【八】

 芳香がきつくなる。脳の奥を痺れさせる甘い香りは視界をわずかに白く濁らせた。こうのように焚かれたそれは、部屋の隅々まで行きわたっているようだ。
 フィリシアは断りもなく、王の寝所へ足を踏み入れた。
 窓には分厚いカーテンがひかれている。薄暗い部屋に充満するのが死を誘う狂気の源だと知ったフィリシアは、素早く室内を見渡した。
 調度品が驚くほど少ない。本当にここに人がいるのかと疑ってしまうほど生活感に欠けた広すぎる部屋の中央には、金に糸目をつけることなく作られたずいぶん悪趣味な天蓋つきの大きな金製のベッドがあり、そこには広大な森と動物たちが描かれている。部屋を飾る装飾品は花瓶や絵画ばかりで調度品は見当たらず、眠るためだけに用意された場所なのだと予想できた。
「誰だ……?」
 柔らかい光沢のある薄布の向こう側で、影がわずかに身じろぐ。
 フィリシアはその気だるげな声に答えずに、息を止めたままいきなり窓に向かった。
 乱暴にカーテンを開けると窓を全開にする。澄んだ風が深緑の匂いを運んできた。フィリシアはそのまま隣の窓も開ける。
 窓がいくつあるのか数えるのも面倒になるぐらい、部屋は広かった。
 その部屋で、王はたった一人、香をくゆらせていた。
 代償を――おそらくは、その代償を知っているはずだ。アーサーの母親がどうなったかを、彼はこの城で見ていたはずだから。
「――フィリシア?」
 戸惑ったような声がベッドから聞こえた。
 露台バルコニーに続く窓を全開にした時点で、フィリシアは大きく息をつく。
「何をしている?」
 エディウスの問いに、少女は頬を引きつらせる。
「なにをしている、ですって?」
 厳しい口調で反芻し、匂いの元となる陶器の香炉を乱暴に床へ叩き落とすと、香炉はあっけなく大破して灰を床にまき散らす。
 フィリシアはベッドまで大股で歩き、手触りのいい布を一気に引き破いた。それがいかに高価であるかなど、彼女には関係ないことだった。
「それはこっちの質問よ。一国の王が何をしているの?」
「――香を」
 ベッドに腰掛けたまま、エディウスはフィリシアを見上げた。
「とぼけないで。クカはそんな生易しいもんじゃない」
 呆けたようにフィリシアを見つめ、ふっとエディウスが口元をゆるめた。
「これぐらいは平気だ。大事無い」
「これぐらい?」
 体臭のようにしみこむ香りのどこがこれぐらいと言うのだろう。自分がどんな状態であるかもわからないのに、なぜそう言い切るのだろう。
「私を見なさい、エディ」
 エディウスの目はフィリシアを映している。まるで鏡のように、彼女の姿を忠実に映している。だがその視線には、なんの意志も感じられなかった。
 フィリシアは片膝をベッドにつき、両手で夢ともうつつとも知れない世界をさまよう男の頬をつつむ。
「私を見なさい」
 焦点のあっていない瞳。常用性は低いとマーサは言った。それは禁断症状がでないという意味なのだろう。だが、本人が望んで使い続ければ――気が、れる。
「なにが平気なの? これのどこが平気だって言うの? そう言いながら人は、取り返しのつかない場所まで堕ちていくのよ」
 身近にそんな人間がいたにもかかわらず、エディウスは同じ過ちを繰り返そうとしている。
「そこまで追い込んだのは、私?」
 その一言で、エディウスの表情がわずかに動く。
「――お前は、誰だ?」
 ささやくように、エディウスは逆に問いかけてきた。
「お前は誰だ? 何故ここにいる? 目的はなんだ?」
 矢継ぎ早の質問にフィリシアは目を見開いた。
 狂うというその状況は、一定の尺度があるわけではない。狂気は心の中に巣食うものなのだ。それそのものは目で見ることはできない。
 狂うという基準は、ひどく曖昧なのだ。
 たとえばアーサーの母親のように、誰もがそれと知れるほど狂う者もいれば、エディウスのように、本人さえ気付かぬうちに心を病む者もいる。
(――そっか)
 フィリシアはようやく納得する。城下町で言った、あの言葉。彼は、過去にフィリシアという娘を殺したと――そう言った。
 狂気が彼に幻覚を見せたのなら、それは辻褄があう。一年前の事件で彼の心のたががはずれてしまっていたのなら、記憶の混乱は今も続いているのだ。
 いや、クカを常用しているならその混乱は悪化しているに違いない。
 だから、ここにいるお前は誰なのだ、という質問になる。幻と現実の境目を失った彼にとって、フィリシアは「死んだ恋人」と判断されているのだから。
 あてにならない記憶を事実だと勘違いしているのなら、目の前のフィリシア≠ニ瓜二つの少女は別の存在となる。しかし、そうと知らない周りはその彼女をフィリシアと呼ぶ。だから余計に、彼は混乱するのだ。
(そうなって当然なんだ。エディウスは、クカを使っている)
 人の心を狂わせる麻薬を。
「私がお前を殺したのだ」
 茫然と少女を見上げながら、エディウスは声を絞り出した。そして怯えるように震える手でフィリシアを抱きしめた。
「私、大切なことを忘れてた」
 美しい銀の髪を手で梳きながら、フィリシアがふわりと微笑む。
「あなたも普通の人間なのよね。完璧なはずない。国王だからって何にも動じないはずないんだよね?」
 だから、クカに手を出した。心の弱さを補うために。
「話を聞かせて。私の記憶が戻ってからでいい、ちゃんと話し合いましょう? たぶん、それが一番大切なこと」
「今更、なにを話す? 私のことを知ったところで、どうなるものでもあるまい。それとも、話し合うのは別のことか? お前がアーサーとともに城を出たこと、そして記憶をなくして帰ってきたことか?」
 淡々とした口調。しかし、見上げる瞳は決して穏やかなものではなかった。
 鼓動が速くなる。エディウスの言葉は毒でできた棘だ。隠すことも誤魔化すこともしていない、これが今まで一度としてフィリシアに向けられたことのない、彼の本心なのだ。
「それとも」
 ふっとフィリシアから体を離す。
「この腹の子のことか?」
 エディウスの手が腹部に添えられる。フィリシアはきゅっと唇を噛んだ。
「全部。――全部話す。だから時間が欲しいの」
 腹部に添えられている手が熱い。絶望とも悲しみともつかないエディウスのその表情が、胸の奥を締めつけてくる。
「もう少し待って。ちゃんと思い出す。だから――」
 それ以上の言葉が見つからなかった。待って欲しいというのは我が儘だ。彼はもう充分待ってくれていた。
 弟と消えた婚約者を、一年間もただ待ち続けてくれていた。
 彼にとっては死んでいた≠ヘずの娘を。
 少し壊れた心を抱えたまま、ずっと待っていたのだ。
「――待たせたぶんだけ、聞かせてもらうぞ」
 声の調子が微妙に変わる。
 うつむきかけた目に、エディウスの表情が飛び込んできた。
 泣きたくなった。
 この人は、本当に――本当にフィリシアという少女を愛していたのだろう。皮肉にゆがめた表情のその奥には、悲しみと同じ分だけの慈愛があふれている。
 国王という立場の人間が婚約者を弟に盗られたと噂されるのは、どれほどの苦痛だったのか。
 そして、ようやく戻ってきた婚約者の姿を見て、彼がどれだけ心を痛めたのか。
 怒りを覚えないはずはない。二度と顔など見たくないとそう罵声を浴びせられても、フィリシアに返す言葉はなかった。
 それなのに彼は許そうとしている。
 すべてを知ったうえで、許そうとしている。紺碧の瞳の優しさがそれをフィリシアに伝えてきた。
 そっとエディウスがフィリシアを抱きしめる。先刻とは微妙に違う仕草。腹部に耳を押し付けるようにして、彼は小さく笑った。
「まだ動かぬのか?」
 責めるのではなくごく自然に、彼はそう問いかけてくる。
「――わかんない。あんまり気にしてなかったし……それどころじゃなかったから」
 歯切れの悪い答えだと思いながら、フィリシアは小さく返した。
 父親は不明。
 もしかしたら、わからないままになってしまうかもしれない。
「ね……私、まだエディウスの婚約者なの?」
 戸惑いながらのフィリシアの質問に、エディウスが視線をあげる。
「破棄されたいのか?」
「う……」
 少し前までは、頷いていたと思う。でも今は頷くことに躊躇いを感じている。自分の中にある彼の位置づけが微妙に変化している気がする。
「ほ――保留」
「同意見だ」
 クスリと彼が笑った。
(あ――)
 城下町で会った銀細工師と今の彼が重なっている。同じ人間なのだ、面影が重なるというのはおかしな表現なのだが――。
「私、いまのエディウス、好きかもしれない」
 思わず本音が漏れると、きょとんとエディウスがフィリシアを見上げた。
「――そうか」
「うん」
 どこか間の抜けたやり取りのあと、フィリシアはようやく自分が何を口走ったのか気付き、ぼっと頬を染めた。
「ご、ごめん! 今の忘れて!」
 いくら無意識だからといっても、婚約破棄云々の会話に続くのが唐突な告白というのは、あまりに節操がなさすぎる。
 エディウスもそのことに気付いたようで、小さく笑っている。
 真っ赤になりながら、フィリシアは唸り声をあげた。
(だって、そう思ったんだもん。す、好きかもって――)
 自覚した瞬間、さらに頬が熱くなった。かも≠ヘ可能性であって、確定ではない。しかし、確実に彼の位置が変化していることに気付かないほど鈍くもない。
「エ――エディウス、笑いすぎ――!!」
 フィリシアが赤面している。それを見てエディウスは、こともあろうにベッドに突っ伏して笑っている。
 デスマスクのように陰鬱な顔ばかりを見せていた大国の王と、何事にも動じることのなかった舞姫。過去に何があったのかはまだわからない。一番よく知っているのだろう当事者に問いただすのは、残酷すぎる。
(思い出すから。必ず、自分の記憶を取り戻すから)
 空白だったすべての時間を取り戻したら、もう一度この人と話がしたい。
 その為に何をしなければいけないかを知っているから、フィリシアは気丈に顔をあげる。
 彼女はそっと男の髪に触れた。
「エディ」
 耳元でささやいて、にっこりと微笑んだ。おそらく彼の目には、かなり嫌な微笑みに映ったに違いない。
 エディウスは心持ち柳眉をしかめた。
「なんだ?」
「クカの葉、出しなさい」
「――……」
 にっこりと微笑んだまま、笑った仕返しだといわんばかりにフィリシアがちょいちょいと人差し指で指図する。
「出しなさい。始末してあげる」
「……あれは高価なものだ」
「知ってるわよ? 出しなさい」
「私にはあまり効かない」
「だから何?」
「……忍んでいくのは大変だったんだ」
「だから?」
 顔面に張り付くのは、恐ろしいほどさわやかな笑顔だった。
「出しなさい」
 エディウスは一瞬視線を宙に彷徨わせ、大きな溜め息をつく。腕をのばしてベッドとマットの間をさぐり、小さな布製の袋を取り出した。
 それをしぶしぶフィリシアに渡す。
「――まだ隠してるでしょ?」
 妙に素直な彼の行動に確信もなくそう微笑むと、今度はベッドと対になっている小さなテーブルの下をさぐってそこから一つ。
(――これは)
 まさかとは思いつつ、満面に笑みを浮かべて催促すると、今度は観賞用に置かれた花瓶の中から一つ。
「エディウス?」
 だんだん笑顔が引きつっていくのがわかる。手を出せば出した回数分だけ、エディウスがいたるところから小袋を出してきた。
 どう見ても壁としか思えない場所にも、小さな隠し扉がいくつかある。床にも平然と収納庫が用意されていて、そこにも小袋があった。
「あ、呆れた!! いくつ持ってるのよ!?」
 両手いっぱいに小袋を抱え込んで、フィリシアは本気で怒っていた。
「これで最後だ」
 ベッドの下からクカの入った小袋を三つ取り出し、残念そうにエディウスが言った。
「こんなにとっとく事ないじゃない!!」
「産地によって匂いが微妙に違う」
「そういう問題じゃない――!!」
 憤慨するフィリシアに、エディウスが溜め息をつく。
「で、それをどうする?」
「燃やす」
「――もったいない」
「火をつけてくるから、なんかよこしなさい」
 国王様に顎で命令を下して、舞姫はにっこり笑った。
「明日は香炉を割りに来るから、用意しておいてね?」
「――献上品だぞ。さっきのものだって、香炉の中では一級品だ」
 困惑してエディウスがちらりと床に目をやる。砕けた香炉にはあの優美だった頃の面影はない。
 しかしもちろん、フィリシアにはそんな些細なことはどうでもよかった。
「用意しておきなさい。全部割るから」
 引く気などさらさらないフィリシアが弾ける笑顔ですっぱりと命令すると、一瞬言葉に詰まったエディウスはあきらめたように頷いた。
 この時、フィリシアは知るよしもなかった。
 過去にエディウスが狂気に囚われた事がなかったというその事実を。確かに言葉では言い表せないほどの絶望で心がこごることは何度もあった。
 しかし、彼はただの一度も己を見失ったことなどなかったのだ。
 過去にフィリシア≠殺した、その瞬間でさえ。

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