【五】

 胡散臭い男がもう一人増えた。
 フィリシアは本気でそう思いながら、目の前でにこにこ微笑んでいる男を見る。
 初めて見る恋人≠ヘこれ以上ないほどどこにでも転がっていそうな旅人だった。
「会いたかったよーフィリシア。問所に連行させるなんてひどいじゃないかぁ」
 ひどい以前の問題なのだが、自称フィリシアの恋人――セルファは寛大なのかとぼけているのか、まったく怒った様子もなく笑みを浮かべている。
「私、あなたのコト知らないんだけど?」
「迎えに来るのが遅いから怒ってるの? だって君、急にいなくなっちゃったじゃないか。捜すの大変だったんだよ?」
「本当に知らないんだけど」
 問所から解放されたセルファは、こともあろうに国王直属の親衛隊総長のガイゼに城まで送らせた。
 そして今はフィリシアの部屋の豪奢な椅子にどっしりと座っている。どこにでもいそうな旅人なのに、独特の貫禄がある。物怖ものおじしないその性格が、彼を大きく見せているのかもしれない。
「意地悪だな、フィリシアは」
「――噂、聞いてないの?」
「ああ、僕の赤ちゃん!!」
 パッと瞳を輝かせるセルファに、面とむかって言われることにいまだに慣れないフィリシアが赤面した。
「露骨に言ってんじゃないわよ!! なんであんたの子供になるのよ!?」
「えーだって恋人じゃないか」
「知らないって言ってるでしょ!?」
 フィリシアの怒鳴り声にセルファはきょとんとし、同室していた侍女のマーサは驚いて体をこわばらせる。
「私が言ってるのは、記憶がないって話のほうよ!!」
「ああ、町の人がそう言ってたな。え――まさか、僕のことも忘れちゃったの!?」
 自分のことは覚えているとでも思ったのか、だいぶ鈍いらしいセルファは目を見開いた。
「覚えてるわけないでしょ!」
「そんなぁ……愛する人のことぐらい覚えておいてよ」
 涙目になって悲痛な声で懇願され、フィリシアは露骨に身を引いた。
「誰が愛してるって!?」
「もぅ、恥ずかしがり屋サン」
 頬を赤らめるセルファを見て悪寒が走った。この男――かなりイっているらしい。
 頭を強打したか、さもなくば何かよくないものでも食べたのではないかというほどの発想と行動に、フィリシアは眩暈さえ覚えて顔を引きつらせた。
「たぶん恋人じゃないわよ」
 がっくりと項垂れフィリシアはそう返す。生理的に合わない。いくら記憶がなくても、そのぐらいはわかった。
「きっと人違い。他を捜してちょうだい」
 ひらひら手をふると、大きくて少し荒れた手がすかさずがっちりと掴んで、鬱陶しいほどの真摯な眼差しが近づいてくる。
「なに言っているんだ、恋人を見間違うはずないよ! 君はフィリシアなんだろう?」
「――わからない。そうかもしれないし、違うかもしれない」
「フィリシアだよ。女神の名≠名乗る女は、君以外に考えられないよ」
「女神?」
 セルファが言わんとする意味がよくわからないフィリシアは、いぶかしんで彼を見つめた。記憶を取り戻す方法やきっかけが一切ない手探りの状態では思うようにことが進まず、フィリシアはつねに不安と焦りの中で生活している。その中で彼の言葉は思わず訊きかえしてしまうほど意外で、真新しいものだった。
「なんのことよ」
 わずかに興味を持ったフィリシアに、男は心の中で邪悪に微笑む。
 さぁ、喰いついてこい。鍵を持つ少女よ――。
 優しげな笑みの下で、彼はささやく。もったいぶるように言葉を濁し、焦れた彼女を見ながらようやく語る。
「フィリシア≠ヘ、僕の生まれ故郷でまつられている女神の名だよ。豊作の女神。神話の中で誰よりも祭りを愛する神――歌と踊りの女神、舞姫とも呼ばれる」
「舞姫」
「九歳の君がたった一人で初めて舞った場所なんだよ、僕の村は。君はそこで、女神の名を手に入れたんだ」
 セルファの言葉を茫然と聞き、フィリシアは慌てたようにマーサを振り返る。彼女はフィリシアに少し首を傾げてみせた。
「疑ってるの? まぁいいけど」
 セルファは小さく笑った。
「それなら、そうだな」
 男は少し考えて、
「鍵を持っているだろう?」
 そうフィリシアに問いかけた。
 ピクンと少女の肩が揺れる。微かな動揺――しかし、セルファにはそれで充分だった。
 ほら、喰いついた。
 人のよさそうな笑顔の奥にいびつで醜悪な笑顔を忍ばせて、セルファは言葉を続けた。
「僕が贈ったものだよ。二つの異なる鍵を鎖でつないだもの。一つには赤い石がはまってるヤツ」
「それ」
 こくりと少女が息を呑む。フィリシアは普段、その首飾りをつけて出歩いたりはしない。なるべく人目から――自分の目にも届かないような場所においておく。仮につけたとしても、決して人目に晒さないように隠していた。
 初めて会ったのなら、この男がそれを知っているはずはない。
「それ、持ってる」
「ほら、じゃあ君は僕のフィリシアだ。僕の恋人だよ」
「ま――待って」
「鍵、見せてよ」
「ダメ……」
 あえぐように言って、フィリシアは頭をふる。
「どうして? 僕があげたものじゃないか。君が欲しがったから」
「私が欲しがった?」
 あんなに不快な思いをさせるものを自分から?
(そんなはずない。絶対に)
 しかし、目の前の男の言葉を強く否定できるほどの自信もない。フィリシアはにっこりと微笑む男をきつく睨みつける。
「あれは、誰の目にも触れてはいけないの。誰の手にも」
「……そう。ねぇ君、本当に記憶がないの?」
「え?」
「だって、前にもそう言ったよ?」
「――え?」
 セルファの言葉に、なにか引っかかるものを感じてフィリシアは彼を凝視した。
「目にも手にも触れてはいけないもの。り人の鍵だとね」
「守り人?」
 忠実に反芻するフィリシアに、セルファは苦笑した。
「参ったな。君、本当に覚えてないの? それとも、忘れたフリしてるだけ?」
 困惑しているフィリシアに、セルファは溜め息をつく。
「いいよ、今度ゆっくり話し合おう。あのガイゼとかいうオッサンに部屋頼んでおいたから、僕もしばらくここにいさせてもらうよ」
 よっと声をかけながら立ち上がったセルファは、呆気に取られてしまいそうなほど颯爽とドアに向かった。
「ま、待って!!」
 少女の声に、男が立ち止まる。
「私とあなたの出会いは?」
 極力感情を出さないようにしているだろう声を聞いて、セルファは少女に背を向けたままニヤリと笑った。
「一年前、君が僕の前に現れた」
 ドアノブに手を伸ばし、セルファは続ける。
「突然の再会に驚いた僕に、君はなにも言わなかった。ただあてどもなく旅を続ける僕のあとについてまわっていただけだよ。僕も君にはなにも聞かなかった」
「――どうして?」
 フィリシアの問いに、セルファはゆっくりと振り返る。
「なにがあったかは知らないけど、君はひどく傷ついてたから。だから、僕は君が話してくれるのを待つしかなかったんだよ」
「……」
「君の過去なんてたいした問題じゃないと思っていた。僕は、いまの君を愛しているから」
 そこまで言って、男は苦笑した。
「でも、君が突然消えて、天罰だと思った。僕は君が話してくれるのを待っていたんじゃない。君の過去を恐れ、嫉妬してただけなんだ。それがわかったから――だからもう一度やり直そうと思って、君を捜したんだよ」
 男は寂しそうにそう言って、ドアを開けた。
「でもね」
 閉じたドアの向こう側で、男は低く嘲笑する。
「そんなのは全部作り話。けど、記憶のない君には、それが真実とおなじ重みになる。君にとっての真実なんて、いくつでも用意できる」
 闇の内側でのみ語り継がれる至宝は、手を伸ばせばすぐに掴み取れる場所に存在していた。

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