【三】
今日はよく晴れている。嫌味なほどの快晴だ。
城下に広がる町は、相変わらず人々の熱気でむせ返るようだろう。
いや、今はきっと国王の婚約者の醜聞で町中が騒いでいるに違いない。えてして他人の不幸は、どの世界のどの場所でも滞りがちな会話の潤滑油となる。
ヒソヒソとささやく声が聞こえてきそうで、フィリシアは人目を避けるように城の裏手に広がる森へむかった。
いつも誰かの視線を感じる。
以前も当然のようについて回っていたそれらは、どちらかというなら警戒や庇護の視線だった。だが今は、それとはまったく違う。
非難の目。
その中にはあからさまな侮蔑の視線さえ混じっている。
(そりゃ私にだって非があるかもしれない)
相手がいなければ成り立たないのだ。それはわかっている。
「だからって、なんにも思い出せない私責めたってしょうがないでしょ!?」
音量は最大限におさえて、しかし腹の底から、フィリシアは叫んでいた。
不安も動揺も、このあんまりな現実にはついてこられないらしい。考えれば考えるほど無性に腹が立って、拳を握りしめる。
そしてようやく、フィリシアは手の中にマーサから奪うように持ってきた鍵があることを思い出した。
「これ、いつから持ってたっけ……?」
もちろん記憶にはない。
だが、エディウスに助けられたときにはもう彼女の手にあったということは、記憶がなくなる前から所持していたことになる 。そして、それを裏付けるようにエディウスも鍵の存在を知っていた。
「大切なもの? それとも、いらないもの?」
とてもよくない物であることには間違いない。
これを見ると胸の奥がざわつく感じがする。あえて視界に入れないようにしていても知らずに確認してしまう。本当は持ち歩くのさえ不快なのだが、あそこに放置してもしものことがあったらと思うと、そのままにしておく気にはなれなかった。
フィリシアはマーサから奪い取った鍵を指でつまんで空にかざし、盛大な溜め息とともに胸の谷間へ押し込んだ。
「最近胸がキツイと思ったら……」
今更ながらに妊娠を思い出し、いっそう憂鬱になった。
「本人が一番驚いてるってオチがどーよって感じね……いっそ悩むのも馬鹿馬鹿しい」
フィリシアは空をあおいだ。
目に痛いほどの深い緑。その奥で、澄んだ空が風に揺れている。
「どうしよう」
近くにある木に背をあずけ、フィリシアは視線を足元に落とした。
悩んだってどうなるものではない。焦っても、解決する問題ではない。
それはわかっている。
今は前に進まなければならない時だ。悲嘆にくれて、大切な時間をつぶしていてはいけない。
それも、わかっている。
「なんか、一人ぼっち……」
そっと腹部に手をやって、フィリシアは深く息を吐く。
「お父さん誰なのかな?」
自分のことなのに。とても大切なことなのに。
今のフィリシアにはそんな単純で当たり前のことさえわからない。
「オレかもよ?」
不意に、優しい声がそう言った。
「え!?」
フィリシアが足元から視線をはずすと、目の前には少年がいた。
柔らかそうな栗色の髪。同じ色の瞳は、いたわるような優しい光を宿してフィリシアを見つめていた。
上質な生地でつくられた簡素な型の服をさりげなく着こなすその姿は、何度見ても王子というより良家の坊ちゃんのようである。
「アーサー……」
「オレかもしれない。父親」
一瞬息をのんだフィリシアに、アーサーはどこかいたずらっぽく微笑んでみせる。
「記憶、戻らないんだろ? だったら、オレかもしれないよ。兄上は公務で国を離れてはいない。オレである確率もある」
「――五ヶ月前の記憶はあるんでしょ?」
「さぁ?」
アーサーが記憶をなくして帰ってきたのが失踪二ヵ月後なら、彼の記憶はそのときから今現在まで途切れていないはずだ。
だが。
(もし、本当だったら? 私とアーサーの間で何かあって、それで――)
それで、子供の父親が本当にアーサーだとしたら。城中に蔓延する噂のように、フィリシアとアーサーが通じ、彼女の記憶がないのをいいことに真実を語ろうとしないでいるのなら、こんなに残酷なことはない。
(エディウス……)
弟に婚約者を寝取られた王は、どんなに惨めな思いをしているだろう。
死相のように張り付くあの陰りは、悲しみか憎しみか、はたまた絶望を意味するものなのか。
「私……っ」
「冗談だよ」
どこか遠くを見るようにアーサーが小さくそう言った。
「冗談。オレの子供ならいいのにって、そう思っただけ」
「思っただけ!?」
「だってオレ、子供好きだもん」
ぱっとフィリシアにむけた瞳は楽しげに細められている。フィリシアは一瞬唖然としてから、からかわれたのに気付き頬を紅潮させた。
「な、なによー!! 本気で驚いたじゃない!」
「父親わからなかったら、オレと結婚しちゃう?」
「冗談!」
「本気だよ」
くすりと笑う。
「そーゆーのもありでしょ。オレ、フィリシアのこと好きだよ?」
「〜〜〜ッ」
唐突に語るアーサーにフィリシアはさらに赤面した。軽く言い流されているが、その告白はとても意味が深い。
一年前に流れた噂の真相はわからないが、その断片がここには確かに存在するのだ。
「普通に幸せに暮らしたいよな。当たり前にいっしょにいたい。そう思うのは、罪だと思う?」
瞳から揶揄するような光が消えて口調が変わった。驚きに言葉をつまらせるフィリシアをまっすぐ見つめ返し、柔らかく優しく、アーサーが微笑む。
「アーサー……アーサー、教えて。なにを考えてるの? 未来って、なに?」
フィリシアは思わずそう口にした。アーサーの笑顔が、あまりにも優しすぎるから。まるで何もかも、すべてをあきらめるように微笑むから。
「私の何を許してくれるの?」
その表情が夜会のあとのものと重なって、彼女は彼の真意を訊かずにはいられなかった。
しかし、彼は応えない。ただ微笑んで瞳を伏せ、なにかをやり過ごすように間をあけた。
「――シア。人は、知らないほうが幸せでいられることがある。キミは、なにも思い出さないほうがいい。きっと、何一つ」
「アーサー!」
「運命は残酷だから。人を簡単に狂わせるくらい残酷だから。キミは知らないほうがいい」
「駄目なの! 私、たぶん、いろんな人を――」
「シア。もう終わったことだ」
短く拒絶するようにそう言ったあと、ふとアーサーの表情が引きしまる。
強い風が吹きぬけ、大きく木々の葉を揺らした。葉擦れの音がうるさいほど耳につく。
ざわりと間近で大気が揺れた直後、アーサーの前に闇が現れた。しなやかに身をかがめたシャドーは一瞬だけフィリシアに視線をやって体のむきを変えた。
瞬時に張り詰めた空気に反応し、フィリシアは無意識のうちに服の上から短剣の場所を確認していた。
シャドーはアーサーに視線を流す。
「王子、
言いかけて、体勢を低くする。かまえた手元が鋭く光った。手に持たれているのは剣ではなく針のように細い
「シャドー」
アーサーが疑問を投げかけるために彼の名を呼んだ刹那、
「フィリシア!!」
ひどく間抜けな声が、あたりに木霊した。
えっ。
と、一同がつられたように間抜けな顔をする。深刻な表情だったフィリシアも、鋭い表情のアーサーも、シャドーさえも、滑稽なほど呆気にとられている。
男が一人、背の低い木々を掻き分けながら走ってくる。
「フィリシアー!!」
森の緑に溶け込んでしまいそうな服を身につけた
白い肌に負けないぐらいの白い歯が、この上ないほど爽やかだ。
「フィリシアぁあぁ!!」
男は鳥肌がたつほど鼻にかかった甘い声でフィリシアの名を連呼し、三人の動揺などおかまいなしといった様子で距離をつめてくる。
「……誰!?」
異口同音、寸分の狂いもなく三つの口がそう動いていた。