【七】
今まで一度もエディウスの部屋を訪れたことはない。
きちんと話したのは、城下町での一度きりだ。婚約者であるはずなのに、彼は一度としてフィリシアに会いに来ることはなく、そして彼女も、彼に会うことを――恐れていた。
はっきりと何を恐れていたのかはわからない。ただ、一番話を訊かなければならないはずの婚約者≠ノ、フィリシアはあえて会いに行こうとはしなかった。
そして、お互いがお互いを避け、不自然に時間だけが流れていったのだ。
「王はどこ!?」
謁見用の大広間に走りこむなり、フィリシアは大声を張り上げた。
ぐるりと見渡す。いつもは忙しく使者が訪れるその場所は、今日に限って誰もいない。広すぎるその部屋は天井が他のどこよりも高く作られ、フィリシアの声はむなしく響くだけだった。
フィリシアがきりっと唇を噛む。
踵を返した瞬間、
「フィリシア様?」
聞き馴染んだ声が不思議そうにかけられる。
白衣を着た老医師が一人、大きな石柱の影からひょこりと姿を現す。
「オルグ先生!!」
駆け寄るとオルグは驚いてフィリシアを凝視した。
「どうされたのですか?」
「ど――どうも、こうも……!」
言いかけて、フィリシアは押し黙った。
国王がクカを使用していることを、彼は知っているのだろうか。人の心を狂わせるものであるのなら、医者として、彼はエディウスを止めているだろう。
彼がクカを買い続けているのなら、おそらくオルグはなにも知らない――。
(知らないのなら、知らせないほうがいい)
瞬時にそう判断してフィリシアは無理に笑顔を作った。
「王を捜してるの。今どこにいるか知らない?」
「エディウス様を? ……この時間でしたら、寝所でお休みになられているでしょう。あと一時間もすれば、会議が始まりますので」
「そ、そう。ありがとう!」
フィリシアは謁見の間を飛び出した。
その姿を見つめ、オルグは溜め息をつく。
「どこで狂ってしまったのでしょうな……」
そう言って、彼はフィリシアの出て行ったドアから視線をはずし、石柱に向かって
「今しばらくお待ちください。準備はとどこおりなく……」
「任せる」
低い声が、石柱の影から静かに応じた。
感情を押し殺したような低い声。それは、バルトの持つ闇そのもののように暗くよどんでいた。
声の主はそのままゆっくりと立ち去ろうとしている。
オルグは顔を上げようとこころみて――やめた。
すさまじいまでの殺意が、老医師を呑み込んでいた。悲壮とも思える憎悪。その何たるかを彼はまだ計りきれずにいた。
――同時刻。
フィリシアはドレスと大格闘していた。
ドレスの裾が足に絡んでうまく走れない。苛立ってたくし上げると、周りにいた者たちがぎょっとしてフィリシアを見た。
「王の部屋は!?」
近くにいた男はフィリシアの姿に唖然としていた。白く長い足に目が釘付けになっている。機能を無視して以前より肉付きがよくなった体は、全身がバネのようだった一年前に比べると恐ろしくなまめかしかった。
「――ちょっと」
ぼうっとなって無意識にフィリシアの太股に吸い寄せられた男の顔は、白い膝で思いきり上向きに修正された。
「サカってんじゃないわよ」
殺気さえ感じる声で単刀直入に文句をつけ、フィリシアが男を
「顎が砕かれたくなかったら案内しなさい」
「は――はひ」
ようやく自分が何をしようとしたのかに気付き、男は青ざめたままコクコクと小さく頷いた。
フィリシアは小突くように男を走らせ、城の二階へと上がる。今まで一度も足を踏み入れたことのない未知の場所――城は、迷路さながらに入り組んでいた。
フィリシアは幸い、奥まっていても非常にわかりやすい部屋を与えられていた。療養中だったしあまり必要ではなかったから情報収集以外に城内を積極的に歩き回ることも少なかったが、城下町で見たとおり、この城の規模は半端ではない。
「フィリシア様……」
いくつか廊下を曲がったあと、男がちらりとフィリシアを見る。もう案内は必要ないだろうとでも言いたげな表情だった。
フィリシアは前方を見る。
長く続く廊下には、真っ赤な絨毯が敷きつめてある。光沢のある、いくぶん毛足の長い絨毯には汚れひとつない。手入れの行き届いたそれは、ずいぶんと値のはるものだろう。
フィリシアは一歩足を踏み出す。
「いいわ、さがって。――ありがとう」
男は頷き、慌てたように脇目もふらずにその場を立ち去った。
(王の寝所、か)
ごくりと唾を飲み込んだ。
(な――なんか緊張する)
唇を噛んで、フィリシアは平静を装って歩き出す。なぜだろう――どこか薄暗い。王の部屋の近くであるというのに、この息苦しさはなんだろう。
焦る心とは裏腹に足が重い。何度も立ち止まって引き返そうとする自分に苛立ちを覚える。
心臓が大きく跳ねた。さっきは勢いで部屋を飛び出した。なにも考えることなく、そうすることが当然のようにここまで来た。
(クカを使っているなら止めなきゃ――でも)
(でも)
自分にその権利があるのか。
麻薬に溺れているということは、そうなる理由があるということだ。その原因の一端を担っているのはおそらく一年前の自分。
失踪する前のフィリシア、記憶のあったころの舞姫だ。
(でもそれは、いまの私じゃない)
記憶もなく、誰の子とも知れない胎児を宿した自分ではない。
自分とフィリシアの共通点など、所詮はよく似た容姿というだけなのではないのか。
少女は立ち止まる。
(なら、どうして私はここにいるの?)
見つめる先には、二人の男が立っている。仁王立ちしたまま、無表情にフィリシアを見ている。国王直属の親衛隊総長ガイゼ・アクスと同じ鮮やかな青い布地を基調とした服。主要部を守るようにつけられた鎧の形状から推察するに、彼らも親衛隊に所属する人間なのだろう。
「ここより先は立ち入り禁止となっております。お引取りを」
フィリシアを認めた男の一人が、丁寧だが有無を言わさぬ口調で告げる。
「立ち入り禁止?」
フィリシアは瞳を細める。どこからか、わずかに漂ってくる芳香。
毒を含む甘い香り。
ここの警備にあたっている彼らが、それが何であるかを知らないはずはない。緊張になにか別の感情が混じるのを感じながら彼女は鋭く男を見つめた。
「――お前たち、なぜ気付かないフリをするの? 君主の狂う姿がそんなにも見たい?」
「な――」
二人の男は、一瞬息をのんだ。厳しい警戒の色が崩れ、狼狽えたようにお互いの顔を見合わせて視線をフィリシアに戻す。
「何をおっしゃっているのです?」
声がわずかに上ずり、槍を持つ手に力が込められる。無言のまま見つめていると、手にしていた槍が動揺を示すように小刻みに揺れていた。
フィリシアは一瞬だけ瞳を伏せた。
「親衛隊ともあろうものが、なぜ目をそらすの? これは親衛隊の総意? お前たちの判断? 総意であるのなら、ガイゼを呼びなさい」
きついフィリシアの言葉に男は一瞬言葉を失った。たかが小娘と、彼らはフィリシアを甘く見ていた。確かに一年前のフィリシアは、恐ろしく胆の据わった少女だった。しかし今の彼女にはその記憶がない。
強気に出れば、引き返すだろう――。
彼らは、そう思っていた。
この娘は村娘と大差ない。夜会での失態は有名で、それゆえに彼女と舞姫は切り離して考えられていた。
「答えなさい。親衛隊の総意?」
しかし、そうではなかった。静かに事実だけを問うその口調は、今までこの国を訪れたどんな高貴な娘たちよりも堂に入っていた。
言葉を探していた男たちは少女に気圧されてひざまずいた。
ここにいるのは、記憶喪失の娘ではない。いま自分たちの目の前にいるのは、未来のバルト国王妃なのだ。初めてそう思った。
「我々の意志です」
青ざめながら、男は答えた。
「そう。――さがりなさい」
「しかし」
「さがりなさい。しばらくは誰も近づけないで」
「はっ」
ひざまずいたまま深く頭をさげ、二人の親衛隊隊員は小走りにその場を立ち去った。
その後ろ姿を横目で見つめ、フィリシアはようやく大きく豪奢なドアに視線を向ける。
甘い匂い。
心を少し楽にする代わりに、大切なものを確実に削り取っていく麻薬。
「放っておけないじゃない。婚約者だとかそんなことじゃなくて」
フィリシアは歩き出した。
好きかどうかなんてわからない。
ただ城下町で見たあの姿が忘れられない。美しい紺碧の瞳の、穏やかな銀細工師。
薄汚れた小さな酒場で出された料理に舌鼓を打つ、そんなごくありふれた人。
フィリシアのためだけに小さな空間を作ってくれた人――。
「私は、あの人にもう一度会いたいのよ」
フィリシアは優美な装飾のされた古い木のドアをゆっくりと押し開けた。