない」
エディウスにも殺されたことになっているのだ。これで自分の墓があった日には、本当に立ち直れない。
「ごめんね、ちょっと驚かそうと思って。――大丈夫？ 真っ青」
そう言って覗き込んできたアーサーは本当に心配そうな表情だった。いつもの彼に戻ったことに安堵したフィリシアの体から力が抜ける。
「呼吸できる？」
「大丈夫……」
あえぐように言って、フィリシアは胸に手を当てて大きく息を吸った。情けない話、ここに連れてこられた瞬間からかなり息が浅くなっていたらしい。
しばらく呼吸も忘れていた。
「タチ悪いわよ？」
涙目でギッと睨みつけると、アーサーはごめんと小さく謝った。彼らしくない悪戯だ。そういえば、失踪前も悪戯好きで手に負えなかったという話を聞いていた。確かにこの類の冗談を平気で言うのであれば、悪質と思われても仕方がないのかもしれない。
大きく何度か呼吸してフィリシアが顔を上げると、遠くからなにやら聞き覚えのある声がした。
「フィリシアぁ！！」
呼ばれたフィリシアは、天敵が現れたとでもいうように素早く辺りを見渡して、木々に埋もれるように走ってくる男を発見する。
泣き黒子の自称恋人の吟遊詩人、セルファ・シルスターである。彼は米粒のように小さかった。
「――ちっ いい目してるわね」
大きく手をふっているが――どこか焦っているようにも見える。背の低い木を踏みつけ、飛び出た枝をへし折り、番犬のごとき忠実さでまっすぐにフィリシアに向かって走ってきている。
「待て、この不届き者め――！！」
距離はまだかなりある。米粒は確実に大きくなってきてはいるが、まだまだ充分距離はある。それなのに、続くその怒声は、セルファのそれよりもはっきりとフィリシアの耳に届いた。
声の主は確認するまでもなかった。
国王直属の親衛隊総長、ガイゼ・アクス。
セルファがなにかをやらかしたのだろう。なにか、とんでもないことを。なにせセルファの後方から走ってくるガイゼは、剣を振り回してまわりにある背の低い木を次々と斬り倒して進んできているのだから。
赤黒く変色した顔が、彼の怒りのほどをまざまざと伝えている。
「わぁ、ケモノ道の完成だぁ」
アーサーが間の抜けた声で驚いている。
確かに獣道だ。いまのガイゼは、人と呼ぶにはあまりに理性が欠落しているように見える。斧を持たせたら巨木さえ一振りで倒してしまいそうな迫力だ。
「フィリシア、逃げたほうがいいよ」
明後日のほうを指差し、アーサーが微笑んだ。
「わかってる！！」
ばっと走り出したフィリシアに、
「転ぶなよ！」
と、取ってつけたように声をかけた。
「あぁフィリシア！？ ひどいよ愛しい恋人よ！！」
フィリシアが走り出したのを見てセルファも走る方向を修正した。ずいぶんおかしな追いかけっこに、
「貴様、フィリシア様に媚びるか！？ その根性も許せん！！」
続いてガイゼまでもが方向を修正して走り出す始末。
「いやぁ、楽しそうだなぁ」
三人の珍妙な追いかけっこを見ながら、アーサーがぬるく笑っている。一人は確実に命懸けの人間が入っているが、まぁたいした問題ではないだろう。
アーサーはしばらく三人の姿を目で追って、ゆっくりとその視線を拓けた空間の中央へと戻した。
冷たい風が不意に森を駆けぬけ、彼の顔から表情を奪う。その瞳は再び深い闇の色で埋め尽くされた。
名さえ刻まれることのない墓標。人の訪れることのない場所。
まるで時間さえ失われたかのようにひっそりと静寂をまとうその空間は、どこか清華でさえあった。
「冗談じゃ、ないんだけどね……」
二つ並んだ墓標を見つめ、アーサーは悲しげにつぶやいた。