【十七】

 城内には何本か主要となる通路がある。複雑な構造の城を効率よく渡り歩くならその道をとおるのがもっとも無難とされているだけに、人の多さも半端ではない。
 フィリシアは自分が優遇されていることにいまさらながらに気付いた。
 入り組んで奥まった場所の一室をあたえられているお陰で雑音などが一切届かないのだ。窓から見える景色も美しく、療養にむいていることを知る。
「普通はこうなんだ……」
 忙しげに山積みのシーツを運ぶ女の一群や、仕入れたばかりの野菜を調理場に運ぶ者たち、書類の束を手にしている者もいる。掃除道具を持った女もいた。
 この規模の城なら働く人間が多くて当然なのだが、なぜか彼女はすっかり失念していた。
「部屋で見たのって、マーサとエディウスと、見回りの兵士くらいだったような」
 想像以上に人が多く、彼女は誰に声をかけるべきかと思案する。さすがに片っ端から設問するわけにはいかず、彼女は邪魔にならないようゆったり歩きながらその通路を観察した。
 町に動脈となる巨大な道があるように、城内部にも同様の意味を持つ場所があるというのは面白い。町を建設した者たちは、この国を発展させるためにさまざまな考察を繰り返し、町と、国を象徴する王城を創り上げてきたのだろう。
 活気の種類が似ていることに気付いてフィリシアは小さく笑みをこぼした。
 そうして歩いていくうちに大きなドアにたどり着く。少し開けて中を確認しようと近づくと、ドアは内側から勢いよく押し開けられた。
「どいたどいたぁ!」
 大きな鍋を台車に乗せて駆け出す少年が威勢よく怒鳴る。もうもうと湯気をたてる鍋を見て、フィリシアはぎょっとして身を引いた。
「染色が通るぜー!!」
 少年が笑うと通路から悲鳴と罵声が飛ぶ。台車を押す少年は非難の声をものともせずに勢いよく駆け出し、真っ二つに分かれる人波にご機嫌な笑い声をあげた。
「あの馬鹿……」
 ずいっとフィリシアの隣に並んだ中年の女は、働き者であることが知れる硬い手で顔を覆って天井を見上げる。遠ざかる元気な声にいっそう深い溜め息を吐き出して項垂れた。
「染色?」
 フィリシアは少年が去った方角を指でさしながら女に尋ねた。
「糸を染めるための染料だよ。珍しいのが手に入ったから試さないかって持ちかけた行商がいて……ああ、あれじゃどやされるだろうねぇ。悪い子じゃないんだけど、まったく困ったもんだ」
「あんな小さな子が働くの?」
「よく働くなら雇ってくれるよ。当たり前じゃ――」
 そこまで言って女はフィリシアを確認して目を丸くし、見る見る青ざめていった。
「申し訳ありません!」
「え?」
 謝罪するなりひざまずこうとする女に、今度はフィリシアのほうが目を丸くして彼女の腕を掴んだ。
「どうしたの?」
「国王陛下の婚約者に、し、失礼な口を……っ」
「あ、頭下げなくていい! ちょっと訊きたいことがあるだけだから!」
 周りがざわめきだしたのに焦って、フィリシアは強引に女を通路の隅へと引っ張っていった。フィリシアの来る場所でないことは一目瞭然だが、質問するたびに低頭されてはたまらないので、恐縮する女に普通にふるまうよう頼み込んで一息つく。
 もう少し質素な服を着てこればよかったと内心で舌打ちし、彼女は緊張する女に向き直った。
「仕事の邪魔してごめんなさい」
「と、とんでもない!」
 大げさな身振りで返されフィリシアは苦笑する。記憶のない娘でも、未来の王妃という立場は想像以上に効果があるらしい。
 フィリシアは考えるように間をあけた。
 傷を癒すために療養にあてた一ヶ月間、彼女はあまり自分のことに興味を持てずにいた。自分をとりまく状況についていくのがやっとだった、というのが正直なところかもしれない。
 今でもまだ自分の居場所を確認してしまうほど、彼女はこの状況に慣れていない。だが、慣れるまで悠然とできるほどの時間がないことを今になって知った。
 なにもかも投げ出して逃げることはいつでもできる。
 過去から目をそらし、与えられたものすべてを従順に受け入れることも、現実から逃げるのと大差ないだろう。
(それじゃ駄目なの)
 フィリシアは自分に言い聞かせる。
 決定的に抜けている真実を、かみ合っていない記憶の断片を拾い集めなければ、きっと一生後悔する。
 それは予感ではなく、確信。
 不意に脳裏に浮かんだ銀の影にフィリシアは瞳を細めた。彼に対する想いも、過去を知れば変化するかもしれない。
「……訊きたいことがあるの」
 大きく息を吸い込んで言葉をかけると、女はかしこまった表情で頷いた。
「なんでございましょう」
「ん……あのね。その……」
 一瞬言いよどんで、フィリシアは唇を噛む。
「えっと……一年前ね……私、どうして……その……いなくなったのかな、とか」
 女は困ったように視線を泳がせた。人差し指で頬を掻き、ついで小さく唸り声をあげる。
「一年前……婚儀の当日、ですか」
「ん」
「……あたしも、詳しくは存じ上げません。ただ……その……ですね。フィリシア様は、アーサー王子といっしょに姿を消したという噂で」
「アーサーと?」
「ええ……で、実は、フィリシア様とアーサー王子が恋仲だったんじゃないかと……」
「え……?」
 ひかえめに告げられた言葉にフィリシアは耳を疑った。
 だから、王との婚礼の当日に王子と逃げた――。
 流説だ。ただの下世話な噂話。
 だが、当の本人たちはそろって記憶がなく、確認する術もない。
 実際にエディウスよりアーサーのほうが年齢的につりあい、社交的であるため、親交は深かったらしい。なにかの拍子に一線を越える可能性がないとは言い切れなかった。
「なんかそれって……泥沼っぽい」
 フィリシアは戸惑う女に礼を言い、悶々としながら調理場を離れた。
 情報が欲しい。
 少しでも多くの情報を集めて、真実に近付かなければならない。
 フィリシアは顔をあげた。
「次!」
 どこでもいい。誰でもいい。「フィリシア」のことを少しでも知る人間を探そう。「彼女」にまつわる人間の情報も同時に集めよう。真実は、必ずどこかに隠れている。
「……え? アーサー王子ですか?」
 大きな通路から少し離れた場所で書類を運んでいた男を廊下で掴まえ、フィリシアは真剣な面持ちで彼につめよった。
「いや、詳しくは知らないんですけど」
 男は言葉を濁す。
「森の中で、王が見つけたとかって……」
「エディウスが?」
「ええ。失踪から……確か、二ヵ月後だったかな。しばらくは、すごい荒れようでしたよ。自分はアーサーじゃないって」
「え?」
「なにを言っているのかよくわからなかったんですけど、それがある日ぱたりとやんで。自分はそれがかえって不気味でした」
 そして、さんざん自分はアーサーじゃないと言い張っていた彼は、急に記憶がないと言い始めた。
「確かに記憶はないようでした。王やご自分の名前、最低限のマナーも何もかも、覚えてはいらっしゃらなかったのですから」
 同情するように男はつぶやく。
「なにか、よほどつらい目にお遭いだったのだろうと思います。まるでそれをごまかすように、いまのアーサー様は明るく振舞っておられる。自分はそれが、かえって辛いです」
 一年前の失踪?
 男は首を傾げるようにフィリシアの言葉を反芻してつづけた。
 アーサー王子がフィリシア様とともに姿を消したとしか、伺っていません。確かにお二人は仲がよろしかったように見受けられましたが、恋仲だと思ったことはありませんよ。
 自分には、フィリシア様は王を慕っているようにしか見えませんでした。
 アーサー様とは歳も近かったし、ご兄妹のような間柄だと解釈しています。
「……まあ情報は同一じゃないけど」
 会釈して遠ざかる男の背を見送って、さっそく食い違い始めた情報に、フィリシアは溜め息をついた。
 人の記憶は意外にあてにならない。きちんと覚えているようで忘れていることも多く、別の記憶にすりかえられたり誇張されたりすることもままある。
(とにかく、集められるだけ集めよう)
 彼女は景気づけるように頷いてさらに人を探す。本当に一年前の失踪事件にアーサーが関係していたのか、その真意も知りたい。人のいる場所に向かって歩を進める途中、フィリシアは異様な気配に足をとめた。
 手がとっさに銀細工の剣にのび、体勢を沈めると同時にそれを頭上へと移動させた。
 己の理解できない行動に驚くよりも早く、鈍い金属音がフィリシアの耳に届き、銀の剣を持つ手に衝撃と痺れが訪れた。
「――お見事」
 低い声が、さしたる抑揚もなくなくつぶやく。見開いたフィリシアの黒瞳いっぱいに研ぎ澄まされた剣と男の顔が映っていた。

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