「冗談じゃないわよ!! 記憶がないって何度も言ってるでしょ!?」
 朝一番の怒声は、城内を震わせた。
 ここ三日間、王直属の家臣たちは渋面を貼り付けたまま、同じ質問を繰り返すばかりだ。
 その腹の子は、誰の子だ。
 と。
 そんなことはこっちが聞きたい。うら若き女なら、記憶喪失な上に妊娠というこの状況に、悲嘆にくれているはずだった。
 なのにお堅いお偉様は、フィリシアに考える時間さえ与えず質問攻めだ。
「国王の婚約者ですからねえ……」
 フィリシア付きの侍女マーサは、困ったように彼女をなだめた。
「そんなにカリカリしてたら、お腹の子にさわります」
「カリカリして当然でしょ!!」
「お気持ちはわかります」
 噛みつかんばかりの勢いにマーサは微苦笑した。
 フィリシアは手元にあったクッションをベッドにバンバン投げつけている。
(なんでこんな事になってんのよ!!)
 自分の記憶もあやふやで、それに深くかかわっているであろう人間もどこかおかしい。だから、これから真相をあばき自分のとるべき行動の指針とするはずだった。
(なのに記憶戻らないのにこんな事になって)
 オルグ医師が診察を終えたあと、ひどく困惑していたことを思い出す。担当医のくせに、一ヶ月もフィリシアの妊娠に気付けなかった老医師。
 しかし状況が状況なだけに、フィリシアは老医師を責めることもできなかった。
 実際腹部だってそんなに目立ってはいない。
 確かに最近、多少太ってきたという自覚はあったが、ほとんどの時間を怪我の療養に当てていた生活を思えば、さして気にするべき点ではなかったのだ。
 しかも悪阻つわりらしい悪阻もなく、告知されるまでまったく本人が気付いていないという有様だ。
 まさに、青天せいてん霹靂へきれき
 神はどこか遠い空に出張中らしい。
「もぉいや〜!!」
 一人で悲鳴をあげるフィリシアをちらりと見ながら、マーサは手早く部屋を片付けていく。そして途中で手を止め、
「王の耳にも入っているでしょうに、音沙汰なしですねぇ」
 と、どこかのんびりと首をかしげた。
 そうなのだ。
 フィリシアのイライラの原因の一端を担っているであろうエディウス王は、公務が忙しいのか、婚約者のスキャンダルに一切の口を挟んでこなかった。
「いっそ責められたほうがすっきりする!!!」
 高価なテーブルに遠慮なく平手を喰らわせ、フィリシアは乱暴に椅子に腰掛けた。
 確かに記憶はないのだが、こんな中途半端な状態では息がつまる。
 問い詰められたら返答のしようがなくとも、せめて何か、リアクションがあってもいいはずだ。
 フィリシアは国王の婚約者。
 当人から怒りや悲しみをまったく向けられないというのはいったいどういう了見なのか。
「……本当に私、国王の婚約者……?」
 城下町で会った彼はどこか優しい雰囲気で、ちょっと心惹かれるものがあった。あの彼ならば、この状況で婚約者を放置するなどという行為はしないだろう。
 少なくとも、今後の事に関して何らかの話し合いの場は用意してくれたに違いない。
 もちろん、こんな状況なのだから、結婚の話は取りやめになるだろうが。
(――って、ちょっと、それってまずいかも)
 当面の問題にぶち当たり、フィリシアは眉間にシワをよせる。
 結婚には反対だが、今すぐ破談というのもいただけない。今現在、彼女の生活の糧は何一つないのだ。
 裕福に暮らしたいわけじゃない。
 普通に食べ、雨風しのげる家があればそれで十分だ。一人でなら、多分何とかなるだろう。
 そう、妊娠という最大の問題を抱えていなければ、たとえ王宮から放りだされても一人で何とかやっていけたはずだ。
 一ヶ月という期間内で、過去を探して婚約を解消させ、そしてもとの生活に戻るのがもっとも理想的であったのだ。
「チッ……しばらく面倒見てもらおうと思ったのに」
 ブツブツ本音を漏らすフィリシアに、マーサは苦笑を禁じえない。フィリシアがなにを考えているのか、手に取るようにわかる。
 そしてこのうら若き女主人のしたたかさは、どこか微笑ましくもあった。
「王も、そうすぐに出て行けとはおっしゃりませんよ。お心の広い方です。婚儀は……さすがに取りやめになるでしょうけども」
 残念そうに言うマーサの言葉に、フィリシアの瞳が輝いた。婚儀は取りやめでもしばらく面倒をみてくれるなら、即王宮を放り出されるよりはるかにましだ。
 悪いこと続きだが、この話はまだ悪くない。
 誰の子とも知れない赤ん坊を生んで育てる自信はない。今はまったくと言っていいほど自信も自覚もない。だが時が来れば生まれてくるのだし、そのときにはかなりの覚悟が必要だろう。
 その時間を、少し与えてもらったと思えばいい。
「そうよね、こんな状態じゃ――」
 言いかけて、フィリシアがマーサに駆け寄った。
「ダメよ!!!」
 反射的に、フィリシアはマーサが手を伸ばした先にある物を奪い取る。
 ジャラリと鎖が重い音をたててフィリシアの指から零れ落ちる。
 手の内に、かすかに熱を感じた。
 動き出してしまう。
 開いてはいけない扉が。
 使ってはならない鍵の力を借りて。
 あの、悲劇のときを繰り返してしまう――。
「……マーサ……」
 フィリシアは、硬く握り締めていた手をゆっくりと開いていった。
 呆然と立ち尽くしていたマーサに、フィリシアが押し殺すような声をかける。
「この鍵は壊れているの」
 手の内には、二つの鍵が乗っていた。
 小さな鍵と、少し大きめの鍵。どちらも感嘆するほどの細やかな装飾がなされていた。職人技といってもいいだろう。清雅なそれは、人の目を奪わずにはいられない気品がにじみ出るような一品であった。
 ただ、どちらもどこか禍々まがまがしい。
 施された装飾は、まったく違う。細部にいたるまで、何一つ同じものはなかった。
 小さな鍵の中央には、真っ赤な宝石が埋め込まれている。血を思わせるような真紅の石だ。
 大きめの鍵の中央には、細長い穴が開いていた。意図的に始めから開けられていたようである。
 どのようにして使われたものか、大きめの鍵は、すでに鍵としての機能を果たすことができないほど無残に折れ曲がっていた。
「……本当……腕のいい鍵師を」
「いいの。きっと直せない」
 マーサの言葉をさえぎって、フィリシアは首をふった。
「これ、特別な鍵よ」
 きょとんとするマーサに、フィリシアが小さく続ける。
「思い出せないけど、きっと」
 そう、きっと――
「とてもよくない物」

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