【二】

「冗談じゃないわよ!! 記憶がないって何度も言ってるでしょ!?」
 朝一番の怒声は、城内を震わせた。
 ここ三日間、王直属の臣下たちは渋面を貼り付けたまま、同じ質問を繰り返すばかりだ。
 その腹の子は、誰の子だ。
 と。
 そんなことはこっちが聞きたい。うら若き女なら、記憶喪失な上に妊娠というこの状況に、悲嘆にくれているはずだった。
 なのにお堅いお偉様は、そんな配慮は欠片も見せず、フィリシアに考える時間さえ与えずに質問攻めだ。
「国王陛下の婚約者ですからねえ……」
 侍女のマーサは、頭から湯気が出そうなほど立腹する女主人を困ったようになだめた。
「そんなにカリカリしてたら、お腹の子にさわります」
「カリカリして当然でしょ!!」
「お気持ちはわかります」
 噛みつかんばかりの勢いにマーサは微苦笑した。
 怒りの治まらないフィリシアは、力任せに手元にあったクッションをベッドに投げつけている。
(なんでこんな事になってんのよ!!)
 自分の記憶もあやふやで、それに深くかかわっているであろう人間もどこかおかしい。だから、これから真相をあばき自分のとるべき行動の指針とするはずだった。
(なのに記憶が戻るどころかこんな事になって)
 オルグ医師が診察を終えたあと、ひどく困惑していたことを思い出す。担当医のくせに、一ヶ月もフィリシアの妊娠に気付けなかった老医師。
 しかし状況が状況なだけに、フィリシアは老医師を責めることもできなかった。
 実際腹部だってそんなに目立ってはいない。
 確かに最近、多少太ってきたという自覚はあったが、ほとんどの時間を怪我の療養にあてていた生活を思えば、さして気にするべき点ではなかったのだ。
 しかもつわりらしい体調の変化もなく、告知されるまでまったく本人が気付いていないという有り様だ。
 それはまさに、青天の霹靂へきれきというべき怪事だった。
「もういや……っ!!」
 一人で悲鳴をあげるフィリシアをちらりと見ながら、マーサは手早く部屋を片付けていく。そして途中で手を止め、
「王の耳にも入っているでしょうに、音沙汰なしですねぇ」
 と、どこかのんびりと首を傾げた。
 フィリシアの肩がぴくりと震える。
 これほど話題になっているなら当然彼の耳にも入っているはずだ。いや、おそらく一番初めに連絡がいっているに違いない。それなのに、まるで無関心なのかなんの反応もない。
 フィリシアの苛々の原因の一端を担っているであろうエディウス王は、公務が忙しいのか、婚約者の醜聞に一切の口を挟んでこなかった。
「いっそ責められたほうがすっきりする!!」
 高価なテーブルに遠慮なく平手を喰らわせ、フィリシアは乱暴に椅子に腰掛けた。
 記憶がないのだから問い詰められても困るのだが、こんな中途半端な状態では息がつまる。本当に気にとめてくれているなら、どういった形にせよ反応があってもいいはずだ。
 フィリシアはエディウスの婚約者で挙式も間近に迫ってきている。そんな中の発覚で、当人から怒りや悲しみをまったく向けられないというのはいったいどういう了見なのか。
「……本当に私、国王の婚約者……?」
 城下町で会った彼はどこか優しい雰囲気で心惹かれるものがあった。あの彼ならば、この状況で婚約者を放置するなどという行為はしないだろう。
 もちろんこんな状況なのだから結婚の話は取りやめになるだろうが、少なくとも、今後に関してなんらかの話し合いの場は用意してくれたに違いない。
(――って、ちょっと、それってまずいかも)
 当面の問題にぶち当たり、フィリシアは眉間に皺をよせる。
 結婚には反対だが、いますぐ破談というのもいただけない。今現在、彼女の生活の糧は何一つないのだ。
 裕福に暮らしたいわけじゃない。
 普通に食べ、雨風しのげる家があればそれで充分だ。働く場所を探すあいだしばらくは苦労するだろうが、一度生活が落ち着けば、一人なら多分なんとかやっていけるだろう。
 そう、妊娠という最大の問題を抱えていなければ、たとえ城から放りだされても一人でなんとかやっていけたはずだ。
 一ヶ月という期間内で、過去を探して婚約を解消させ、そしてもとの生活に戻るのがもっとも理想的であったのだ。
「チッ……しばらく面倒見てもらおうと思ったのに」
 ブツブツ本音を漏らすフィリシアに、マーサは苦笑を禁じえない。彼女にはフィリシアがなにを考えているのか、手に取るようにわかる。
 このうら若き女主人のしたたかさは、どこか微笑ましくもあった。
「王も、そうすぐに出て行けとはおっしゃりませんよ。お心の広い方です。成婚の儀は……さすがに取りやめになるでしょうけども」
 残念そうに言うマーサの言葉にフィリシアの瞳が輝いた。婚儀は取りやめでもしばらく面倒をみてくれるなら、願ったり叶ったりだ。悪いこと続きだが、この話はまだ悪くない。
 この状況で誰の子とも知れない赤ん坊を生んで育てる自信はない。
 今はまったくと言っていいほど自信も自覚もなく、不安ばかりが大きくなっていく。だが、どんなに拒んでも時が来れば生まれてくるのだし、そうなれば、否が応でも現実と向き合わなければならないのだ。
 このまま見ず知らずの土地に行けば、日々に追われて考える間もなく現実に直面する。
 ――きっと、時間を与えられたのだ。
 覚悟を決めるだけの時間を。
「そうよね、こんな状態じゃ――」
 言いかけて、フィリシアがマーサに駆け寄った。
「駄目よ!!」
 反射的に、フィリシアはマーサが手を伸ばした先にある物を奪い取る。一つを取りそこね、それは床の上で硬い音を響かせて小さく跳ねた。
 フィリシアはとっさにそれを拾いあげて驚くマーサから離れる。
 手の内に、かすかに熱を感じた。
 動き出してしまう。
 開いてはいけない扉が。
 使ってはならない鍵の力を借りて。
 あの、悲劇のときを繰り返してしまう――。
「……マーサ……」
 フィリシアは、硬く握りしめていた手をゆっくりと開いていった。
 呆然と立ち尽くしていたマーサに、フィリシアは息を殺して言葉を続けた。
「この鍵は壊れているの」
 手の内には、二つの鍵が乗っていた。
 小さな鍵と、少し大きめの鍵。どちらも感嘆するほどの細やかな装飾がなされていた。職人技といってもいいだろう。清雅なそれは、人の目を奪わずにはいられない気品がにじみ出るような一品であった。
 ただ、どちらもどこか禍禍まがまがしい。
 施された装飾はまったく違う。細部にいたるまで、何一つ同じものはなかった。
 小さな鍵の中央には真っ赤な宝石が埋め込まれている。血を思わせるような真紅の石だ。
 大きめの鍵の中央には、細長い穴が開いていた。意図的に始めから開けられていたようである。
 どのようにして使われたものか、大きめの鍵は、すでに鍵としての機能を果たすことができないほど無残に折れ曲がっていた。
「……本当……腕のいい鍵師を」
「いいの。きっと直せない」
 マーサの言葉をさえぎって、フィリシアは首をふった。
「これ、特別な鍵よ」
 きょとんとするマーサに、フィリシアが小さく続ける。
「思い出せないけど、きっと」
 そう、きっと――。
「とてもよくない物」

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