今日はよく晴れている。嫌味なほどの快晴だ。
 城下に広がる町は、相変わらず人々の熱気でむせ返るようだろう。
 いや、今はきっと国王の婚約者のスキャンダルで町中が騒いでいるに違いない。えてして他人の不幸は、どの世界のどの場所でも滞りがちな会話の潤滑油となる。
 ヒソヒソとささやく声が聞こえてきそうで、フィリシアは人目を避けるように裏庭へむかった。
 いつも誰かの視線を感じる。
 以前も当然のようについて回っていたそれらは、どちらかというなら警戒や庇護の視線だった。だが今は、それとはまったく違う。
 非難の目。
 その中にはあからさまな侮蔑ぶべつの視線さえ混じっている。
(そりゃ私にだって非があるかもしれない)
 相手がいなければ成り立たないのだ。それはわかっている。
「だからって、何にも思い出せない私責めたってしょうがないでしょ!!?」
 声のボリュームは最大限に抑えて、しかし腹の底から、フィリシアは叫んでいた。
 不安も動揺も、このあんまりな現実にはついてこられないらしい。ただ無性に腹が立って、こぶしを握りしめる。
 そしてようやく、フィリシアは手の中にマーサから奪うように持ってきたネックレスがあることを思い出した。
「これ、いつから持ってたっけ……?」
 もちろん記憶にはない。
 だが、エディウスに助けられたときにはもう持っていた。朧気ではあるが、この鍵の感触は覚えている。
「大切なもの? それとも、いらないもの?」
 とてもよくないものであることには間違いない。
 これを見ると胸の奥がざわつく感じがする。ここにきて一度も手にしなかったのは、それが持つ一種の禍々しさに反感を抱いたからに他ならない。
 しかし、あそこに放置してもしものことがあったらと思うと、そのままにしておく気にはなれなかった。
 フィリシアはマーサから奪い取ったネックレスを首にかけた。
 鎖でつながれた二つの鍵を指でつまみ、盛大な溜め息とともに胸の谷間へと滑らせる。
「最近胸がキツイと思ったら……」
 今更ながらに妊娠を思い出し、いっそう憂鬱になった。
「本人が一番驚いてるってオチがどーよって感じね……いっそ悩むのもバカバカしい」
 フィリシアは空を仰いだ。
 目に痛いほどの深い緑。その奥で、澄んだ空が風に揺れている。
「どうしよう」
 近くにある木に背をあずけ、フィリシアは視線を足元に落とした。
 悩んだってどうなるものではない。焦っても、解決する問題ではない。
 それはわかっている。
 今は前に進まなければならない時だ。悲嘆にくれて、大切な時間をつぶしていてはいけない。
 それも、わかっている。
「なんか、一人ぼっち……」
 そっと腹部に手をやって、フィリシアは深く息を吐く。
「お父さん誰なのかな?」
 自分のことなのに。とても大切なことなのに。
 今のフィリシアにはそんな単純で当たり前のことさえわからない。
「オレかもよ?」
 不意に、優しい声がそう言った。
「え!?」
 フィリシアが足元から視線をはずすと、目の前には少年がいた。
 柔らかそうな栗色の髪。同じ色の瞳は、いたわるような優しい光を宿している。
 上質だがシンプルなデザインの服をさりげなく着こなすその姿は、何度見ても王子というより良家の坊ちゃんのようである。
「アーサー……」
「オレかもしれない。父親」
 一瞬息を呑んだフィリシアに、アーサーはどこかいたずらっぽく微笑んでみせる。
「記憶、戻らないんだろ? だったら、オレかもしれないよ。兄上は公務で国を離れてはいない。オレである確率もある」
「――五ヶ月前の記憶はあるんでしょ?」
「さぁ?」
 アーサーが記憶をなくして帰ってきたのが失踪二ヵ月後なら、彼の記憶はそのときから今現在まで途切れていないはずだ。
 だが。
(もし、本当だったら? 私とアーサーの間で何かあって、それで――)
 それで、子供の父親が本当にアーサーだとしたら。
 フィリシアの記憶がないのをいいことに、真実を語ろうとしないでいるのなら、こんなに残酷なことはない。
(エディウス……)
 弟に婚約者を寝取られた王は、どんなに惨めな思いをしているだろう。
 死相のように張り付くあの陰りは、悲しみか絶望を意味するものか。
「私……ッ」
「冗談だよ」
 どこか遠くを見るように、アーサーが小さくそう言った。
「冗談。オレの子供ならいいのにって、そう思っただけ」
「思っただけ!?」
「だってオレ、子供好きだもん」
 パッとフィリシアに向けた瞳は、からかうように細められている。
「な、なによ〜!! ほ、本気でビックリしたじゃない!?」
「父親わからなかったら、オレと結婚しちゃう?」
「冗談!」
「本気だよ」
 くすっと笑う。
「そーゆーのもありでしょ。オレ、フィリシアのこと好きだよ?」
「〜〜〜ッ」
 唐突に語るアーサーに、フィリシアは赤面した。軽く言い流されているが、その告白はとても意味が深い。
 一年前の噂≠ナは、アーサーとフィリシアが恋人同士であったかもしれないという。
 その真相はわからないが、真相の断片がここには確かに存在する。
「普通に幸せに暮らしたいよな。当たり前に一緒にいたい。そう思うのは、罪だと思う?」
 柔らかく優しく、アーサーが微笑む。
「アーサー……アーサー、教えて。なにを考えてるの? 未来って、なに?」
 フィリシアは思わずそう聞いていた。アーサーの笑顔が、あまりにも優しすぎるから。まるで何もかも総てをあきらめるように微笑むから。
「私のなにを許してくれるの?」
 そう、聞かずにはいられなかった。
「――シア。人は、知らないほうが幸せでいられることがある。キミは、何も思い出さないほうがいい。きっと、何一つ」
「アーサー!」
「運命は残酷だから。人を簡単に狂わせるくらい残酷だから。キミは知らないほうがいい」
「ダメなの! 私、多分、いろんな人を――」
「シア。もう終わったことだ」
 そう言って、ふとアーサーの表情がひきしまる。
 強い風が吹きぬけ、大きく木々の葉を揺らした。葉のこすれる音がうるさいほど耳につく。
 アーサーの前に、男が現れた。全身黒づくめの男。何の装飾もない服は、まるで男の肌であるかのようにぴったりと無駄がない。
 かろうじて急所のみを守るように防具がつけられていたが、これも黒く、驚くほど薄かった。
 男はアーサーを見た。
「王子、退いてください。何者かが――」
 言いかけて、体勢を低くする。構えた手元が鋭く光った。手に持たれているのは針のように細い投擲用とうてきようの武器。長さは15センチほどだが、男の手にかかれば人の命など簡単に奪う恐ろしく強力な兵器となる。
「シャドー」
 アーサーが男の名を呼んだ瞬間、
「フィリシア!!!」
 ひどく間抜けな声が、あたりに木霊した。
 えっ。
 と、一同がつられたように間抜けな顔をする。深刻な表情だったフィリシアも、鋭い表情のアーサーも、シャドーと呼ばれた男さえも、滑稽なほど呆気にとられている。
 男が一人、背の低い木々を掻き分けるように走ってくる。
「フィリシア〜!!」
 森の緑に溶け込んでしまいそうな服を身につけた優男やさおとこが走る。黄金に輝く髪。ちょっとたれ目がちなグリーンの瞳には、印象的な泣き黒子がひとつ。
 白い肌に負けないぐらいの白い歯が、この上ないほど爽やかだ。
「フィリシア〜!!」
 男はハートマークが見えそうなぐらい甘い声で走ってくる。三人の動揺などおかまいなしといった様子で。
「………誰!?」
 異口同音、寸分の狂いもなく三つの口がそう動いていた。

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