【六】

 フィリシアはセルファが出て行ったドアをじっと見つめていた。
 否定はできない。でも、肯定もできない。
 セルファの言葉はあいまいな部分が多い。彼の話を鵜呑みにするなら、結局フィリシアという少女といっしょに旅をしていただけということになる。
 恋人同士だと言い切ってもいた。
 しかし、それを証明するものは何一つない。
 うまく誤魔化してはいるが、彼はフィリシアのことを何一つ語ってはいなかった。話すのを待っていたというのは、口実に過ぎないのではないのか。
「胡散臭い……でも」
 頭から否定もできなくて、フィリシアは溜め息をつく。
「胡散臭いですか?」
 おっとりとマーサは首を傾げた。
「とても真摯に見えましたけれど。恋人の傷が癒えるまで黙って待つだなんて、優しくて素敵な方じゃないですか」
(……そうか、あーゆーのが好みなのか……)
 ほんのりと頬を染める少女にフィリシアが遠い目をする。好みがまったく噛み合わないらしい。
 確かに見た目は悪くない。旅人なのにまったくスレた感じはしないし、どうやらいま流行はやりの服を身につけているらしく、着こなしもうまくて第一印象がいい。
 自称吟遊詩人だけあって、そこらへんは完璧なようにも思う。
 ただ職業柄なのか妙な装身具を身につけているので、よく言えば浮世離れした、悪く言えば遊び慣れた雰囲気があった。
 フィリシアはセルファが座っていた椅子を眺めながら口を開いた。
「マーサ、優しいのと逃げ腰なのとじゃわけが違うの。それに、あの人は大切なことを何も言ってない。あれは誰もが知っていることよ」
「そうですけど……でも……」
 不満げな侍女に、女主人は小さく息を吐く。
「じゃあマーサ、あなたに大好きな、とっても大切な恋人がいたとしたら」
 もじもじしながらマーサがフィリシアの言葉に頷く。フィリシアは言葉をつづけた。
「その人が傷ついていたら、あなたはどうするの?」
「そ――それは……なぐさめます」
「そうよね、心配して慰める。その時あなたは、なにも聞かずにただ相手を慰めるだけ? どうしたの、大丈夫? 私に何かできることはない? そう訊くものじゃないの?」
「……」
「訊かないのは優しさよ。でもそれは上辺だけになりやすい。セルファが本当にフィリシア≠フ恋人なら、彼女を本気で大切に思っていたのなら、時間をかけてでも話を聞いてやるべきだった。私ならそれを望む」
「……触れて欲しくないことは、誰にでもあります」
「そうね」
 フィリシアはマーサを見ながら微笑した。
「けど私は、大切な人が苦しんでいたらその苦しみをわけて欲しいと思うの。傷や痛みを肩代わりすることはできない。でも、いっしょに泣くことはできるでしょう?」
 マーサがうつむく。
「泣くとね、涙の分だけ心が少し軽くなるの。だから私≠ェ、私の大切な人の分も泣いてあげるのよ」
 奇麗事だとわかっている。それは自分の持つ理想論だ。だが、やはり大切な人と同じ場所に立ちたいとフィリシアは思う。
 泣けないほど苦しいなら、自分が代わりに泣いてあげたいのだと――。
 そう、傲慢にも望んでしまう。
「フィリシア様……」
「ん?」
 ぱっとあげたマーサの顔は紅潮していた。胸の前できゅっと握られた小さな手はプルプル揺れている。
 てっきりうつむいているから、考え込んでいるか納得していないとばかり思っていたのだが、どうもそうではないらしい。
「なんかいい女って感じです!!」
「や、その表現は違うと……」
 どちらかというなら我が儘な女だ。相手のすべてを欲しいと願う、そんな強欲さが自分の中には確かに眠っている。
 マーサに尊敬の眼差しで見られるのは少し居心地が悪かった。
「ものすごく恋愛慣れしてるみたいです!!」
「いや、そういうわけじゃなくて」
 いまは記憶すらないフィリシアは、輝く瞳がまぶしすぎて視線を逸らした。しかしマーサはそれに気付くことなくずいっと顔を寄せて言葉を重ねた。
「私、口説かれたみたいです!!」
「だ、だいぶ違うかな……?」
 なんでそんなほうに話がいっているのだろうと、フィリシアは頬を染めたマーサを見つめて本気で首を傾げた。
「私もいい女になります!!」
「ガンバレー……って、マーサ! 私と一つしか違わないじゃないの」
 あれっと、今度はマーサが首を傾げる。
「そうでした!」
 ペロンと舌を出しておどけ、それからまっすぐフィリシアの瞳をのぞきこむ。いつもの明るい表情ではなく、少しだけ緊張した様子だった。
「セルファ様のことは、ちょっと保留ですね?」
「そうね。現時点では判断できない。ただの大法螺吹おおぼらふきなのか、見たまんま真摯な吟遊詩人なのか」
 マーサは頷いてフィリシアの部屋にある洗い物を抱え込んだ。シーツや服のほかにさまざまな大きさの布が混じっていて、歩くたびに彼女はぽろぽろとそれを落としていく。
 フィリシアは苦笑してその姿を目で追い、その途中で見慣れた生地に目をとめて慌てて立ち上がった。
 洗い物の中には、いつ返そうか悩んでいたエディウス王の母のドレスも混じっていた。
「待って!」
 部屋から出て行こうとするマーサを呼び止めて、フィリシアは駆け寄るなりたっぷりとした生地でつくられたドレスを探った。
「なんですか?」
「あぁ……いや、ちょっともらい物を」
「どなたからの?」
「……通りすがりの旅人から」
「はぁ」
 丁寧に紙でくるまれている装身具は、露店でエディウスがフィリシアのために選んだものだ。しかしなんとなく言いにくくて、あいまいな返答になってしまう。
 夜会用と言われたそれらは、実際に選んだ衣装とはまったく似合わず結局身につけることはなかった。それどころか、よほどいま着ているドレスに似合いそうだ。明るい空色のドレスは、フィリシアの体のことを考え、ずいぶんと楽な作りになっている。しかし、華やかさを失っているわけではない。
 フィリシアは手早く装身具を出し、次々と身につけていく。
 すべてをつけ終わり紙を丸めようとしたとき、そこに干からびた葉っぱが付いていることに気付いた。
 ドキリとする。
 大通りの裏側、バルトの闇の部分。
 この葉は、エディウスに連れていかれた薄暗い部屋でとっさに掴んでしまったもの。甘く濁る、ひどく危険な香りのする店に置かれていた商品=B
 そして同時に、エディウスがまとう芳香でもあった。
「ね、ねぇマーサ」
 鼓動が速くなる。
 いつの間にか、喉が渇いている。
「クカって、知ってる?」
「クカ?」
「葉っぱの――」
 マーサが息をのんだ。
「フィリシア様、いけません」
「え?」
「クカは、人の心を壊す麻薬です。常用性の低い、高価で貴族たちにも評判の麻薬ですが、それは人の心を狂わせます」
(え――?)
 茫然と、フィリシアはマーサを見た。少女はきつい目でフィリシアを見つめ返している。まるで口にすることさえ拒絶しているような彼女の態度に、フィリシアはただ事ではないと悟った。
(だって、エディウスはそれを――)
 頭が殴られたような衝撃に言葉を失うフィリシアに、マーサは怖いくらい真剣な表情で訴えてきた。
「アーサー様のお母上、ウェスタリア様はそれで気がれたのです」
(でも、だって、エディウスはそれを買っていたのよ……?)
 まるで常連客のようにひどく慣れた様子で、彼はクカを買っていた。
 きっとずいぶん昔からそれを買うため城下におりていたに違いない。人ごみを難なく渡り歩けるほどに。
(そんな……)
 彼は心を病んでいた。
 あの二面性がなんであるかを知った瞬間、フィリシアは部屋を飛び出していた。

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