【十八】

 いま、自分が何をしたのか。
 短剣をかまえたフィリシアは、混乱したまま身を引いて目の前に立つ黒装束の男を睨んだ。
「なにするのよ、危ないじゃない」
 アーサー専用の護衛である男に狙われる理由など思い当たらないフィリシアは、警戒をとかずにじりじりと後退して彼との距離をあける。
 短剣と長剣では明らかにフィリシアのほうが分が悪い。それに、男のほうが腕が長いぶん有利な戦況に導くことができる。
 フィリシアは剣をかまえなおし、ようやくその刃がいまだに鞘の中におさめられたままであることに気付く。戦うために剣に手をかけると、シャドーは音もなく身を引いた。
「警告する」
「……」
「深入りしてあの方を惑わせないでいただきたい」
「あの方……?」
「オレは、なにがあっても情はかけない――それだけです」
 突き放す言葉は事務的で感情の欠片もなかった。詳細を口にせず警告だけ発した男は、フィリシアが声をかける間をあたえず、戦意をとくなり間近にあった窓から身をおどらせた。
 とっさに窓に駆け寄ったフィリシアは身を乗り出し、人影がないのを確認して舌打ちする。男は見た目どおりに身軽で、想像以上に腕が立つらしい。
 フィリシアは鞘に傷がないことを確認して眉をひそめた。完全に気配が消せるような相手と対峙するなど正気の沙汰ではないが、かといって、二つ返事で身を引くほど素直な性格をしているわけでもない。
「だいたい、深入りって何よ」
 短剣を服の下に隠してフィリシアは歩き出した。
(私の記憶は、誰かにとって都合の悪いものだったの? 簡単に殺意を抱かせるくらい)
 シャドーの言葉にきっと偽りはないのだろう。害となるなら、そこに誰がいようとも無情に剣を振り下ろすに違いない。
 あの方が誰をさす単語なのかははっきりしないが、派手に動き回らないほうが賢明だと判断し、彼女はいったん足を止めた。
 浅く息を吐き出し窓の外を見て、人がいないことに安堵する。いまいるのは城の二階なのだから、普通はここまで警戒しなくてもいいのだが、相手が相手なだけにそうも言っていられない。
 面倒くさいことになったなと、彼女は嘆息していた。
「アーサーに何とかしてくれって言ってみようかなぁ」
 口に出してから苦笑いする。あの手の人間は、たとえ主人に厳命されていても必要とあらば自らの判断で最善と思える行動をとるだろう。周りの抑止などあってないようなものだ。伝えたところでアーサーを困らせるだけの結果になりかねない。
(……見つからなきゃいいんでしょ、ようは)
 アーサーの護衛が基本であるシャドーは、四六時中フィリシアを監視しているわけにはいかないのだ。隙は思った以上に多いかもしれない。うまくその隙に動けばいいだけの話だと、彼女は自分に言い聞かせる。
(よし、決定。……それにしても)
 フィリシアは布越しに剣に触れる。昨日エディウスから受け取った剣がさっそく役に立ったのだが、同時にこれをフィリシアに渡した男の心理に疑問をおぼえた。
 あんなに見事な装身具を作ることができるのに、なぜあえて短剣などにしたのか。昨日は驚いてすっかり流されたが、もっと華やかなものを贈られてもいいような気がして首をひねる。
「私の趣味かしら」
 欲しがっていたというのだから、そういう意味にも取れる。踊り子が身を飾る装飾品より戦うための武器を欲したのは奇妙な話だが、手にしっくり馴染むところをみると、あながち間違いというわけでもないようだった。
 何度目かの溜め息をつくと、大きな花瓶を持って歩いてくる女の姿が目にはいった。フィリシアはちらと窓に視線をやって足早に女に近づく。
 そうしてこっそりと同じ質問を繰り返す。
「フィリシア様のことですか?」
 女は目を丸くして言葉を反芻し、フィリシアの記憶がないことを思い出してすぐに口を開いた。
「ご家族はないと聞いておりますよ。旅はいつもお一人で、どこかで祭りがあるとそれに紛れ込んで踊っていたと。年若い娘が見事に舞うんです、すぐに噂にもなりますよ。なんでもご自分のことは一切語らなかったとかで、それがまた神秘的だと噂を呼んだようです」
「……へぇ」
 思い出すように虚空を睨みながら告げられる言葉の数々に、だから帰る家も調べられないのかと納得してフィリシアは複雑な心境になった。
 老医師に尋ねても無駄なはずだ。大陸一の舞姫なら有名人で、故郷などすぐに知れると思っていたが、過去の己の足跡は意外にきれいに消されているようだ。
「フィリシア様は舞姫と呼ばれるだけあって、目の醒めるような素晴らしい演舞を披露されて……あたくしは生涯、あれほどの舞を拝見することはないと思っています」
 こそばゆく感じながらもうっとりと語る女の話を聞いていたフィリシアは、最後の一言に目の色を変えた。
「知ってるの? 私の踊り」
「はい。戴冠式典で給仕を担当しておりまして、その時に」
「踊ってみせてくれる!?」
 勢い込んで頼むと、女は驚倒して顔を引きつらせた。
「踊るって」
「私がどんな踊りを踊ったか見てみたいの」
「そんな、突然……」
「お願い! 少しでいいのよ!」
 ずいっとつめよると、女は狼狽して後退りしはじめる。フィリシアは今にも逃げ出してしまいそうな女の腕をしっかりつかみ、懇願の眼差しを向けつづけた。
 しかし、彼女はなかなか頷こうとしない。
「少しよ? ほんの少し」
「無理です!」
「どうして?」
 小首を傾げると、女はさらに狼狽えた。そして、もごもごと聞き取れない言い訳を並べて、
「と、とにかく無理ですっ」
 きっぱりフィリシアに言う。納得いかないフィリシアは渋る彼女を問いつめた。そして、回答を得る。
 子供のころに多少踊りを習ったことがあるというまえふりをしてから訴えるには、卓越した舞は天性のもので、素人がそう簡単に再現できる代物ではないらしい。どんなに懸命に真似ても、希望にそえるものなど一生踊れないから勘弁してくれと涙ぐみながら訴えられた。
(……踊りにくいっていう問題じゃないんだ……)
 俄然興味がわいたが欲求は永遠に満たされそうにない。フィリシアが謝罪を繰り返す女に逆に謝り、質問をかえて婚約当時のことを尋ねると、彼女は安堵して口を開いた。
「陛下がフィリシア様を見初めたとき、まわりは本当に大騒ぎで……あたくしが知る限り、そりゃあお偉方は渋面でした。大国の王が、踊り子を正妻にするなんて、て。でもねえ、とってもお似合いだったんです。あたくしどもは、気位の高い王女様より、気さくで明るいフィリシア様が王妃になってくれたらどんなにいいかと話していたくらいで」
 当時を思い出したのか嬉しそうに笑顔を向けられ、フィリシアは赤面した。
 自分の話は聞くもんじゃない。誇張されているのか美化されているかはさだかではないが、面と向かって言われるとなんだか異様に気恥ずかしくなった。
 別のことを訊こうとして一瞬床に落とした視線を正面にむけ、そこでフィリシアは言葉をのみこむ。明るくしゃべっていた女の顔に暗いかげがちらついていた。
 彼女は無意識に吐息をついた。
「……アーサー王子と姿を消したと聞いたとき、陛下の失望の様が……」
「なに……?」
 どきりとしながら先を促すと、彼女は口ごもってから小さく言葉を続けた。
「……その、様子がおかしかったというか。おかしいのは当然なんですけど……あれから、まるで……」
 まるで幽鬼のようで。
 アーサー王子を見つけてから、それに拍車がかかったようにおかしくなった。
 どこが、とはいえない。
 なにかが、決定的に壊れてしまったような――。
「私と結婚って、まずくない?」
「……どうでしょうか。あたくしはただ、以前の陛下に戻ってくれればと、それだけで……」
 寂しげに笑う。
 いたたまれない気分になった。
 引き金を引いたのは、フィリシアという一年前の自分。アーサーは、果たして共犯者なのか、まったく別の意味を持った存在なのか。
「アーサー王子の記憶ですか?」
 女は少し考えるように間を空けた。
「いいえ、戻ったとは伺っておりませんよ。昔はもっと我儘でいたずら好きな、ちょっと手に負えない王子でしたが……そうですね、記憶をなくして帰ってきてから、すこし雰囲気が変わりましたね。よく城下町にも行かれるようになりましたし」
 そこまで言って、女が小さく笑い声をあげる。
「でもまあ、記憶がないんですから、まったく以前と同じというわけにはいかないでしょう。フィリシア様だって、やっぱり雰囲気が違いますしね」
「そうなの?」
「ええ、以前はもっと……なんて言うんでしょうかね、たくましかったと言うか」
「……そうなんだ」
 あまり嬉しくない表現に、フィリシアは溜め息をつく。
「フィリシア様?」
「ん……? ああ、大丈夫よ。ちょっと疲れただけ」
 顔色がさえないフィリシアに、女が急にオロオロしだす。
 病み上がりにもかかわらず、昨日あれだけ歩き回ったのだ。一晩寝たとはいえ、まだ全快するには体力が落ちすぎているのだろう。
「医務室が近くです!」
「大丈夫よ……大げさね」
 苦笑して軽く返したが、女の顔は不安げに青ざめていった。大丈夫と何度伝えてもいっこうに了承せず、気付けば彼女のほうがフィリシアよりも具合の悪そうな顔になっていた。素直に医務室に行ってやらないと、このままではこの女のほうが倒れてしまいそうな雰囲気だ。
「わかったわ。案内して?」
 フィリシアがそう言うと、女は大きく頷いた。


 そして、この何気ない行動が、のちに城中、国中を揺るがせるような大事件へと発展する。


 バルト国王の婚約者、舞姫フィリシア。
 わずか十七歳の彼女の体は、妊娠五ヶ月目に突入しようとしていた――。

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